08


ある日のことだった。相変わらずニールさんのお側で雑務をしていたときに、おつかいを頼まれた。

「ケイ、パルマコスタワインを一本、買ってきてくれないか?なるべく年代物の高級なものがいいんだが」
「パルマコスタワインですね、分かりました。今日は何か特別なお祝いですか?」
「あぁ、ドア総督の誕生日なんだ。高いもので全然構わないから、いいものを頼む」
「分かりました」

ニールさんは私にお金を渡すと、少し心配そうに私を見つめた。

「…ただし、いつものように倒れたりしないでくれよ」
「ははは…大丈夫です、多分」

私はわりと頻繁に、意識を失うようになっていた。頭の中で不思議な音が響いて、いつも意識を失うその前に見る景色は、柔らかいのに鮮烈な、赤。

失くしてしまった記憶と何ら関わりがあるようには思うのだが、一向に何も思い出せないままだ。なるべくこういうことにはならないようにしたいのだが、自分の体はそう上手く出来ていないようで、いつもニールさんたちに心配をかけてしまう。

意識を失った後、毎回気付いたらベッドの上で、その傍らでニールさんが仕事をしながら私のことを見ていてくれた。ありがたくて、そしてとても申し訳なく思う。

「…多分というのが気になるが…まあ、今は君しか頼める人がいないんだ、無事に帰ってきてくれよ」
「はい、パルマコスタワインを買ったらすぐ戻ります」
「10分たっても帰って来なかったら、探しに走るからな」
「はい」

心配性なニールさんのことだから、本当に走って探しに来そうだ。私はあまり心配をかけないように笑って返事をして、パルマコスタワインを買いに街へ出た。



なるべく年代物の、高級なパルマコスタワインを買って、私は店を出た。今日は天気もいいし、体調も悪くない。

小鳥が囀りながら空を駆けていく様を見つめながら、私は大きく深呼吸をした。外は魔物が行きかっているし、ディザイアンがいろんな場所を脅かしているが、ここはドア総督をはじめ、みんなが活気付いて暮らしている。一概に平和というには少し違う気もするが、それでも平和を感じずにはいられない。

そんな日々を送りながら、私は最近よく考えることがある。失くしてしまった記憶を取り戻すことは、果たして幸せなのだろうか、と。

失ってしまったものはあまりにも大きい。だって私は、自分の年齢も、素性も、何も知らないのだから。けれど今焦ってその記憶を取り戻そうともがいたところで、一体自分に何の得があるのだろう。私は今、こうして幸せを感じながら生きている。過去の記憶が溢れようとすると、いつも意識を失ってしまうし、たくさん迷惑をかけてしまうけれど、もし自分が記憶を求めなければそういうこともなくなるんじゃないかと思う。

私はきっと、無意識のうちに失くしてしまった記憶を求めてしまっている。それは自分のことを何も知らないままここにいることがとても不安で、押しつぶされそうに怖くなる瞬間があるからだ。

もしも自分が犯罪者だったら?
もしも自分がディザイアンだったら?

夜、一人きりになると、いつもいろんなことを考え込んでしまう。もしもの話なんて、結局は仮定でしかないけれど、それが現実だったとしたら……私はここにはいられない。

この話をニールさんにしたら、きっと彼は悲しそうな顔をして怒るんだろう。
そんなことを言うな、側にいろ、と言いながら。

「…」

私は左手の薬指を見つめた。相変わらず指輪焼けの跡が見える。ニールさんは私のこの左手を握り締めながら、少し前、私に言った。


『私は君を愛している。君の中で過去と決別がついたなら、ずっと私の側にいて欲しい』


とても、とても、嬉しかった。それ以上に、たまらなく苦しかった。

困惑する私を見つめて、ニールさんは笑いながら「返事はいつまでも待つよ」と言ってくれた。ニールさんの手を取って彼と生涯を共にすることを誓えば、彼は喜んでくれるだろうし、私のことを何より大切にしてくれるだろう。何一つ思い出せない愚かな私を、目一杯愛して、幸せにしてくれるだろう。目を閉じれば、幸せな二人の姿など容易く思い浮かぶのだ。

だけど、簡単にその手を選ぶことなんて、私には出来ない。何度も選ぼうと思った。しかし、そのたび頭の中で私を呼ぶ声が聞こえるのだ。酷く優しい声で、酷く寂しい声で、酷く懐かしい声で、ケイ、ケイ、と。

今にも泣き出しそうなその声を聞くたび、私も泣きたくなってくる。その声が聞こえるたびに、私は過去を求めてしまう。

「…はぁ」

…考え出すと、憂鬱になる。
少し溜め息をつきながら総督府の側まで戻ってくると、見慣れない服を着た黒髪の女の人が総督府の前に佇んでいた。女性と呼ぶにはまだ早いような、少女と呼ぶには少し大人びたような、不思議な雰囲気を漂わせるその女の人は、総督府を真っ直ぐに見つめている。

旅の人かしら?

私がここへ流れ着く少し前に神託があり、神子さまも世界再生の旅に出られたという話をニールさんに聞いていた。それと同時に旅に出る若者も急激に増えたらしい。神子さまに一目お会いしようと村や町を飛び出す若者が多いそうだ。彼女もまた、その一人なのかもしれない。

私は特に気にすることなく総督府へ足を進める。総督府の中へ入ろうとしたときに、何となく一度、彼女の方を振り向いた。その行動に、別に深い意味はなかった。ただ本当に、なんとなく、そうしてみただけ。

すると彼女と目が合った。彼女は切れ長で綺麗な目をしていたが、私と目が合うと、その目を丸くさせた。

「……ケイ?」

少し間を空けて、彼女は私の名前を口にした。私も驚いて目を丸くさせる。

なぜか、懐かしいと思った。

「…あ、あの、」
「ケイ…ケイじゃないか…!」

彼女は私に駆け寄ると、私の肩をがっしりと掴んだ。私は思わず仰け反る。

「やっぱりこっちにいたんだね…!あぁ…無事でよかった…!」

今にも泣きそう顔で彼女はそう言うと、私を力強く抱きしめた。私は混乱する。

「あ、あの、あなたは、」
「ほんとに、ほんっとに良かった…」

彼女が私を離す気配はない。私はいてもたってもいられずに、口を開いた。

「あ、あのっ!」
「ん?」
「あ…あなたは……あなたは、私を知っているの…?」

私がそう言うと、彼女は弾かれたように顔を上げた。さっきまでの優しい表情とは違って、今彼女の顔は険しさで満ちている。なんだかまずいことを聞いてしまったような気がして、私は肩をすくめた。

「えっと…あの、ごめんなさい、変なことを聞いてしまって…」
「…あんた、ケイ、だよね?」
「ケイ、だと思うんですけど…」

なんだか歯切れの悪い返事しか出来なくて申し訳なく思う。

「…あたしだよ、しいなだよ!藤林しいな!…忘れちまったのかい?」
「しい、な…」

不安そうに彼女は―――藤林しいなと名乗った彼女は言った。

何かが、私の内側から溢れてくる。リイィィィィィィィィンと頭の中で音が鳴り響いて、私は思わず頭を抑えて蹲った。

「ぅ…うぁ……うあぁぁぁぁ…!」
「ケイ!?ケイ!どうしたんだい!?」


―――ケイ


また、懐かしい声が私を呼んだ。目を見開くと、そこには、いつものように赤が広がるだけの景色ではなかった。そこには、少し遠くに、誰かの後姿があった。


―――ふわふわと揺れる赤く長い髪を靡かせているその後姿を、私は、知っている。


その後姿は、なぜか今にも消えそうなほどに儚かった。紛れもなくあれは、男の人の後姿だ。そして彼が振り返るその瞬間、私は意識を手放した。

 

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