05
夜は深く、暗い。
ケイは時々そんな暗闇を怖がって、夜な夜な俺のベッドに潜り込んで眠った。
そのたび何度もケイに出しかけた手を引っ込めるのに必死だった。ケイはそんな俺の行動に、微塵も気付いていなかったみたいだけど。
安心しきって眠るケイの寝顔を見ると、次第に俺の心も穏やかになって、最後は結局眠くなる。眠るケイの柔らかな唇に自分の唇重ねて、出来るだけ優しく抱きしめてそっと瞼を閉じれば、いつだって優しい夢がみられた。いつもは俺よりもずっと早くに目覚めるケイ。けれど俺の隣で眠った翌朝だけは、絶対に俺よりも深く眠っていた。
死んでしまったんじゃないかと疑いたくなるほどに、深く眠り続けるのだ。
それが怖いから、静かにケイを起こせば、寝ぼけ眼でふにゃりと笑いながら「おはようゼロス」と幸せそうに言うのだ。そのたびに愛しいと思って、こっちまで幸せな気分になる。こんなに優しくて穏やかな気持ちを与えてくれる女は、ケイ以外にいない。
そのケイが、誰より愛しい恋人が、俺の前から姿を消した。
ケイが俺から離れたくなるような出来事に、思い当たる節は腐るほどある。昔、ケイに冗談で言った「別れる?」の言葉。本気だったわけじゃない、だけど間違いなく、あの時からおかしくなった。
あれ以来、ケイが俺の女遊びに対して文句を言うことは一度もなかった。どれだけ俺が女遊びに明け暮れようと、どれだけその現場を目の当たりにしても、ケイは俺を責めなかった。それどころか、いつものように俺に対して笑っていた。
俺はそれが、なんとなく悔しかった。
ケイは俺に呆れてしまったのかもしれない。けれどいつまでもケイの薬指から指輪が消えることはなかった。それが尚更、俺を惨めにさせた。ただ純粋に、もう一度、あの日のようにケイに縋ってほしかった。
幼かった俺の意地がケイを苦しめていたということに、心の奥では気付いていたくせに。
なのに俺は女遊びをやめなかった、やめれなくなってしまっていたんだ。それが自然と日常になって、いつしか俺は5年という月日に甘えるようになっていた。確証なんてどこにもないのに、ケイは俺の側から離れないというその妙な自信を、たった5年で築きあげてしまっていたらしい。
結果、ケイは俺の前から、何の前触れもなくあっさりと姿を消した。
…いや、前触れはあった。
今日のケイはいつになく素直で、そして切なく笑っていた。ケイの様子がおかしいことには気付いていたのに、気にしなくなってしまったのは、5年という月日で側にいるのが『当たり前』になってしまっていたこと。
『当たり前』なんでどこにも存在しないものなのに、いつから俺は当たり前ではないことを『当たり前』だと感じるようになってしまったんだろう。
ケイを追い詰めていたのは、他の誰でもない、俺だ。追いかけて、捕まえて、抱きしめて、二度と離さないように。世界で一番愛しい存在を、当たり前だと感じてしまわないように。
後悔しても遅いことがあることくらい、俺は知っている。いくら悔やんだって元に戻らないことがあることを、誰よりも知っている。
だったら新しく始めればいいんだと、そう教えてくれたのはケイだった。
その笑顔の裏で、どれだけ涙を流していた?
その涙の影で、どれだけ俺を想ってくれていた?
写真に書かれた最後の文字―――
愛しています
さようなら
まだ俺が、過去になってしまっていないのなら。まだ俺が、ケイの心を繋いでいるのなら。
簡単ではないけれど、まだ新しく始められるはずだ。
東の空。
なるべく低空飛行を心がけてはいるが、相変わらず視界が暗い。急いでケイを探したいのはやまやまだが、あんまりスピードを上げすぎると何にも見えやしない。
―――くそっ
心の中で悪態をつく。焦るな、焦るな。焦る自分と冷静な自分。どっちが本当の自分かなんてどうでもいい。
ひたすら空を飛んで、ケイの乗っているレアバードを探した。必ず見つかると信じて、俺は疑わなかった。
すると風の音しか聞こえないはずの俺の耳に、ガコン!という大きな音が響いた。音の方を見れば、月明かりに照らされた見慣れない孤島から、僅かに煙が上がっているのが見えた。
まさか。
俺は血の気が引いていくのを感じる。ケイには一度もレアバードの運転をさせたことがない。何かあったとき、ケイ一人だったら助けようがないからだ。そのケイが今、一人でレアバードに乗っている。いつ不時着しても、当然、不思議ではない。
「ケイ…!」
頼むから、どうか、どうか生きていてくれ…!
俺はあの孤島に向かって、レアバードを走らせた。
孤島の上空から、三つの大きな岩の真ん中に横たわる人影を見つけた。間違いなく、探し続けた人物である。
「ケイ!」
叫んでみるが、彼女には声が届かない。この声が酷く憎いと思った。俺は孤島の端にレアバードを着陸させる。その傍らには、羽の折れたレアバード。間違いない、ケイは着陸に失敗している。
背筋が凍った。もし、もしもケイが――――
嫌な思考を振り切れないまま、俺はケイの側まで走ろうとした―――そのときだった。
眩い光がケイを包む。今までにないほど、嫌な予感。弱々しく体を持ち上げるケイの姿が見えた。生きていると確認できただけでも十分だ。俺はケイの名前を叫びながら駆け寄った。
「ケイ!」
それでもケイは振り向かない。俺はもう一度、今までにない程の声で叫んだ。
「ケイ!!!」
すると弾かれたようにケイが振り向いた。少しだけケイの体が透明になっている。
頼む、頼むからケイを連れて行かないでくれ…!
必死に駆け寄ってケイの腕を掴もうとした瞬間、ケイが昔のようなあどけない表情で、笑った。
「やっと名前、呼んでくれたね」
刹那、体が動かなくなった。それと同時に、ケイは、光に飲まれて、消えた。
愕然としてその場に座り込んだ、俺。
不気味な程に静かな夜。風の音だけが妙にうるさい。
当たり前になっていたケイの存在を、そうすることが当たり前であるかのように、光はさらって行った。
最後にケイのことをケイの名前で呼んだのは、一体いつだった?いつから俺はケイのことを、名前で呼ばなくなった?呼んでいたつもりだった、けれどケイは呼ばれていなかった。
ケイはいつだって、どんなときだって、俺の名前を呼んでくれていたのに。
「…ケイ」
噛み締めるように、もう一度、彼女の名前を呼んだ。どうして、どうして動かなかったんだ、俺の体。
「ケイ、」
あの時確かに、ケイの腕を掴んで、引き寄せて、抱きしめられたはずなのに。ぽたり、と生暖かい雫が俺の無力なてのひらに落ちた。雨なんて降っていないのに。
「ぅ……うああああああああああああああああああああ!!!!!」
涙だけが、俺の叫びを聞いていた。
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