13


記憶は、定かではなかった。
けれど彼が部屋に現れた途端、いろんな感情が溢れてきて、もう自分では御し切れなかったのだ。

ふわふわと揺れる紅い髪、派手なピンク色の服。私は彼を、彼の後姿を、言葉を失くしたあの日から、夢の中で毎晩見続けてきた。なのにこの腕は決して届かないし、彼が私の方を振り向くその瞬間、いつも私は目が覚める。結局顔は知らなくて、だけどすごく懐かしいのは確かで、今私が一番求めているのも確かだった。

そのくせ私は、彼を思い出せない。知っているはずなのに、誰よりも一番、知っているはずだったのに。

彼が私の頬に触れる。このてのひらを、私は知っている。ぼんやりと切ない気持ちが込み上げている私の頬に伝った涙を、彼はそっと拭った。


「…やっと、見つけた」


彼がそう言って笑った瞬間、溢れた感情は決壊して、訳も分からず彼に抱きついていた。彼はそんな私をぎゅっと強く抱きしめる。少しずつ彼の腕の力が増して、だけど全く苦しくなくて。

「…ごめんなケイ、迎えに来るのが遅れちまった」

彼はそう言って、私の頭をそっと撫でる。どうして名前を呼ばれるだけで、こんなに満たされていくのだろう。

私も何か答えようと必死に声を探すが、情けない呻き声のようなものだけが口から零れていくだけだった。
情けなさに、再び私は涙した。

「無理しなくていい」

彼はそんな情けない私を解放すると、そう言って笑ってくれた。ぼろぼろと溢れる涙を、その手でそっと、優しく拭う。

「…俺のこと、分かるか?」

彼が言った。

分からない。けれど知っている。

この曖昧な感情を、どうやって言葉にせず伝えればいいのだろう。このとき初めて、言葉を失った自分が憎いと思った。何度も何度も、声を上げようと試みるが、結局それらは声にならない。彼はそんな私の唇にそっと指を当てた。

「喋れないのも記憶を失くしたことも知ってる。だから、無理しなくていい」
「……」
「俺のことは、覚えてるか?」

優しく彼は聞く。どうやってこの気持ちを伝えればいいのか分からない。

私は仕方なく、首を横に振った。彼の目が悲しげに歪んだけれど、そうじゃないとすら言えない。

「…じゃあ、俺のこと、なんとなく知ってはいるんだな?」

この問いに、私は素直に頷いた。なんて曖昧で、理解の難解な返事なんだろうということは分かっていたけれど、でもどうしようもなかったのだ。

頷いた私を見て、彼は静かに笑った。その笑顔の裏側で眠る心は見えない。彼はゆっくりと、懐かしい声で続けた。

「俺さまは、ゼロス。ゼロス・ワイルダー」

その名前を、私は知っている。

「シルヴァラントじゃない、テセアラっていうところの神子だ」

そう、私が知っているのは、こちらの神子。

「ワイルダー家っていう有名な貴族なんだぜ?俺さま」

そして私は、その家に、

「そこにケイも住んでた」

そう、そうなの、住んでいたの。知ってる。なんとなく、覚えてる。

「ケイの両親はな、ケイを残して死んじまったんだ。ひとりぼっちになっちまったケイを、俺はワイルダー家に迎えた」

あぁ、そうだ、そうだった。そんな気がする。

「そしてケイは―――」

彼はそっと、私の左手を持ち上げた。その薬指にそっと、懐かしいシルバーリングを嵌める。

「…!」

私は目を丸くして驚いた。日焼けの後にしっかりとはまるその指輪も、私はちゃんと知っている。

「俺の、恋人」

彼はそう言って私の薬指に、優しすぎるキスをした。寂しいとき、つらいとき、いつも私が自分の薬指にそうしていたように。

「…やっぱりちょっと痩せたな。ちゃんと食ってるか?」

少しだけゆるいシルバーリングを見て、彼はそう言った。そして真っ直ぐに私を見つめると、彼は優しく笑った。

「何か思い出したか?」

ぼんやりと、思い出せているのに、核心に迫れないのはどうしてだろう。そしてこの曖昧な気持ちは、やはり言葉にしなければ伝えられない。うまく話せないでいる私を彼はそっと抱きしめた。それを拒絶しようだなんて、微塵も思わなかった。私は彼の背中に腕を回し、その腕の中でそっと目を閉じる。穏やかな気持ちになれた。

「そんなすぐにいろいろ思い出せってのも酷だからな。ゆっくりでいい。俺さまのことが分かるんなら、今はそれでいい」
「っ……、……!」
「だーかーら、無理はするなって」

彼はぽんぽんと私の背中を叩いた。声にならない声を張り上げようとする私の姿は酷く滑稽なはずなのに、彼はそんな私を笑うことはなかった。

「…とりあえず、しいなをひとりにさせちまってるから、ちょっとあいつを宿まで送ってくる。そしたらまた戻ってくるから、いい子で待ってろよハニー」

彼はおちゃらけた様子でそう言うと、私を解放して行ってしまおうとする。なぜかそれがすごく嫌で、不安で、私は思わず彼の腕に縋りついた。彼が驚いた様子で私を見つめる。


―――行かないで


声にならない声だけど、私は必死に伝える。こんな風に縋りつく私は、彼の目にはどんな風に写っているのだろう。彼はなぜかとても嬉しそうに微笑むと、そっと私の頬に触れて、そして―――

「…!」

ずっと昔に落としてくれたような、そんなキスを私に送った。全身から力が抜けて、私は彼の腕を解放する。しばらくしてキスが止むと、彼は真っ直ぐに私を見つめていた。その目はとても真剣で、吸い込まれそうなほどに綺麗な空色だった。

「もう、ケイだけだ」
「…?」
「俺にはもうケイだけなんだ。もう、ケイの存在を当たり前だなんて思わない」
「……、…?」
「愛してるぜケイ」

その言葉に、私の全てが満たされていった。そして再び涙する。一体どれだけ涙を流せばいいのだろう。彼は私の涙を拭って、また笑った。

「泣くなよ」
「〜〜〜〜っ」
「ちゃーんと帰ってくるから、それまでいい子で待ってろよ。分かったな?」

彼の言葉に頷くと、彼は私の額にキスをして、頭をくしゃりと撫でて行ってしまった。さみしいけれど、不安はなかった。彼はまたここへやってきてくれるのだから。

私はふと思いついて、部屋の中にあるレターセットを探すと、それにつらつらと想いを綴った。綺麗な言葉なんかじゃないけれど、せめてこの想いが伝わるのならそれでいい。今言えなかった言葉を、全部伝えられるならそれでいい。

私はお気に入りの紅いレターセットに想いを綴ると、それにそっとキスを落として、ベッドの脇に置いた。空を見上げると、青く綺麗な空が窓の向こうに広がっている。彼の瞳ように、綺麗だな、と思うと温かな気持ちになった。思わず顔が綻ぶ。

左手の薬指に嵌められたシルバーリングが、私に足りなかったものを全て埋めてくれたような気がした。

 

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