ただ無意味に、隣にいることが多くなった。それが高校二年の夏だった。 言葉を多く交わした記憶はないけれど、同じ空間の居心地の良さがひどく馴染んで、無愛想で無口な彼とよく一緒にいるようになった。彼の兄弟たちやクラスメイトたちによく付き合っていると勘違いされたけれど、お互いにそう言った話が出ることはなかったから、きっと付き合ってはいなかったんだろう。だって私たちは、手を繋いだことも、お互いを好きだと言ったこともなかったのだから。 ただ、高校を卒業したその最後の日、夕焼けが沈む中で落とされたキスの意味を、私は今でも知らないままだ。 あの日は確か、最後だからとわざわざ彼が遠回りして私を家まで送ってくれた。特別な言葉を交わし合うわけでもなく、いつも一人で歩く通学路を彼とゆっくり歩きながらいつもの調子で淡々とぎこちなく言葉を紡いでいた。思い出に浸ることも別れを惜しむこともない、まるでいつも通りな二人だったけれど、最後の最後に違ったのは、またね、がさよならに変わったことと、最後にキスをしたことくらいだっただろう。 あれから五年、あのキスの意味を今になって考えては思い出す。彼の意図は今も分からないけれど、彼の後姿を見送りながら訳も分からず私が流した涙だって、彼は知らない。 同窓会のはがきを見つめたままタクシーに揺られて、不意に思い出した懐かしい温もりに僅かに胸が痛んだ。恋人にもらったばかりのペアリングが、なんとなく重い。タクシーは同窓会の会場であるホテルに到着し、私を降ろすとさっさと去っていく。少しだけ深呼吸をして、私は重い足取りで会場へと進んだ。 懐かしい顔ぶれが並び、思い出話に花が咲く。笑いの絶えない空間の中、私は心の中でひどく重いため息を吐いた。彼も、彼の兄弟たちも来なかった。 酒も進み、徐々に二次会の話が持ち上がる中、一足早く会場を抜け出した私は、少しだけふわふわとした足取りで酔いをさますためにも僅かに冷える夜道を歩き出した。仲の良かった友人に一言メール入れて、薄暗い道を進んでネオンの光る駅に向かってゆっくりと歩く。欠けた月を見上げながら、私の心みたいだなとぼんやり思う。 薄暗い道を抜けて、ようやく明るい大通りに出れば人も多くなり、たくさんの人に紛れて私も広い交差点で信号が青に変わるのを待っていた。すると、ふと視線を感じたような気がして反対側の人並みに目を向ける。そこには夜にまぎれてしまいそうな紫色のパーカーを着た男の姿を見つけた。 ぼさぼさの頭がやけに目につく。背中を丸めて、顎のあたりにマスクをして、スリッパを履いて、あの頃とあまり代わり映えのない姿に、少しだけ息が止まった。 信号が変わって、男がこちらに歩いてくる。私は動けないまま、ただ彼をじっと見つめていた。男は私の前に来ると、その足をピタリと止めて私を見下ろす。あの頃よりも男らしい、それでいて懐かしい瞳が私をとらえた。 「ん」 彼は特に何かを言うわけでもなく私の手を取ると、その手を握って今しがた歩いてきたばかりの道を歩き始めた。私は何も答えないまま、素直にその後に続く。彼は私の手を握ったままネオンの街を抜け、時間をかけてしばらくのんびりと歩きながら静かな人気のない公園に私を連れて行った。ブランコの前で手を離されたのでそこに腰を下ろすと、その間に彼は自販機に行って飲み物を買い戻ってきた。 「ありがとう」 礼を言いながら差し出された飲み物を受け取る。手渡されたのは高校時代にずっと飲んでいたホットココアだ。プルタプをあけてそっと口をつければ、懐かしい甘さが口いっぱいに広がった。彼は隣のブランコに腰掛けてホットコーヒーを飲んでいる。 「よく見つけたね、私のこと」 「どうせ抜けるだろうなって思ってた」 「どうして?」 「昔からそういうの嫌々参加してたから」 そうだ。嫌々参加して、無理して笑ってたら彼がいつもこうして輪の中から私を連れ出してくれた。懐かしくて、ふと口元がほころぶ。 「あの人ごみで私のこと見つけるなんて、相変わらず勘がいいよね一松くん。下手したらすれ違いになってたかもなのに」 「渓のこと、見失ったことないから」 「そっか」 ぶっきらぼうな言葉だけれど、あったかい。じんわりと胸に広がる温もりをかみ締めながら、わたしはもう一度ホットココアを口にした。こくりと一口飲み干すと、視線を感じたのでその視線を辿る。すると男らしくなった一松くんが、じっと私を見つめていた。 「…なあに?」 「いや…」 一松くんは何かを言いかけて目をそらす。昔から彼はこうだった。物言いたげな顔をするけれど、視線をそらしてそれ以上の追及を避けるのだ。変わらないな、と思いながら私も彼から視線をそらそうとしたのだが、ふと頬に触れられて思わず一松くんに顔を向けた。そこには、少しだけ照れたように頬を赤らめる一松くんの顔がある。 「綺麗になったな、て、思って」 言ってから、彼は照れたように視線をさまよわせる。どうして今更、こんなことを言うんだろう。やけに高鳴った私の心臓の音は、彼に聞こえない程度に何度も響く。私は頬に添えられた手のひらに自身の手のひらを重ねて、少し冷たい彼の体温を感じながら微笑んだ。 「一松くんも、すっかり男の人になったね」 目を閉じて、大きくて無骨な手のひらの感覚を確かめる。唐突に手放すのが怖くなって、私はきゅっと彼の手を握る。 「渓」 名前を呼ばれて、閉じていたまぶたをゆっくりと開く。一松くんは私の目をまっすぐに見つめていた。その視線に答えるように、私も彼を見つめ返す。 「今、幸せ?」 その問いかけに、思わず泣きそうになった。うまく答えられなかったかわりに一度静かにうなずけば、一松くんはふっと寂しげに、それでいて優しそうに笑った。それは最後にキスをしたあの日、その一日だけ見たことのある彼の表情と同じものだった。 「なら、いい」 「…一松くんは」 「ん?」 「一松くんは、今、幸せ?」 同じ問いを返すと、彼は少しだけ迷った様子を見せてから意を決して口を開いた。 「ううん」 一松くんは小さく首を横に振って、すっと息を吸った。 「あの、」 「…なあに?」 「あの時、ずっと言えなかった」 「うん」 唐突に告げられた言葉がいつのことを示しているのかを、私は知っている。私は小さくうなずいた。 「好き、だった、ずっと」 一松くんの声が震える。うつむいて、吐き出された言葉は過去形だったけれど、その想いが今もまだ彼の心の中に潜んでいることは、もう私も気付いていた。ああ、いっそのこと、気付かなければよかった。彼の想いも、彼への想いも。実らない初恋が、私の目の前で眩しいほどに輝いて、夜の闇に溶けていく。 「うん、私も、好き、だった」 「…知ってた」 一松くんはふっと表情を和らげると、そっと私に顔を近づけて、触れるだけのキスをする。彼が握った私の左手は、ペアリングごときつく包み込んで隠してしまう。それが痛くて、とうとう涙がこぼれた。目を閉じて、きっともう二度とこないこの時間を抱きしめる。 唇を離した一松くんは、じっと私の顔を眺めてから、少し悩んだ後にパーカーの袖で私の唇と濡れた頬をぬぐうと、そっと口を開いた。 「あの日…」 「うん?」 「あの日も、泣かせた。ごめん」 「…知ってたの?」 「うん」 あの日、彼の後姿を見ながら泣いたことを、一松くんは気付いていたらしい。ちょっと申し訳なさそうな彼を見て、胸の奥が痛む。そばにいたいという気持ちをぐっと押し込めて、笑ってみせた。 「もう、気にしなくていいよそんなの」 「うん」 一松くんは頷いて立ち上がると、私の手を引いた。 「帰ろう。駅まで送る」 「…駅から先は、だめ?」 ぽろりとこぼれた声は、吐き出すつもりはなかった。やってしまった、と思ったときにはもう遅くて、一松くんは驚いた顔で私を見つめている。そしてしばらく間をあけてから一松くんはゆっくりと言葉を放った。 「だめ」 「…だよね」 「でも、送り狼になっていいなら、いい」 思わぬ言葉に、今度は私が目を見開く番だった。夜の闇にも分かるくらい、一松くんの顔は真っ赤に染まっている。 「送るなら、もう我慢しない」 卒業の日、彼は私に何も言わなかった。私もまた、彼に何も言わなかった。本当は心のどこかで期待していたくせに。一松くんが我慢していたのだとしたらそれはきっと、自分なんて、というネガティブな彼らしい思考からなんだろう。一松くんはいつも自分自身を見下していた。そんなことなかったのに、そんな彼だから、私は好きなのに。 この想いを隠すように、私は恋人を作った。それはなんて醜い想いなんだろう。その想いを隠したまま、今までずっと恋人の傍にいたのだから。 「我慢、しなくていいよ」 「…」 これは、罪だ。そんなことは分かってる。私は左手をぎゅっと握り締める。ペアリングがやけに冷たかった。 「…彼氏は?いいの?」 「うん」 彼は、幻滅するだろうか。 「…分かった。家まで送る」 「うん」 一松くんの言葉を聞いて、私はようやく立ち上がった。ぎこちなく手を繋いで隣を歩く。あの日と同じように言葉を交わさないまま、私たちは夜の闇を進む。正しさを置き去りにした私の選択は許されるものではなかったけれど、繋がれた手のひらがあんまり優しいから、どうあがいても甘えてしまう。いっそ罵って突き放してくれれば、こんなに苦しくならなかったのだろうけれど。 ああ、この愛しさは、苦しみは、私の弱さだ。 たとえばこれが最初で最後の夜になろうとも、後悔はしない。 淡いあの日の夢の続きを (二人で静かに、紡いでみたい) 2016.03.29 (3/3) 前へ| |