葉月が退院してから一週間。知らないうちに、蝉の声は聞こえなくなっていたが、まだ夏の暑さは続いている。
しばらく安静を強いられている葉月だが、日常生活に支障はなく、今日も変わらず事務作業や見回りで肩のリハビリを続けながら犲の業務に復帰していた。

「隊長、あれ取ってくださーい」
「どれだ」
「あれ、あの茶色いやつ」

本棚の前でちょこちょこと何かを求めて手を伸ばしていた葉月だったが、目的のものには手が届かなかったらしく、結局蒼世に助けを求めた。蒼世はというと、そんな葉月を自席からこっそり眺めていたのだが、助けを求められてしまったので、わざとらしく、あくまでも仕方なさげに席を立つ。
そんな蒼世に突き刺さる武田以外の隊員達の面白がるような視線は、葉月が帰って来てからというものすっかり日常になっていた。葉月の元へ近付く間に、蒼世はわざと隊員達を睨むような視線を送るが、もはや隊員達はそんな視線さえも愉快なようで、全員にやにやとした笑みを絶やさない。蒼世は僅かに溜め息を吐いてから葉月の隣りに立った。

「これか」
「あ、それそれ!それです!ありがとうございます!」

手に取った分厚い茶色い本を葉月に手渡してやると、葉月は嬉しそうにへらっと笑う。
あの日以来、ここ数年で蒼世との距離を置くようになっていた葉月も、以前のように気軽に蒼世に話しかけるようになった。蒼世も葉月に対して随分優しい態度をとるようになり、二人の仲睦まじい姿は詰め所内でもよく目撃されている。

葉月が本を持って席に戻るのと同時に、蒼世も自席に向かって歩いていくが、相変わらず突き刺さる隊員達の視線が痛い。とりあえず睨むようにして数多の視線を制すると、椅子に腰掛けてから蒼世はもう一度溜め息を吐いた。

毎日のようにここまで分かりやすく訴えられているのだ、さすがの蒼世でも隊員達の視線の意味はもう理解しているらしい。要は、さっさと葉月に想いを伝えてしまえと、と彼等は無言の圧力をかけているのだ。なぜ自分の気持ちがこうも筒抜けであるかなど、蒼世には思い当たる節もないのだが、ここまで完全に自分の想いを知られていると、もはや気持ちを誤魔化す気にもなれなかった。

当然、蒼世自身も葉月に想いを告げて「幼馴染み」という関係に終止符を打ちたいとは思っているのだが、どうしても脳裏を過ぎるのはあの憎きカニ頭の姿だ。葉月は怪我をして入院もしていたため、あれ以来滋賀に行った様子もないのだが、葉月が天火に好意を寄せていたらと思うと、どうしても肝心の一歩が踏み出せない。
葉月には笑っていて欲しいし、幸せであって欲しい。だからといって、葉月の想いを壊したいとは思わない。
相変わらず面倒な感情だ、と感じながら、隊員達の視線には気付かないふりをして、蒼世は忙しくもないのに目の前の書類に筆を走らせた。



そして昼も過ぎ、高らかと昇った太陽がほんの少しだけ傾いた午後、うーんと伸びをして葉月は立ち上がった。

「じゃ、私見回り行ってきまーす」
「あ、葉月、悪いけど今日滋賀の方まで行ってきてくれない?」
「え?」

妃子の言葉に葉月は目を丸くした。蒼世もぴくりと片眉を吊り上げる。

「滋賀まで行かなくでもいいんだけど、県境の辺りで夜盗の目撃情報があったらしいの。まだ昼間だし大丈夫だとは思うけど、念のため。まだ怪我も治ってないし、無理して探さなくてもいいから、もし見かけたらすぐこっちに戻って来て」
「分かった。じゃあ今日はちょっと遅くなるけどいい?」
「いいわよ、どうせそんなに忙しくないし。ねえ隊長?」

妃子は蒼世を振り向くと、にっこりと笑ってみせた。蒼世はわざとらしいその笑みを見て僅かに眉を寄せるが、いつも通りを気取って答える。

「ああ、構わん」
「ですって」
「了解でーす。じゃ、行ってきます」

葉月は帽子を被ると、元気良く犲の詰め所を出て行った。そしてしばらく沈黙が流れた後、武田以外の隊員達は一斉にぐるりと蒼世を振り返る。

「いいんですか?怪我してるのに一人で夜盗の調査に行かせちゃったりして」
「お前が頼んだのだろう」

妃子の言葉に蒼世が答えると、続いて芦屋が椅子にもたれかかりながら声を上げた。

「隣りだとはいえ、滋賀までは少しありますからねえ。道中で変な男にも絡まれかねませんよ、あの子可愛いですから」
「…」
「それに全力で戦えない今、あの細腕でもし夜盗に襲われたりなんかしたら、どうなることやら」

これは挑発だと分かっているからこそ、蒼世はわざとらしく言葉を並べ立てる芦屋の言葉には無視をする。しかし、次に吐き出された言葉で、それも見事に無駄になった。

「まぁ、何かあれば曇天火が助けに行くでしょう」

ガタン、と分かりやすい程、蒼世の椅子が音を立てた。手に持っていた筆はからからと音を鳴らして地面に転がっている。
しばらくそのままの状態で静寂が訪れていた犲の詰め所だったが、呆れたように息を吐いた鷹峯がたまりかねたように立ち上がると、蒼世の席の前に立った。そしていつもよりは圧倒的に少ない、それでいてかなりの量の書類を纏めて持ち上げると。何事かと言わんばかりに顔を歪める蒼世に向かって言った。

「毎日毎日こんな書類ばっかりやってりゃ隊長だって息詰まるだろ、たまには息抜きがてら外で働いてくればどうです?どうせ暇なんだし」

なんかあったら今日ばっかりは責任とってあげますよ、と言いながら、鷹峯は自分の席に戻って書類の束をどさりと置いた。

「おら武田、お前も手伝え」
「え!?いや、こんな重要書類…」
「いいからさっさとやれ」
「はい」
「あら、じゃあ暇だし私も付き合おうかしら」
「私は別にやりたくありませんけど、まあ暇ですから」
「儂もやるか!」
「仕方ないネ」

次々に犲の面々に書類が行き渡る。蒼世が呆然とその様子を見つめていると、武田以外の全員が同時に蒼世を振り向いて、満面の笑みを向けた。

さっさと行け。

そう言わんばかりの威圧感に、あの蒼世もたじろいだ。これが彼等なりの気遣いなのだから困ったものだ。蒼世は諦めたように長い息を吐くと、帽子を被って立ち上がった。

「…見回りに行ってくる」

出来るだけ隊員達と目を合わさないようにそう言うと、蒼世は詰め所の扉に手をかけた。背中にはいくつもの視線が突き刺さっている。なんとなく目線だけで振り返れば、隊員達がにやにやと意味深な笑みを浮かべながら蒼世を見つめていた。その視線に耐え切れなくなって、とうとう蒼世は犲の詰め所を飛び出した。

「おい妃子、夜盗の話本当か?」
「嘘に決まってるでしょ」
「…鬼だな」

蒼世が出ていった後、こんな会話が繰り広げられていたことなど、当然見回りの二人は知ることはなかった。

先に行ってしまった葉月を追いかけるように、足取りは自然と速くなる。見回りの管轄はいつも同じなので、そのルートの延長線上から滋賀に向かっている可能性が高い。警察署からそう遠くはない土手を走っていると、そこに見慣れた隊服姿の女を見つけて、声をかける。

「葉月」
「え?え!?蒼世なんで!?」

名前を呼ばれた葉月は当然驚いて振り返る。蒼世は慌てて追いかけてきたのを誤魔化すように息を整えると、いつもの無表情を決め込んで葉月の隣りに立った。

「俺も行こう」
「え?で、でも仕事は…」
「たまには外に出ろと鷹峯に云われた」

ぶっきらぼうにそう言いながらも、蒼世は葉月の歩幅に合わせて歩く。葉月はしばらく驚いたように目を丸くさせていたが、みるみるうちに表情を綻ばせて嬉しそうに笑った。

「蒼世がいるなら夜盗に会っても怖くないね!」
「怖かったのか?」
「ん?んー、別に」
「…」
「あ、その目信じてない。ほんとに怖くはなかったよ」

でも、と少し間を空けてから、葉月は照れ臭そうに笑って蒼世を見上げた。

「蒼世が来てくれて安心はしたかな」

へらへらと笑いながらそう言う葉月に、蒼世は呆気なく射抜かれた。そうか、と適当に相槌を打って誤魔化すと、気恥ずかしくなった蒼世は葉月から視線を逸らした。

二人は午後の柔らかな日差しの中をゆっくりと進んでいく。時々大したことのない会話が葉月の口から始まるが、それも長くは続かない。けれど、不思議と居心地は悪くなかった。蒼世は自分よりも小柄な葉月を眺めながら、思い切って口を開いた。

「そういえば」
「ん?」
「あいつは見舞いに来たのか?」
「あいつ?」

葉月は一瞬悩んでから、恐る恐る思いついた名前を口にする。

「…天火のこと?」
「そうだ」

蒼世はあっさりとその名前を受け入れたことに驚いたらしい葉月は、何度か瞬きをするものの、それ以上は特に気にならなかったようでいつも通りの口調で答える。

「来なかったよ、来るわけないじゃない」
「…何?」
「だって私が怪我したことだって知らないのに、わざわざ見舞いに来るわけ―――」

言いかけた葉月の左手を、蒼世はがっしりと掴んだ。葉月も何事かと蒼世を見上げる。蒼世は怒りを含んだ顔で葉月を見下ろしていた。葉月も困ったようにその顔を見上げる。

「…蒼世?」
「お前が怪我をしたのに、来なかったのか?あいつは」
「え、うん。だって怪我のことなんて知らないし…」
「その間連絡も取り合っていなかったのか?」
「そりゃだって、一応曇家だし…」

葉月の返答に、蒼世も眉を顰めた。そしてしばらくの沈黙の後、蒼世はゆっくりと口を開いた。

「お前にとって、あいつは何だ?」
「は?」
「あいつの事を、どう思っている」
「どうって…」

たっぷりの間の後、葉月は答えた。

「お兄ちゃん?」
「…」
「お兄ちゃん」
「…好きではないのか」
「え、そりゃ好きといえば好きだけど、でもそういう好きじゃなくて、ほら、家族としての好き、に近いのかな」
「…」
「え、え、蒼世?どうしたの?」

葉月からの返答に、蒼世は空いた手で思わず頭を抱えた。つまり葉月は非番や休暇を使って実家に帰っていた感覚だったのだろう。それを勝手に誤解して変な解釈をしてしまったために、こんな馬鹿みたいに悩む羽目になったのだ。馬鹿馬鹿しすぎて、蒼世はついに開き直った。自分自身にほとほと呆れながら息を吐くと、葉月の手を強く握ったまま頭を抱えていた手だけを離す。

「葉月」
「え、何?」
「単刀直入に云う」
「う、うん」
「俺はお前が―――」

強い風が、優しく二人の隙間を通り抜けた。風の音に乗って、葉月の耳に蒼世の言葉が吸い込まれていく。
信じられないといった顔で目を丸くした葉月だったが、徐々に顔を赤らめてきゅっと唇を強く噛む。蒼世の目は真っ直ぐにそんな葉月を捉えていて、ずっと、ずっと胸の奥に溜め込んできた想いを、不器用ながらに吐き出して形にしていく。
葉月はくしゃりと顔を歪めると、勢い良く蒼世の胸に抱きついた。それを蒼世はしっかりと抱きとめる。小さな葉月はすっぽりと蒼世の腕の中に納まって、胸にきつく顔を埋めた。

夏空は今日も、蒼く、高い。
空には白い雲が浮かんでいて、いつもと変わらない空が、いつも以上に綺麗に思えた。そこだけが切り取られた絵画のように、やけに眩しく輝いている。
きっとつらいことも苦しいことも、この先たくさんあるのだろう。だけど今は、この空の下で優しい時間を抱きしめていたい。

蒼世も葉月を抱きしめながら、いつになく幸せそうな微笑を浮かべると、耳元でもう一度、静かに想いを囁いた。

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