10

風のない日だった。犲の詰め所は今日も暑い。先週の大雨が嘘だったかのように蝉が泣き喚いている。窓を開け放っていても室内はやけにむしむしとしていて、容赦なく太陽の光が照り、ジリジリと肌を焼いていく感覚があった。
しかし、そんな日に限って犲の面々は書類の仕事に追われていた。一同は喋ることさえ億劫なようで、誰一人言葉を発することなくだらだらと汗を流しながら目の前の書類を進めている。

蒼世は一枚書類を終えてから、ふうっと息を吐いて顔を上げた。冷たかったはずのお茶もすっかりぬるくなっていて、喉に流し込んでみたって飲んでいる気にならない。ぬるいお茶を一気に飲み干した蒼世は、さすがに暑さに耐え切れずシャツ一番上のボタンを外し、袖を捲くり上げた。
首筋から伝う汗を鬱陶しそうに拭いながら、こっそりと伺うように葉月に視線を寄越せば、葉月も相変わらずはだけた格好で、胸元をぱたぱたと仰ぎながら、気だるそうに目の前の書類と真面目に向かい合っていた。

あの花火の日以来、蒼世は葉月とろくに会話をしていない。女に抱きつかれているところを、よりにもよって一番見られたくない葉月に見られてしまったのだから、気まずくなるのも仕方がないことかもしれないのだが、それにしたって長引きすぎだ。ここまでくると、さすがの蒼世も気にせずにはいられなかった。
あくまでもあれは仕事の一環で、葉月だってそれは理解している。何より、葉月と恋人同士というわけでもないのだから、別に気にかける必要もない。そんなことは分かりきってはいたのだが、実際、あれから葉月は蒼世と一層距離を置くようになった。そして蒼世自身も、葉月との距離を測りかねていた。

「あづい〜武田〜お茶〜」
「ええ…またですか…」
「なに?悪い?武田下っ端だよね?」
「別に悪くないですよ!下っ端ですから淹れさせていただきますよ!」
「さっすが〜」

武田がそう言って席を立つと、他の隊員達も次々に武田にお茶を注文し始める。結局全員分のお茶を用意することになった武田は、重たそうな足取りでお茶を準備し始めた。葉月はへらへらと笑いながら武田の背中を見送ると、再び視線を書類に戻した。

蒼世はそんな二人のやりとりを見ながら苛立ちを募らせる。あれ以来、葉月は蒼世に対して笑いかけるどころか、目を合わせることもしなくなっていた。にも関わらず、武田とは以前よりも仲良くしていて、最近では二人一緒に残って鍛錬していることも増えたくらいだ。蒼世はどこにも吐き出せないこの感情を沸々とさせながら、出来るだけ平常心を保とうと、誤魔化すように書類に視線を落とした。

そんなとき、ばたばたと慌しい音が詰め所の外から聞こえて来て、それは乱暴に扉を開けた。

「しっ、失礼します!!」

慌しくやって来たのは警官で、だらだらと汗を流していた。相当急いでやって来たらしい。
一方の犲達は、そんな警官を暑苦しいなと思いながら、武田が新たに準備した冷たいお茶に手を伸ばしてその男に視線を寄越した。

「何事だ」

面倒そうに蒼世が言うと、男は慌てた様子で言った。

「じ、実は宿屋に浪人が立てこもるという事件がありまして…宿泊客等が人質に…!」
「それは本来我々犲の業務ではないはずだが」
「そ、それは存じ上げております!しかし、このままでは人手も足りず…お力をお貸し願いたい!」

警官は頭を下げる。蒼世は仕方なさそうに息を吐いて自身の机を見たが、そこには大量の書類が積まれている。他の隊員達の机にも同様に紙の束が置かれていた。今日に限って面倒なことだ、と蒼世が息を吐き、仕方なく自分が向かおうと腰を上げたときだった。

「私、行きます」

葉月が真っ先に立ち上がる。そして仕上がった書類をすべて蒼世の目の前に置いた。蒼世の目の前に紙の束が積み上げられる。

「隊長、これ終わってる分です。私あと十枚もないので、行ってきますね」

目も合わせずにそう言った葉月は、くるりと踵を返して自席に戻ると武器を取った。蒼世は引きとめようともしたが、この状況で葉月を止めるのは誤った判断であることくらい分かっていた。蒼世は軽く深呼吸をすると、無表情を決め込んで席に座り、一番書類の山が小さい者を指名した。

「武田、お前も行け」
「え?俺ですか?」
「お前以外に誰がいる」
「え、でも…」

まさか自分が指名されると思っていなかった武田は、吃驚して思わずそう答えてしまったのだが、そんな武田を蒼世は冷めた瞳で睨みつけた。武田は一気に血の気が引くのを感じて、武器を手にとって急いで立ち上がる。

「あ、武田も一緒か〜足引っ張らないでね」
「役立ってみせますよ!」
「ふーん?」
「信じてない…」
「信じてる信じてる」
「そんな適当な!」
「じゃ、頑張って行ってきま〜す」
「必ず役立ってみせますからー!」

ひらひらと手を振る葉月と、やけにやる気に満ちた武田は、緊急事態だというにも関わらず、相変わらずの仲良しぶりを見せつけながら犲の詰め所を出て行った。
蒼世はそんな二人の背中を見送ると、もはや苛立ちを隠すこともなく筆を取って、先程までと段違いの速さで書類を書き上げていく。その背中からは異様なほど威圧感が放たれていて、犲の隊員達は反射的に背筋を伸ばすと、表情を強張らせながら蒼世同様凄まじい勢いで書類を書き進めていった。

「さっさと終わらせて援護に向かう」

蒼世の口から吐き出されたセリフを聞いた隊員達は、やっぱりか、と思いながら、武田よどうか全力で葉月を守れ、と各々心の中で呟いた。
蒼世は、自分の想いが葉月と武田以外にバレバレだということなど当然気付くはずもなく、鬼の形相で積み上げられた書類の山を片付けていくのだった。

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