拝啓、曇神社のみなさま。

最後の手紙から一年と少し経ちますが、お変わりないでしょうか。
もうすっかり春になりましたね。青空に浮かぶ桜を見ると、いつもそちらでの事を思い出します。私は結局、一度もそちらで青空に浮かぶ桜を見る事が出来なかったので、きっとそちらで咲く桜はもっと綺麗なのだろうなと思いを馳せています。

私はこの一年の間で、書き切れないほどたくさんの事がありました。数え切れないほど多くの物を失い、傷付け、悲しみ、嘆き、涙に暮れた日々も、決して少なくありません。それらは忘れられない傷跡となって、確かに記憶に刻まれています。今でも思い返すと、張り裂けそうなくらいに胸が痛み、泣いてしまう夜もあります。

けれど、そんな日々の中には、たくさんの大切な人達が居ました。誰もが愛おしくて、誰もが温もりに満ちていて、ちっぽけで何も出来ない私の事を愛してくれました。人を想い、慈しむ気持ちを教えてくれました。そして何より、数え切れないほどの幸せを与えてくれました。

多くの愛情と優しさに支えられ、私達は今、こうして此処で息をしています。

過去を振り返る度、背負ってしまったものの大きさに耐え切れず、私なんか生きるべきではなかったのではないかと何度も思いました。生きる事を諦めた瞬間もありました。けれど、それと同時に、誰もが幸せそうに笑って見送ってくれた事を思い出すのです。

兄のように慕った人が、最後に言いました。笑って、泣いて、幸せになるために精一杯生きてくれと。
彼は最後の瞬間まで、私達の未来が明るいものであるように願い、その明るい世界で生きていけるように、過去に囚われてしまわないようにと、思いを繋いでくれたのです。俯き、振り返る私達の背中を押してくれたのは、彼でした。今も彼の想いに支えられている部分がとても大きいです。そして最後まで笑ってくれていました。そちらで私が兄と慕った人に、なんだかよく似ている人でした。

私達が背負ってしまった罪は、そう簡単に償う事は出来ません。だからこそ、辛さも悲しみも抱きしめて、惨めでもいいから生きて行こうと思いました。彼らが望み、託してくれた未来を、二人で手を取り合って、精一杯笑って生きようと決めました。

きっと諦めるのは簡単だけど、諦めてしまったら、彼らの想いが全て無駄になってしまうから。だから私は、今もこうして、毎日を必死に生き抜いています。

そしてささやかですが、夢が出来ました。小さくて、どこにでもありふれた夢ですが、茶屋を開きたいなと思っています。私の事を姉のように慕ってくれていた青年が、私の作るお料理を好きだから、毎日食べに行くから、茶屋でも開けばいいと言ってくれたんです。夢を持つきっかけをくれた彼には本当に感謝してもしきれません。もう彼が毎日食べにきてくれる夢は叶いませんが、私が茶屋を開いたら、いつかふらりと、風に乗って会いに来てくれたらいいなと思います。

ちなみに、彼には甘味作りをお願いしようと思っているのですが、張り切って他のお料理を作り始めないか、今から心配しています。最近はすごくお菓子作りの腕が上がって、洋菓子まで作れるようになったのだけれど、その他のお料理の腕は相変わらずです。笑ってしまうでしょう?

長くなってしまったけれど、最後に一つご報告があります。
実は先日、娘が生まれました。彼に似たふわふわの髪の毛が可愛い、とっても元気な女の子です。二人とも初めての子育てで、目まぐるしい日々を送っていますが、新しい発見がいっぱいでとても楽しいです。いつか、娘を連れて会いに行けたらいいなと思います。

娘の名前は、あまり悩みませんでした。私の中で娘が生まれたらつけようと考えていた名前があって、彼に相談したら二つ返事で了承してくれました。それにいい名前だと褒めてもらえた自慢の名前です。娘の名前には、特別な想いがあります。そして『移りゆく時代の中で、たくさんの美しい景色を見て、自由に生きて欲しい』という願いを込めています。

娘の名前は―――


終、太陽と月の帰る場所


「兄貴、また手紙読んでるのか」

縁側でごろごろとしていた時、背後から空丸の声がして、俺はのんびり後ろを振り向いた。呆れたように俺を見る弟は、背も伸びてすっかり大人になっていた。

「大体妃子さんの出産予定日今日だろ?病院行かなくていいのかよ」
「あいつが来るなって云ってんだから仕方ねーだろ。お前も里帰り中のお兄様には優しくしろ」
「…そんな事いいながら、子供楽しみでずっとそわそわしてるくせに」

空丸が生意気にそんな事をいいながらニヤニヤしてきたので、凄むように睨んでやったが、残念ながらすっかり大人になった空丸にはきかないらしい。宙太郎にはまだ効果的なのが、長兄としての救いではある。


春の日差しは暖かかった。滋賀の空はうんと青くて高い。庭の桜も綺麗に咲いて、風が吹くたびゆらゆらと花びらを散らせている。

あれから六年、俺も気付けば三十一だ。六年もあれば、目まぐるしく世界は変わる。俺達を取り巻く環境も大きく変化した。

俺は通院しやすい会津に居を構え、治らないといわれていた半身の不随を克服し、外交官になった。元通りかといわれると難しいところだが、死にそうなくらいきついリハビリのお陰で、普通に生活するには何ら問題はないくらいには回復出来た。妃子が仕事をやめてずっと支えてくれたお陰もあるだろう。

不随の後遺症で、医者からは子供は無理だろうと言われていた。その為結婚するつもりはなかったが、それでも構わないと言った妃子に押し切られる形で結婚した。結婚を迫ってくるなんてどんな大胆な女だとは思ったが、まぁ、後悔はしていない。

子供は諦めていただけに、妃子の妊娠を知ったときは正直泣くほど嬉しかった。三十を超えての初産になるので心配ではあるのだが、弱っているところなんて見られたくないと妃子にはずっと言われ続けていたので、どうやっても病院には行かせてくれる事はないだろう。母親がついてくれているので、休暇をとった俺はただただ実家でごろごろしながら過ごす毎日だ。

他の犲の面々も、それぞれの道に進んだ。蒼世は軍に身を置き、鷹峯は軍を目指す者達の指導にあたっている。犬飼と屍は引退してのんびり過ごしていて、たまに妃子とも遊びに行ってやっている。芦屋隊はその後、占いやら妖怪払いといった事を生業としているらしいが、詳細は知らない。何かしらで稼いではいるらしい。武田はその後警察になって、今ではなかなか上の方で頑張っていると聞いた。

宙太郎も十九になり、今では立派に警察官を務めている。慣れない毎日に疲弊している事もあるが、楽しそうに過ごしているので問題ないだろう。先輩が武田だという事が気に食わないようで、時々文句を言っている。それだけ慕っているという事だろう。

空丸はこの地を任された十五代目当主として、立派に勤めを果たしている。罪人の数は減ったので取り締まったりする事も殆どないが、不作の時期や祭りの時期など、あちこちに引っ張り出されて大変そうだ。それだけ皆からの信頼が厚いという事だろう。

恐らく錦とは恋仲なのだろうが、俺にはまだ何も言ってこない。もう二十三になるのだから、そろそろ結婚してもいいのではないかと思うのだが、妃子の件があったので俺からは深く追求は出来ない。しかし純な二人のやりとりを見ているのがなかなか楽しいので、最近は空丸達をこっそりからかう事が密かな俺の楽しみになっている。それに、空丸達をからかっていると、あの二人の事を思い出して懐かしい気持ちになれた。

送り主の分からない最後の手紙が届いたのが五年前。それから一度も、手紙は届いていない。子供が出来たと書かれたこの手紙を最後に、ぱったりと連絡は途絶えたままだ。だが、きっと何処かで元気に過ごしていると思う。


そういえば、こんなこともあった。

風魔が全滅を迎えたあの事件の直後、すぐにそれは全国に伝わった。戦国時代に名を馳せ、大蛇の復活の際も最前で指揮を執っていた一族の死は、あちこちで大きく取り上げられたりもした。一人の男が犲を尋ねてやってきたのは、それから数ヶ月後の事だ。俺は当然犲からは去っていたので、蒼世から妃子を経由して聞いた話になる。

そいつは元々医療研究に携わっていた青年で、大蛇の実験に関わっていたと言った。詳しい話を聞くと、木戸に買収された研究員に穴が出たとかで、無理矢理研究に参加させられたらしい。研究所は確かに風魔が焼き尽くして他の研究員は皆殺されたが、自分は本当に運良く生き延びたと青年は語った。その理由が、研究所に攫われ、実験によって体内に大蛇を宿してしまった『蛇の信者の末裔』を救うためだったらしい。

風魔の長と蛇の信者の末裔の娘は、共にすごく愛し合っていたと、青年は穏やかな口調で語った。自分は運良く生かされたも同然だが、風魔の里の者達にはとても良くしてもらったと、優しい思い出を懐かしむように話したそうだ。

そして青年は、一枚の紙を犲に差し出した。それは木戸が蛇の信者に行なった、残酷で滅茶苦茶な実験資料の一部だった。あの日"風魔小太郎"が言っていた内容と完全に一致しているその紙を差し出しながら、青年は言った。

『僕の薬箱の中に、この一枚だけが紛れていました。多分これは、"風魔小太郎"さんからの最後の伝言なのだと思います。大蛇実験という恐ろしい悲劇をもう繰り返して欲しくないと、彼はきっと願っていました。だから他の資料は、恐らく彼が破棄してしまったはずです。彼の性格を考えると、そうするような気がします。しかし、この実験資料は何の参考にもならず、またその残酷な内容だけが記されてある頁です。これを僕に託したという事は、彼は真実を伝えたかったのではないかと考えました』

そう言って青年は、その紙を蒼世に託した。偽造されているような様子はなかった。青年は続ける。その瞳に目一杯の涙を溜めながら。

『でも本当は、これをお渡しするつもりはありませんでした。またこれが悪用される原因になるのではと思うと、怖かったからです。しかし今、あちこちで彼らが悪く云われているのを耳にして、僕はいてもたってもいられなくなりました。風魔という一族が、恐ろしいものだという事は承知の上で云わせて欲しいんです。彼らはただ、本当に穏やかに暮らしていました。全てを狂わせたのは木戸です。少なくとも、僕はそう思います。だから犲の皆さんにだけは、真実を知っていて欲しいと思ったんです』

それから青年は、悲しい戦いに巻き起こし、多くの罪もない者を犠牲にした政府に、少なからず恨みはあるとも続けた。幼い子供がぼろぼろにされ、目の前で息を引き取っていく瞬間も目の当たりにしたらしい。だから名乗りたくないし、余計な事は話したくないと言ったので、それ以上は蒼世も何も聞けなかった。

ただ最後に蛇の信者の末裔がその後どうなったのかと尋ねると、それは"風魔小太郎"から聞いているはずだ、彼ならきっとそうすると思う、とだけ続けて少し笑ったそうだ。"風魔小太郎"を、心から信頼しているような口ぶりだったらしい。その後、犲達の静止を振り切って青年は去って行ったのだが、芦屋が式を放ってももう追いつけなかったのだそうだ。

青年は強い眼差しをしていたと、蒼世は話していたらしい。その青年の勇気ある行動によって、全滅した風魔に対する風当たりは弱くはなったが、いい噂ほど流れていかないものだ。あの青年が残した真実は、一部の人々の手によって語り継がれていくのだろうと思う。



「…元気にしてるかな」

つい思い出に浸っていたとき、空丸が俺の手元にある手紙を見ながら、小さく声を零したのを聞いて我に返った。その声には恨みも憎しみも悲しみもなく、優しさと懐かしさだけが滲んでいる。

「元気だろうよ、きっと子育てに追われてる」
「娘さん、どっちに似てるかな」
「娘っていってんだから、そりゃ嫁の方に似ていてくれないと困るぞ」
「旦那の方に似ても美人になると思うけど?」
「結婚の挨拶にも来ない男になんて、似てもらってたまるか」

そんな事を言う俺の言葉にも、ちっとも棘はない。空丸もそれを分かっているので、ただくつくつと笑った。

「確かにそれはそうだな」
「で、結婚といえば、お前らはどうするんだ?」
「は?」
「お兄ちゃんに隠しても無駄だぞ〜?」
「なっ、ばっ、そ、それはそのうちちゃんと話す!」
「ふーん?へーえ?気になるなー?」
「しつこいんだよ兄貴は!」

顔を真っ赤にしながらそんな事を空丸が叫だものだから、奥から慌てて錦がやって来た。彼女も随分綺麗な大人の女性に変貌を遂げている。表情も増えて、今では本当によく笑うようになった。

「空丸さん…?一体何が…?」
「おー錦!ちょうど良いところに!お前ら一体いつ結こ…」
「だぁぁぁもう!!兄貴は黙ってろ!!」

殴りかかりそうな勢いで空丸は言う。耳まで真っ赤にしてそんな事をいう空丸を見て、錦はきょとんとするばかりだ。そんな二人がおかしくて、俺は一人げらげらと笑う。

大蛇が消えて、青空が戻ったこの神社からは、親友と妹も去っていったけれど、穏やかな日々が確かに続いている。きっと二人も何処かで遠い地で幸せに暮らしているだろう。けれど、ほんの少しだけ胸が痛むのは、小さな後悔がくすぶっているからだ。

あの日、静かに暮らしていた風魔達の命を奪ったのは、確かに木戸が原因だった。けれどそれを止めれなかった俺達の責任でもあるとも思っている。此処で暮らしていた二人だけじゃない、多くの人間の幸せを、命を、あの里で救う事は出来なかった。今でもそれを時々思い出して、ちくちくと小さな針に刺されているような気持ちになる。

もしも風魔に罪があったのだとしたら、同じような罪が俺達にだってある。だからもう、そう簡単には罪を償えない、なんて思って生きていかないで欲しいと思う。これは俺の身勝手な願いだ。生まれて来た命と共に、幸せを築いていて欲しい。

そんな事を思っていた、そのときだった。

「てっ、ててっ、天兄!!」

ばたばたと慌しくやってきたのは宙太郎だ。警官の制服に身を包んで、酷く焦った様子でやって来た。口元を魚のようにぱくぱくさせている。

「何だぁ?どうした宙太郎」
「いっ、いいから早く!空兄と錦姉も!!」

ぐいぐいと無理矢理腕を引かれたので、俺は渋々立ち上がる。空丸と錦も何事かと思い、顰めた顔を二人で見合わせていた。

背中を押されるようにして、俺は玄関の外までやって来た。桜がふわふわと舞って、目の前の石の階段に綺麗な道を作っていた。その階段の下から、見慣れない小さな少女が楽しげに駆け上がってくるのが見える。まじまじとその少女を見つめていると、少女がぱっと俺の顔を見た。すると途端に顔をぱあっと明るくさせて、俺を指差して言った。

「カニ!!」
「…は?」

嬉しそうに少女は階段を駆け上がる。とても元気な女の子だ。

少女はあっという間に俺の足元まで辿り着くと、足に思いっきり抱きついた。ほんの少しだけ釣りあがった大きな瞳で俺を見つめ、また嬉しそうに言った。少し癖のある黒髪がふわふわと風に揺れた。どことなく、彼女に面影のある少女だった。

「カニ!!カニ頭の男の人!!」
「…なんだチビッ子?」
「あなた、天火でしょ!」

名前を言い当てられ、俺は思わず目を丸くする。そんな俺に構わず、少女は元気に告げた。

「わたし、みかげっていうの!『美しい景色』って書いて、美景!」

その名前を聞いた途端、はた、と思考は止まった。空丸も錦も同様だったらしい。聞き覚えのないその名前を、俺達はよく知っていたからだ。

見慣れた文字で綴られた送り主のない手紙には、一切誰の名前も出てこなかったのだが、最後に届いたあの手紙にだけ、名前が記されていた。書いてあった名前は『美景』。名前には『移りゆく時代の中で、たくさんの美しい景色を見て、自由に生きて欲しい』という願いが込められているとあった。

「とうさまとかあさまが、いっつもあなたの話してたの!だからね、美景はあなたのことよく知ってるの!」

そういって美景と名乗った少女は振り返る。そして嬉しそうにぶんぶんと背後から歩いてくる家族に手を振った。

「とうさまー!かあさまー!はやくー!」

天真爛漫な少女は、俺の足にしがみ付いたまま父と母を呼ぶ。少女が手を振る方にゆっくりと顔を向ければ、丁度階段の真下に、一組の夫婦がやって来た。旦那の方は笠を被っていて、大きな荷物を持っている。一方妻の方は、黒髪を低い位置で団子に纏めて、赤い丸簪を刺していた。その腕には、二歳くらいの幼児が抱えられている。

「あれはね、猪助っていうの!美景の弟なの!さっきまで自分で歩くって云ってたのに、ぐずってなかなか歩かなかったからね、かあさまに抱っこしてもらってるんだよ!」

何が楽しいのか分からないが、美景はきゃっきゃとはしゃいでいる。だが俺達は、もう言葉を発することも出来なかった。

階段の下で、旦那の方が笠を取った。桜色に染まってしまいそうなほど綺麗な白髪が、ふわりと風に舞う。見慣れた紫の瞳は、真っ直ぐに俺を見つめていた。俺は必死に息を吸う。油断したら、瞼の辺りでどうにかせき止めている何かが崩壊してしまいそうだった。

夫婦は真っ直ぐに俺達を見つめて、深々と頭を下げて、しっかり間を置いてから頭を上げた。階段を上がってくる気配はない。俺はそんな二人に向かって声を投げた。

「何しに来た」
「おい、兄貴…!」

空丸が咄嗟に俺の言葉を遮ろうとしたが、構わず俺は続ける。

「何か用でもあるのか?」

きっぱりとそう言えば、妻の顔が僅かに歪む。しかし旦那の方は、はっきりと俺の目を見て言った。

「…遅ればせながら、ご挨拶に」
「へえ?何の?」
「六年前、妹さんを妻に迎えたので」

その返答に俺は肩を竦めると、足元に抱きつく可愛い顔の少女を抱き上げながら答えた。少女は抱き上げられて視界が高くなった事が嬉しいのか、空と桜が近くにあると喜んで手を伸ばして遊んでいる。

「あのなぁ、そういうのは結婚前に許可を取りに来るもんじゃねぇの?」
「結婚前、此方でお世話になっていた時代に、さっさと一緒になれと散々せっつかれたので、許可はもう頂いているものかと」
「ちょ、ちょっと…!」

隣で妻が焦ったように旦那の顔を見る。随分と仲睦まじいようで、俺は思わず笑ってしまった。

「減らず口叩く男だなあ?許さないって云って此処で引き離したらどうするつもりだ?」
「そのときは力ずくで連れ帰りますのでご安心を」
「ほう?うちの弟達は強くなったぞ?」
「生憎だけど、まだ俺に勝てる見込みはないな」

白髪の男はわざとらしくそう言った。隣で妻がおろおろとしている。こんな予定ではなかったのに、と言いたげな顔だ。少し見ない間に、すっかり母親の顔になったらしい。

「…だってさお前ら、どうする?」

俺が弟達に尋ねれば、二人は慌てて涙を拭ってから言った。

「…そう簡単に負ける気はしないかな」

涙声で空丸がそう言うと、宙太郎も頷いた。腕の中の少女は、大人達の会話の内容など興味がないようで、俺の顔に抱きついて今度は髪を弄り始めた。それを見て妻の方がぴしゃりと言い放つ。

「こら美景!ご迷惑になる事はしては駄目って云ったでしょう!下りてきなさい!」
「えー…でも、かあさまがいつもあんなに嬉しそうに話してた天火だよ?」
「ちょ、ちょっともう…!そういう事云わなくていいから…!」

あたふたとしながら恥ずかしそうに頬を染めるその姿は、あの頃とちっとも変わらない。美景だけではなく、猪助という息子にも恵まれて、幸せにしてもらっているんだというのは、もう十分伝わった。俺は男に視線をやって言った。

「…多分お前の友人だろうな、そいつに云われた。いつか千発殴れたら、あいつを許してやってくれって」

男は目を丸くした。心底驚いているときの顔だ。

「まぁでも、うちの可愛い妹勝手に連れて行ったんだから、千発じゃ済まさん」

俺は男を見て、いつもの鉄扇を広げながら高らかに宣言した。


「俺達三兄弟から合計一万発殴られるか、あと一歩踏み出して敷居を跨いで帰って来るか、どっちか選べ」


風がぶわっと一際大きく吹いて、桜の花びらが風にのって舞い上がる。二人は酷く驚くような顔をしたまま固まってしまった。しばらくそのまま困惑したように固まっていた二人だが、どちらともなく顔を見合わせる。そして決意したように、妻の方が大きく息を吸った。

「―――ただいま天火」

そしてその言葉と共に、彼女の瞳から大粒の涙が零れていく。表情は明るかった。つられて泣きそうになるのを必死に堪えながら、俺は精一杯の言葉を送る。

「…おかえり、渓、白子」

渓はぼろぼろと泣き出して、白子もまた少しだけ泣きそうな顔で眉を下げて笑った。両隣の弟達も、錦も、結局みんなぼろぼろに泣いている。まったく一体どうして、妃子の出産という大切な日に、とんでもない贈り物がやって来てしまったのだろう。

「ほらお前ら、荷物もってやれ」

俺が弟達に指示すると、二人は階段を駆け下りた。錦もそれに続く。
宙太郎は白子の傍に駆け寄って荷物を取り上げると、泣きながら言葉を発している。

「し、白兄…」
「…ただいま、宙太郎」
「…後で一発、殴らせてほしいっス」
「いいよ、一発だけな」
「…おかえりっス」

宙太郎は白子の肩に顔を埋めて泣いている。その白子の顔をみて、空丸も錦も泣きながら笑う。

「…俺も一発殴りますね」
「仕方ないな」
「おかえりなさい、白子さん」
「ただいま空丸」
「…長…」
「…曇を守ってくれた事、感謝する」

錦が遠慮がちに呟いた言葉に帰ってきたのは、穏やかで優しい声だった。白子は白子なりに、本当に曇の人間を愛していたのだろうという事が伝わって、みんなその場で泣いてしまった。

空丸は渓の腕から猪助を取り上げようとしたが、決して渓から離れようとしなかった。むくれた顔で睨むように空丸を見つめている姿は、母親を守っているかのようだった。空丸は思わず笑って、それから渓の顔を見た。

「…渓さんも、おかえりなさい」
「…ただいま空丸。宙太郎に、錦ちゃんも」

錦は渓に抱きついて泣いて、宙太郎は白子の肩から離れて、荷物を持ったままわんわんと泣いた。そうして二人はゆっくりと、石畳の階段を上り始める。

俺は一足先に玄関を潜って部屋に入った。抱き上げられたままの美景がおろおろとしながら俺の顔を覗きこむ。少し釣りあがった大きな目、整った顔立ち、少し癖のある黒髪。なるほど、どちらの良いところもしっかり受け継いでいるらしい。美景は俺の顔をぺたぺたと触った。

「天火、どうしてみんな泣いてるの?」
「…美景の父さんと母さんに会えて嬉しいんだよ」
「天火も泣いてる」
「…これは、俺と美景の秘密な」

心配そうに俺の顔を覗きこむ美景にそう言ってやれば、秘密を喜んだ美景は、頭に桜の花びらをちょこんと乗せて、ふわりと嬉しそうに笑って、俺の涙を拭ってくれた。笑った顔は、渓にそっくりだ。

ばたばたと階段を上りきった弟達は、泣き顔のままで荷物を片付けて、久々に帰省した兄と姉を迎える準備を慌しく始めた。その後から恐る恐る玄関を潜った渓を、錦は間髪入れずに客間へ連れて行った。渓の腕の中の猪助は、警戒したように俺を睨んでいたが、その表情はどことなく、あの日俺に遺言を託したあの男に似ているような気がした。

美景も母のところに行くと言ったので、そっと小さな体を下ろしてやると、見慣れない場所に興奮しているのか、楽しそうに母の後ろを追いかけた。それから最後に、癖の強い白髪が玄関を潜る。

「…ただいま、天火」

小さな声でそう呟いたので、俺はふっと笑って言ってやった。

「渓の為だ」
「それでも、ありがとう」

その言葉が愛情と優しさに満ちていて、本当に渓をずっと大切にしてくれていたんだというのが伝わった。泣きそうなのを堪えながら、俺は答える。

「お前には、話したい事が山ほどあるんだ。殴られる代わりに聞いてくれや」
「そうだな、俺もお前に、話したい事が山ほどあるよ」

そういって二人はどちらともなく肩を組んだ。少年時代に戻ったような感覚が涙腺を叩く。

必死に涙を堪えながら渓達の待つ部屋に向かうと、すでに客間では美景と猪助がきゃっきゃと楽しそうに遊んでいる。赤い目をした宙太郎と空丸も茶を汲んで戻ってきたので、全員揃ったの確認した俺は声を張り上げた。

悪いな妃子、親友と妹の帰省と結婚祝いと出産祝い、全部纏めてやって来ちまった。今日ばっかりは、羽目外させてくれ。


「っしゃ!今日は宴だ!笑えよお前ら!!」


外は快晴、綺麗な桜、大蛇はもう、この世にいない。あるのは確かな温もりと、夢じゃないあの頃と同じあたたかな時間だ。

あれから六年、俺も気付けば三十一で、目まぐるしく変った世界の中、確かな事がもう一つ。

おかえり、ただいま。
もう二度と叶わないと思っていた言葉を交わして、二人は帰るべき場所に帰って来た。そうして此処から、また始まっていくのだろう。次の世代に紡いでいく、新しい物語が。

あの頃、月が欲しいと泣いていた太陽は、幸せそうに、月と笑い合っていた。





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