空が、瞼をゆっくりと開くように、夜が明ける。太陽が目覚め始めた頃、犲が指揮を執って警察の部隊と木戸の手負いの軍を率いていく。風魔の里を目指して進軍しているというのに、道中に風魔達は全く現れなかった。行く手を阻むでもなければ、何か罠を仕掛けているわけでもない。こんなにも静かで、不気味な緊張感に包まれる戦いは初めてだった。

蒼世は喉元まで湧き上がった違和感を無理矢理飲み込む。嫌な予感がした。恐怖は一切なかったが、妙な不安がぐるぐると腹の中で蠢いている。渓を追い詰めるような自分の行為が、夢であればどれほど良かっただろう。

隊を率いてしばらく進むと、明け渡した場所に出た。そこには小さな里が作られていて、家や畑があちこちにある。生活感の溢れる、確かな暮らしがそこにあった。山の奥深く、荒れた樹海が広がる住みにくい土地にあるこの場所こそ、風魔の里だ。その里には、まるで出迎えるようにして風魔達が立っていた。それぞれ武器を構え警戒態勢は取っているものの、襲ってくる気配はない。

そして里の中心部に大きな岩があったのだが、その上に見覚えのある男が立っていた。曇神社で暮らしていたあの風魔の男だ。その男が風魔小太郎である事は、蒼世もよく知っている。

蒼世の後に続いて、妃子に車椅子を押されながら進んでいた天火だったが、久しぶりに見た風魔の男の顔を見て思わず車椅子から立ち上がった。治療のお陰で不随だった半身も少しは動かせるようになっていたらしい。しかしまだあまり激しく動いてはならないのだろう、即座に妃子に諌められる。だが天火の耳に妃子の言葉は入って来なかった。唇からは、勝手に思い当たる名前が零れ落ちる。

「白子…」

その名前を聞いた風魔の男は、白髪をふわふわと風に靡かせながら、懐かしい声で答えた。

「久しいな、天火」


五十一、戦いの終わり


"風魔小太郎"の影武者。その家系に生まれた事を、猪は後悔していない。

妹を殺すよう指示した一代前の長の事は今もまだ憎んでいるが、影武者としての任務を全うして当時の長を守り、その命を落とした父の事は誇りに思っている。だから自分が父と同じ道を辿る事への恐怖は一切なかった。寧ろこれ以上の名誉はないと、胸を張るべき行為だとすら思う。

猪は今、白子の影として此処に立っているのだ。心から守ってやりたいと思えた二人の為に、汚れきった自分の力が役に立つのなら、妹を失ったこの世界で生きてきた価値はあったと感じられる。使い捨ての命など惜しくはない。

目の前には犲と警官隊、それから木戸の軍が攻撃の構えを取っていた。だが無闇に攻撃を仕掛けてくる気配はない。懸命な判断だと猪は思う。指揮官が戦況をしっかり把握しているのだろうという事はすぐに分かった。恐らく隊を率いているのは犲だろう。

一瞬でそこまで察した猪は、"風魔小太郎"の顔をして、"風魔小太郎"の声で、目の前の敵に向かって言葉を投げた。

「国の犬に告ぐ。今すぐ此処を立ち去れ」

凛としたその声は、息を呑むほど静まり返った里から広がり、森の中にまで木霊する。猪は続けた。

「我々は罪を犯していない。だというのに里に攻め入られ、応戦を余儀なくされた。お陰で多くの同胞が命を失う事になった。我々の望みは此処で静かに暮らす事だけだ。すぐに立ち去れば見逃してやろう」

"風魔小太郎"として猪の発した言葉を聞いた蒼世は、しばらく猪の顔を見つめた。しかしその目の前の男からは、少しも嘘を感じなかった。

蒼世は構えていた安倍の宝刀を鞘に納め、話し合う姿勢を見せてから一歩前に出る。風魔達は警戒し構えたが、やはり攻撃を仕掛けてくる様子はなかった。

「我々は風魔が大蛇の復活を目論んでいると国から命令を受けた。大人しく連行されれば命までは奪いはしない」

放たれた言葉に答えるように蒼世がそう言うと、猪は鼻で笑う。

「大蛇様の復活?そんな事を目論む馬鹿なら貴様らのすぐ傍にいるだろう。それとも犲は、その程度の事も分からない小物だったのか?」

安い挑発に乗りかけたのは警察隊の人間だった。蒼世はそんな連中を睨みつけて視線だけで黙らせてから、再び猪を見た。

「お前達が大蛇実験の資料を奪ったのだろう、大蛇を復活させるために」
「あぁ奪ったさ、だが大蛇様の復活など望んではいない。そちらに居る木戸という愚かな男のせいで、こちらに被害が出たから必要になっただけだ」

猪の言葉に警官隊がざわついた。里の外に広がる鬱蒼とした森にも風が吹いて、木々がざわめいている。蒼世の中の悪い予感が、じわじわと背筋を這い上がった。僅かに硬直した空気を裂いたのは天火だ。一歩前に出て、真っ直ぐ猪を見て言った。

「白子…聞きたいことがある」
「…」
「渓は…渓は何処だ?」

天火の言葉を聞いた猪は、一度瞼を伏せてからそっと視線を上げる。その瞳には、憎しみと悲しみが広がっていた。

「―――死んだよ、大蛇の細胞に飲まれて」

ざわめく木々の音と共に、その声は重く落とされた。天火、蒼世、妃子、他の犲の面々、全員から表情が失われる。天火は震える声で言った。

「…嘘だろ?」
「…山奥だったな、研究所は」

その言葉に天火は言葉を失った。山奥で火事があった事はともかく、そこに研究所があった事は政府関係者しか知らない情報だった。

「以前から渓を狙う動きがあった事は知っていた。大蛇の実験が防げれば、渓の身の安全が保障されると考えて資料を盗んだのは事実だ。だがそんな時、渓を里に置く事を歓迎しなかった一部の風魔が木戸に買われ、渓は研究所に攫われた。そして実験と称して過剰な大蛇の細胞を投与され、遊ばれるように身を裂かれ、動けないのをいい事に陵辱されそうになっていた。だから研究員ごと研究所を燃やし尽くしたのだ、俺が自らの手で」

吐き出される言葉から、誰も嘘を感じなかった。実験は行われていたのだろう、確かに。蒼世は木戸を取り逃し続けた事を静かに悔やんだ。

「渓を無事に此処へ連れ帰った時には、もうぼろぼろの状態だった。その後しばらく昏睡状態が続いて、どうにかしようと手は尽くしたが、今朝方苦しみながら死んでいったよ」

一つ一つの言葉が、天火の胸に突き刺さる。告げられた現実を受け止めきれず、脳は理解する事を拒否していた。そんな天火に向けて、畳み掛けるように猪は言う。

「天火、お前は、俺が渓を犠牲にしてまで、大蛇の復活を望んでいると思うか?」

怒りを込めて言いながら、猪は強く拳を握る。拳からは血が滲み、ぽたぽたと雫が零れ落ちる。岩肌は赤く濡れた。天火の表情には絶望が浮かんだままで、誰も口を開くことは出来なかった。誰一人声を上げないのを見てから、猪はもう一度続けた。

「もう一度云う。罪を犯したのは我々ではない。我々は、此処で静かに暮らす事を望んでいる。それ以上里に踏み込めば、我々とて容赦はしない。このまま大人しく立ち去れば見逃してやろう」

"風魔小太郎"として猪が告げれば、誰もが押し黙った。蒼世と天火は顔を見合わせる。このまま撤退するべきかと僅かに迷っていると、木戸の軍のあたりが騒がしかった。何事かと蒼世達がそちらを見れば、隠れるように後ろの方にいたはずの木戸が、信じられない程の形相で最前まで翔けて来たのだ。軍の人間に止められているというのに、必死に前に出ようとする。木戸は恨むような顔で猪を見ながら、張り裂けんばかりの声で叫んだ。

「貴様ァァ!!蛇の信者の末裔を何処にやったァァァ!!!」

蒼世と天火は木戸を見て愕然とする。木戸の発言と態度は、もはや自分が全ての元凶だと知らしめているようなものだった。正常な判断が出来ているなら、こんな所で出しゃばったりはしない。だがそんな事も分からなくなって取り乱すほど、木戸にとって『渓』という存在は貴重だったのだろう。渓以上に大蛇の実験体に適している人間など、この世にはいないのだから。

猪はそんな木戸に対して何も答えず、ただ穢らわしいものを蔑すむような、冷たい視線を送るばかりだ。木戸は構わず叫び散らした。

「大蛇の細胞に適合する人間が、大蛇の細胞で死ぬはずがないだろう!?何処に匿っている!!」
「…何度も云わせるな、貴様と言葉を交わすつもりはない」
「ほざけ若造!!あの小娘は貴重な実験体だぞ!?あの小娘を渡せェ!!!」
「―――俺の口から何度もそれを云わせるなと云っている!!!」

猪は"風魔小太郎"の声を張り上げた。周囲の空気が弾けそうなほどの殺気が、肌をびりびりと痙攣させる。誰もが竦んで動けなくなった。木戸は直接殺気に当てられて、小さく悲鳴を上げると、腰を抜かしてその場にへなへなと倒れ込む。

鋭い殺気を放ったままの猪は、まるで風のように軽やかに地面に降り立つと、ゆっくりと数歩前に出た。離れていてもはっきりと分かる圧に押されて、警官隊も木戸の軍もじりじりと後ずさる。

「これが最後だ国の駄犬共。早々に此処から去ね」

低い声が響く。木戸の態度を見るに、もう誰が犯人なのかは明らかだった。だが理由はどうあれ、風魔が研究所を焼き、研究員を殺したのが事実だとすれば、このまま野放しにしておくわけにはいかない。仮に一度隊を退いたとしても、逃げられてしまう可能性もある。

蒼世が僅かに迷いを見せた瞬間、恐怖におののいてたまらず叫んだのは木戸だった。

「殺せ…あの化け物を殺して、蛇の信者の小娘を探すのだ!!いっそ死体でも構わん!!!」
「っ、あの馬鹿…!」

慌てて天火が駆け寄ろうとするも、治療したての体は思うように動かない。それを察して妃子も木戸を止めようと駆け出すが、木戸は尚も声を上げた。

「金はいくらでもやる!!!探せ…探せェェェ!!!!」

天火達が止めるのも構わず、金に目が眩んだ木戸の軍は、とうとう踏み出しては一歩を踏み出してしまったのだ。

「残念だよ天火」

"白子"に言われて、天火は声の方を振り返る。そこには、憎しみと怒りに満ちた、見知った男の顔があった。


「交渉決裂だ」


猪がそう言った瞬間、里の至る所で轟音を響かせながら大きな爆発が巻き起こり、凄まじい勢いで炎が燃え上がった。家々が焼け、爆風で粉塵が上がり、炎が森に燃え広がって行く。それを合図にしたかのように、風魔達は容赦なく目の前の敵に襲い掛かったのだ。その場は一瞬で騒然となり、瞬く間に起こった混乱の中、ついに戦が始まってしまった。

前線に居た犲側の兵士達は、何の前触れもなく突然巻き起こった酷い爆風と、それによって飛び散った土木や破片に巻き込まれ、大半が一気に負傷した。同時に起こった火災のせいで隊列も乱され、退路もふさがれているような状態だ。謀られた、と蒼世は思いながら苦虫を噛み潰したような顔をする。

風魔の攻撃に応戦する蒼世の足と腕にも、木片が深々と突き刺さっていた。その上、粉塵にやられてまともに目も開けていられない状況下で、風魔という一筋縄ではいかない相手と戦わなければならないのだから、流石の蒼世でも戦況はかなり厳しい。

今回の戦いは、数で圧倒していた犲側の方が明らかに有利だったはずだ。しかし猪の誘導にまんまと乗せられて、木戸が策に嵌められてしまったお陰で、流れは完全に風魔に傾いている。このままでは犲側も無事では済まない。仮にどうにか数だけで風魔を制圧できたとしても、犲側の甚大は被害は避けられないのは明白だ。お互いに壊滅する事も考えられる。

蒼世はどうにか一度隊を退かせるべく指揮を執ろうとするが、勢いを増す炎のせいで隊列が分散しすぎている為上手く誘導が出来ない。猪はそこまで見越していたからこそ、昨夜のうちに戦があった場所を回って、争いの痕跡から相手の特性を見極めて罠を張り、準備をしていたのだ。抜け目のない男である。

そんな中、天火は車椅子に乗って里を駆け回っていた。妃子の制止は聞こえていたが、残念ながらそれで留まれるほど天火は大人しくしていられない。当然風魔達は不利な天火を狙って襲い掛かるのだが、天火は自分が傷付く事も構わず必要最低限の攻撃だけを避けて、車椅子とは思えない速さで無理矢理里の奥へ突っ切っていく。彼にはどうしても、確かめたい事があった。



轟々と燃える里の一番奥で、猪は焼け落ちていく里を見つめながら膝を立てて座っていた。真っ赤な炎と漆黒の煙が空に上っていく様は、死んでいった者達の命のように見えた。

猪の目の前では、絶命しかけている木戸が、この世の終わりを見たかのような顔で震えている。猪は爆発と同時に持ち前の俊足で木戸を捕らえると、渓の痛みを思い知らせるべく、早急に容赦のない拷問を行ったのだ。木戸は悲鳴を上げながら何度も救いを求めたが、この里で誰より残忍な影が、そんな言葉を聞き入れるはずがない。猪は表情一つ変える事なく、木戸の体をぐちゃぐちゃにした。

木戸の足と腕の関節は、全て本来の向きとは違う方向にへし折られ、這いつくばった体は、地面に縫いつけられるように苦無で貫かれている。両耳にはいくつもの長い針がぶっすりと突き立てられ、さらに喉を潰されていて、顎が外れるほどの大きさの石を強引に口に詰め込まれている為、もう言葉も発せず、息もまともに出来る状態ではなかった。そんな状態でもなお、本当にぎりぎりのところで死なせてはもらえなかったのは、ただ木戸に苦痛を味わわせる為だ。もういっそ死んでしまいたいと思っても、舌を噛んで自害する事も出来ない。ただ苦しみの中で何も出来ずに命が繋がれているだけだ。

「長」

炎と炎の隙間から、髪の短い風魔の女が現れた。どうやら無傷のようで、猪の前に膝をつく。女は視線だけで木戸を見やると、両耳に針が刺さっているのを目視して、既に耳が聞こえない状態である事を確認してから口を開いた。

「…猪様、ご報告に上がりました」
「はい、どーぞ」

いつもの調子で猪は答えた。

「曇天火が此方へ向かっております」
「…ま、そうだよなぁ、そうなるよなぁ」

猪は困ったように少し笑いながら空を仰いだ。出来れば彼には此処まで来て欲しくはないと思ったが、やっぱり無理そうだ。猪は仕方なさげに息を吐くと、女の方に視線を寄越す。

「戦況は?」
「敵はこの状況にかなりやられていて、予定よりも我々が優勢のままです。しかし数では押されているので、長期戦になった場合、全滅は時間の問題かと」
「分かった。じゃあ後は曇天火が到着次第、予定通り頼む」
「お任せ下さい」
「嫌な役任せて悪いな」
「滅相もない、勿体ないお言葉でございます」

女は頭を下げたままそう言うと、再び戦場に向かって足を進めた。猪はその背中を見送って、再び空を見上げる。空を覆っていた雲はもう晴れているが、高らかに空へ伸びる黒煙のせいで青空を見る事は叶わない。最後に少しくらい、綺麗な景色を目に焼き付けておきたかったな、などとらしくない事を思ってしまったのは、きっと渓に絆されたからだろうと猪は結論付ける。

猪は、懐から翡翠の耳飾りを取り出して、何となく空に翳してみる。煤けたような血がこびり付いた耳飾りは、やけにくすんで見えた。それを見つめながら、猪は一人で小さく呟く。

「…お前の守った女は生きてる。あともう少しだ」

空より遠い場所へ旅立った青年に向けてそう言ってから、猪は再び耳飾りを懐に仕舞う。そして十年ぶりに嘘をついた事を、ぼんやりと考えていた。妹が死んでから、初めての嘘だったように思う。だからといって罪悪感なんてものは少しもないが、その内容が「渓が死んだ」というものであるため胸が痛い。だがそう告げたときの感情や表情は、自分でも素晴らしいほどの名演だったと思う。

そんな名演が出来たのも、渓が本当に生死の境を彷徨ったからだ。勇太郎に賭けた渓が、もしもあの時姫を殺せずにいたら、二度とこちらに戻って来る事はなかっただろう。渓が目覚めるその瞬間まで、渓が消えてしまう可能性は十分にあったのだ。

あのまま渓が死んでしまったと仮定して話してみたら、本物の悲しみが湧き上がって、感情を憎悪が支配し、完全な殺意が生まれてしまった。だから猪が、あの瞬間放った言葉は、ある意味本当の気持ちでもある。渓に妹の姿を重ねた分だけ、「失う」という言葉が痛みとなって胸を突いた。本当に生きていてくれて良かったと心から思う。二人が生きて幸せな未来の為に旅立った事が、今此処で生きる猪の何よりの幸福だ。

不意に遠くから、ガラガラと何かを引くような音が聞こえてきて、猪はすぐに思考を切り替えた。表情を正して、"風魔小太郎"の仮面を被る。それと同時に、切り傷だらけでボロボロになった天火が、車椅子のまま息を荒くしながらやって来た。その瞳が転がる木戸を捉えた途端、天火の顔は分かりやすく歪む。木戸はまだ死んではいないが、もうその命が消えかかっている。猪はゆっくり立ち上がった。

「待ってたよ天火」
「白子…」
「探してるのはこれだろ」

何処からともなく、猪は紙の束を取り出して天火に見せた。それが大蛇の実験資料である事は、天火にもすぐに分かった。

「…こんな忌まわしい物をどうするつもりだ」
「…犲に渡す、悪いがそういう条件だ」
「こんなもののせいで渓は死んだんだぞ」
「お前だって元々は大蛇の復活を望んでただろうが」
「そうだな、あの頃はそれだけが全てだった」

その返答を聞いて、天火は猪を睨みつける。寂しそうな怒っているような、何ともいえない顔をしていた。その顔のまま天火は言う。

「大体な、俺はお前に云いたい事が山ほどあるんだ。あの時の返事だって聞いてない」
「…ほう?」
「今此処でもう一度聞く。本当のお前は、何処にいたんだ。曇神社にいた事はあったか?」

真っ直ぐな天火の問いかけに、猪は答えず黙り込む。それからふっと、少しだけ優しい顔で笑った。

「…あったんじゃないかな」
「…」
「あったと思うよ、きっと」

次に黙り込んだのは天火だ。何かを確かめるように、ただじっと猪の顔を見つめたままで動かない。猪はそんな天火の顔を見て続けた。

「だが此処に居るのもまた、本当の俺だ。風魔小太郎である事は揺るがない」
「…本当にお前が、親父とお袋を殺したのか」
「あぁ、俺が殺した」

その答えを受けても、天火の表情は変わらない。そんな天火を見ながら、猪は続けて口を開く。

「俺からもお前に聞きたい事があった」
「…何だ」
「風魔小太郎が、憎いか?」

猪からの問いを噛み締めながら、天火は口を噤んで今一度あの頃を振り返る。両親を殺され、自身の半身も不随になった。それでも記憶の引き出しから溢れてくるのは、温もりに満ちた思い出ばかりだ。共に過ごした十年の中には、本当の妹のように愛を注いできた渓の姿も確かにある。

思い返せば、風魔小太郎であった男は、その気になればいつでも手に入れられたはずの渓との間に、ずっと一線を引いていた。渓はともかく、男は渓の気持ちが自分と同じものであると知っていながら、決して渓を求めようとはしなかった。それは"風魔小太郎"が渓を傷付けてしまわないように、"金城白子"が引いた線だったのだろう。本当に心の底から大切に想っていたから、別れの未来を知っていた男は、曇神社に全て置いていこうとしたのだ。愛情も、温もりも、思い出も、渓も。

あの日、風魔小太郎は二つの家族を選ばなければならなかった。血を分けた弟のいる風魔か、金城白子として生きた曇家か。それは彼にとって、究極の選択だったのかもしれない。そして選び取ったのが風魔だった、ただそれだけだ。

風魔小太郎が犯してしまった罪や、親を殺された痛みが消えるわけではない。だけどそれと同じように、曇天の下で優しく色付いた日々もまた、消えるわけではない。

「…憎くはない、といえば嘘になるかもな」

戦いの最中だとは思えないほど、穏やかな声で天火は答えた。

「だが"金城白子"は俺の親友だ。根っこが優しいのはよーく知ってる。そんでもって、俺の可愛い妹が選んだ男だ。もしまたどっかで会えるなら、一発、いや、十発は殴ろうと決めてるけどな」

そう言って天火は一度瞼を伏せて、ゆっくりと猪に視線を向けた。その眼差しには、強い力が秘められていて覇気がある。十四代目の曇の守人は伊達ではないな、と猪は思った。

「それを渡せ白子」
「断る、と云ったら」
「―――百発殴って取り返す!」
「なるほど、お前らしい」

天火は車椅子を捨てると、武器も構えずに猪に向かって行く。少し動かせるようになったとはいえ、半身は完全に動くようになったわけではないし、治療が終わったばかりの体は、本当は死にたくなるほど痛かった。それでもそんな事は微塵も感じさせないほど機敏な動きで天火は猪に拳を振りかざす。

だが、天火が抱える負担はあまりにも大きく、猪との力の差は歴然だ。半身がまともに動いていれば、もっといい勝負は出来ていただろう。猪は天火の攻撃をひらひらと交わしながら、激しく燃え盛る炎の傍に移動する。そして僅かに隙を作った天火の鳩尾を力一杯蹴り上げた。強い衝撃が天火の内臓を刺激して、天火は血を吐く。体は僅かに空中を漂ってから、重力に引かれて地面に打ち付けられた。

しかしすぐさま体制を立て直して、再び猪に飛び掛る。何度か攻防を繰り返したが、やはり天火ばかりが殴られる形になって、とうとう天火は地面に膝をついたまま動かなくなった。すぐ傍で炎が燃え上がっている

「ゴホッ、ゴホッ」
「こんなものか?」

猪がそういうと、一頻り咳き込んだ天火は、ゆっくりと上体を起こしながらくつくつを喉の奥で笑った。その様子を表情を崩さず眺めていた猪だが、そんな猪の顔を見て天火はニヤリとほくそ笑む。

「なるほど…もう十分だ」
「…どういう事だ」

意味深にそう言った天火に向かって猪が問えば、天火は笑みを崩さずに答えた。

「…云っただろうが、あいつは根っこが優しいんだ。わざわざこんなに人が苦しむような急所突きばっかりしねぇよ」

天火の言葉に猪はぴくりと眉を上げた。

「戦い方、攻撃の間合い、避け方、目線の誘導から手癖まで、どれを取ってもとことん同じだ。だけどあいつは、こんな風に人を嬲るようなやり方はしない。俺が本調子じゃなくて油断したか?」

息を荒くしながら天火は立ち上がった。だが、此処へ来るまでに散々攻撃を食らい、猪に全身を痛められ続けた体では、もう戦うどころか動けもしないだろう。そんな状態でも立ち上がった天火は、確信を持って言った。

「…白子と渓は何処だ」

猪はふっと笑みを零すと、わざとらしく肩を竦めた。

「…兄妹そろって勘がいいとは」
「何…?」
「人を痛めつけるのは特技でさ、つい俺の癖が出たらしい」

そう零された声は、天火の知らない声だった。飄々とした、馴染みのない低い男の声を聞きながら、白子と同じ顔の男を天火は驚いて見つめる事しか出来ない。そんな天火を見て、猪は満ち足りたような、勝ち誇ったような声で言った。

「悪いな曇天火、時間切れだ」

言うや否や、猪は持っていた大蛇の資料を、迷う事無く炎の中へ投げ捨てた。驚いた天火が僅かにそちらに気を取られた瞬間、天火の背後から銃声が鳴り響く。

それは一瞬の出来事だった。
その音と共に弾かれた鉛玉は、真っ直ぐに、猪の胸を撃ち抜いた。天火は突然の事に呆然として動けない。振り返ってみても、猪を撃ち抜いたであろう人物の姿は何処にもなかった。

猪はゴホッと血を吐いた。射抜かれたのは心臓のあたりだ。天火は慌てて猪に駆け寄ろうとするが、突然視界がぐらりと揺れて立って居られなくなった。指先は震えて、体に力が入らなくなりその場に倒れ込む。猪はそんな天火を見つめて言った。

「安心しろ、しばらく痺れるだけで死にはしないさ」
「ぐっ…!」
「時間は十分稼げた。後は此処で"風魔小太郎"が死ねば全て終わる。邪魔してくれるな」
「何、を…!」
「―――いつか千発殴れたら、あいつを許してやってくれ」

その言葉をただ聞き入れる事しか出来ない天火はそのままに、猪は自ら炎の中へ足を進めた。天火はやめろと言いたいのに、もう声が出ない。

ゆっくりと燃え盛る炎に身を投じた猪は、その身を焼かれ始めてから、ようやくぐらりと倒れ込む。心臓を掠めた銃弾の痕から、止め処なく血が溢れて止まらなかったが、その血もあっさり焼かれていった。

遠くで、空に向けて放たれた銃声が聞こえる。『猪が死んだ』という合図だ。それはつまり、この戦いでの"風魔小太郎"の死を意味している。この音が聞こえたら、生き延びている風魔達は皆、それぞれ自決するだろう。

ただ、影武者であるとはいえ、風魔の長としての役割を担う"風魔小太郎"を殺害し、空に銃声を放たせるという重い役目をあの髪の短い風魔の女に背負わせてしまった事は、少し申し訳なく思う。けれど、これで無事に"風魔小太郎"が死に、風魔は壊滅したのだと敵に思いこませられるだろう。そうしてようやく、猪の任務は完了だ。

だが天火が猪を見破ってしまったのは想定外だった。親友と豪語するだけはある。兄妹二人、揃いも揃ってよくもまあ見破ってくれたものだと猪は思いながら、緩やかに空へ右腕を差し出した。



本来なら、風魔はもうとっくに負けていた。手負いの風魔相手に、敵の数が圧倒的に多すぎたからだ。もしも普通に戦っていれば、もっと早くに決着はついていただろう。

それをわざわざ、交渉するふりをして、回りくどいやり方で、時間のかかるこんな戦い方をしたのは、敵を混乱させて注意を引き少しでも此処に引き止めておくことで、白子達の逃げる時間を確保するためだった。十分に時間稼ぎはしたし、風魔の俊足があれば足が付くような距離にはもう居ないはずだ。何処かで幸せに暮らしてくれればいい。

これでやっと、全て終わったのだ。猪は身を焼かれながら、ぼんやりとそう思う。くだらないと思い続けた世界だったにも関わらず、随分と生き永らえてしまった。それでも自分なりの幸せを見つけて守れた事は、猪にとっては幸いだった。空に投げられた右腕が爛れていくのが見える。

この世界から解き放たれる猪の頭には、一人の少女の顔が浮かんでいた。あの日救えなかった妹の顔だ。猪は、妹を守れなかった。あの薄暗い雨の日に、か弱い命がいとも容易く奪われた事は、今でも鮮明に思い出せる。

猪は、胸を張って妹に会えるかを考える。妹がこの世に生まれ落ちた瞬間から、彼女が死ぬ最後の日まで、無垢な笑顔を欺き続けた自身の罪は重い。最後の日、約束していた我儘も聞いてやれなかった。妹は、猪がこの世界でたった一人、本当に愛した特別な存在だ。出来る事なら、空より遠いところで、もう一度会えたらいいと思う。

けれど、僅かな血にすら染まっていない純白の少女と、黒く染まり続けた自分の命の行き先が同じだとは、猪には思えなかった。それにもう妹は、自分よりも遥か遠くにいるような気がした。こうして腕を伸ばしていれば、少しは届く気がしたが、思い違いだったらしい。

心臓の音が緩やかに閉じていくのを感じながら、猪はその身を焼かれていく。視界は霞んで、もう何も感じなかった。後はもう消え行く命に導かれるまま、流されていけばいい。そんな事を思いながら猪がゆっくりと静かに目を閉じた、そのときだった。


『あにさま』


鈴のような優しい声が聞こえて、反射的に重い瞼をこじ開ける。身を焦がしていく炎の中、ぼやけた視界の中でもはっきりと見えたのは、空から伸ばされた細く白い腕だった。それが誰のものなのか、猪は良く知っている。

空から伸びた白い腕に導かれるように、猪はそっと小さな手を掴んだ。その瞬間、自分が背負ってきたいくつもの重荷が急速に消えていく。心も体も、羽根のように軽くなって、鈴のような声はより一層鮮明に聞こえた。


『おかえりなさい、あにさま』


妹が死んだあの日、その言葉を聞くことは叶わなかった。二度と叶わないとすら思っていた。それから十年以上の月日を重ねて、ようやく猪は帰って来れたのだ。この世でただ一人、心から大切に想えた最愛の人の傍に。

一筋だけ頬を伝った涙は、一瞬で焼き尽くされてしまったが、もう猪には十分だった。そしてそっと目を閉じる。

許してくれるか分からないし、もしかしたら悲しませて嫌われてしまうかもしれない。けれどもう、嘘は言わないと誓ったのだ。騙していた事も、隠していた事も全部、空の向こうでちゃんと話そう。醜い思いの丈を連ねて、本当の気持ちを伝えるのだ。そして、あの日聞けなかった我儘も叶えてやりたい。もう誰にも邪魔されない、穏やかな世界で。

炎に焼かれ、猪は体を失っていく。そしてやっと、懐かしい温もりに包まれて、役目を終えた命は解放された。空の向こうで最愛の人の笑顔に迎えられながら、猪は心の中で呟いた。

ただいま、小鳥。


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