相手が軍を引いた事で一旦戦が落ち着いたので、猪は争いがあった場所を順に回っていた。特に爆発のあった西側は山が燃えてしまってかなり荒れ果てており酷い有り様だった。これだけの量の火薬が里に投げ込まれなかったのは幸いだっただろう。

西側で応戦していた髪の短い風魔の女が生き延びていたので話を聞くと、渓の傍についていた子供が単身で偵察に行った際、相手が大量の火薬を準備しているのを発見したらしい。投げ込まれる前にどうにかしなければと思って様子を伺っていたところ、同じく渓の傍についていた別の少年が後からもう一人合流したので、二人で協力して敵ごと纏めて爆発させたのだそうだ。

幼い二人の命は犠牲になったが、そのお陰で西側の風魔はほとんど無傷で生き延びていた。それが良かったといえるのかどうかは明言出来ないが、少なくともそれで多くの命が救われたのは事実だ。自ら稽古をつけてやっていた少年達の顔を思い浮かべて、猪は救えなかった事を悔やむ事しか出来ない。もし今此処に彼らが居たら、命を無駄にした事をひたすら叱り付け、その後で目一杯褒めてやっただろうと思う。

そして猪は今、一人の勇敢な若者の前に立っていた。風穴だらけになった青年の体は血に塗れ、立つこともままならないはずだというのに、両足を確かに地に着けたまま事切れていた。見慣れた翡翠の耳飾りは、赤く染まって夜風に揺れている。周囲には急所を当てられ息絶えた亡骸が無数に転がっていた。

「…仁王像かお前は」

呆れたように小さく零れた猪の声は、酷く優しくて寂しさに満ちていた。融通の利かない不器用なその死に様は、彼らしさに溢れていて、なんとなく情けなくて、それ以上に誇らしい。猪は歩み寄って、硬くなってしまった青年の体を抱きしめる。冷え切った体には、もう生命は宿っていない。青年は渓を守る影ではなく、渓を守る騎士になったのだ。

「…本当に、よく頑張った」

猪が頭を撫でてやれば、緊張から解き放たれたかのように、青年の体はぐらりと傾いた。その亡骸を猪はそっと横たえる。残念ながら、墓を作ってやれる時間は残されていなかった。代わりに両耳に下げられていた翡翠の耳飾りを外して、猪はそれを丁寧に懐に仕舞う。

「お前が守った女のその後と、お前が選んだ風魔の最後、ちゃんとどっちも見届けさせてやるから、後はどっかから見守っててくれな」

もう声も届かない青年に猪はそう語りかけて、最後にもう一度、勇敢な彼の顔を見た。幸せそうな、それでいて勝ち誇ったような、満ち足りた顔をしていた。普段は相当無愛想だったくせに、最期の顔だけは一丁前で、猪は小さく笑った。ここに来る道中に二人の子供の亡骸も見かけたが、彼らも同じような顔で死んでいたのを思い出す。

「後は、俺に任せとけ」

頼もしく穏やかな声で猪は言うと、ようやく立ち上がって、振り返る事無く大地を蹴った。こうして最後の夜が、静かに始まったのだった。


四十九、姫が遺したもの


「姫さんを、渓さんの手で殺してください」

白子に支えられながら上体を起こしている渓も、それを支えている白子も、勇太郎にそう言われて言葉を失った。ただでさえ静かな空気は一層静まり返る。頭を打っただとか、悪いものを食べただとか、そんな事も言えないくらい、勇太郎は真面目な顔で続けた。

「今までの渓さんの話を聞いた上で判断しました。渓さんと姫さんは、同じ体に宿った別の生き物です。今のお二人の状況を見ると、大蛇は姫さんにしか宿れないのだと推測されます。渓さんはあくまでも"姫の器"であって、"大蛇の器"ではありません。さらに今回の場合、大蛇といえど所詮はただの埋め込まれた細胞です。その細胞がいかに恐ろしいものかは重々承知の上で申し上げますが、それは姫さんと融合する事でどうにか復活しようともがいているだけの思念に過ぎません。本来大蛇が持つ力よりも、絶対に弱いはずなんです。だから直接渓さんの体を奪う事は出来ないでいるのでしょう。その為、回りくどいですが大蛇は姫さんを取り込んで、"蛇の信者の姫"として渓さんの体を奪ってから、大蛇として復活する必要があるのだと思います」

勇太郎は至って真剣な顔のまま続けた。

「だから渓さんがもう一度内側にある世界に行き、渓さん自身の手で姫さんを殺せば解決すると僕は思っています。要するに渓さんの中に、渓さんという人間だけを残す形です。今日打ち込んだ薬で大蛇を殺すつもりでしたが、経過を見る限り、投薬では細胞の進行を遅らせる事しか出来ないでしょう。ですが力はかなり弱まっているはずなので、内側の世界に行っても取り込まれる事はないと思いますが、仮に取り込まれたらそこで終わりだと思ってください。戻って来れたとしても、その後体にどんな影響が残るのかは分かりません」

渓と白子は黙り込む。姫を殺す、なんて事は考えもしなかった。勇太郎もそう思っていたからこそ、ずっと口を噤んできたのだろう。確かに馬鹿にされて笑われてもおかしくないような話だ。

「…渓さんに、人殺しをしろと僕は云っているようなものです。そしてこれは、一か八かの賭けです。はっきり云って無謀ですし、とんでもなく馬鹿げた方法だとも理解しています。それでももう、この一晩でどうにかするのなら僕はこれしか思いつきません。どちらにせよ、このままでは渓さんの身も心も壊れてしまいます。どうするかは、お二人が決めてください」

渓と白子は視線を合わせた。思ってもいなかった方法を提示されて戸惑っているのもあったが、何より不安の方が大きかったのだ。

やると答えたのはいいものの、それが姫を殺す事だと言われてしまって返答に困ってしまう。勇太郎を疑っているわけではないが、彼が言うようにあまりにも無謀で、一か八かすぎる提案に困惑を隠せない。けれどもう、残された時間は少ない。

二人で顔を付き合わせたままどうするべきなのかを考えていると、唐突に飄々とした声が聞こえて来た。

「俺なら眼鏡の方法に賭けるぞ」

三人が声の方を見ると、入り口に猪が立っていた。こんなときだというのに、猪はいつもの調子を崩さない。何処から聞いていたのかは分からないが、話は把握しているらしい。

猪はすたすたと渓の方に歩み寄って傍にしゃがみ込むと、白子に支えられている渓の手のひらに、何かをぽんと置いた。

「ほら、お守り」

渓の手のひらには、白子の屋敷に置いたままにしてしまった赤い丸簪が握らされていた。猪は此処へ来る前に、屋敷の状況も確認して来たのだろう。その際に、少女の遺体にも敬愛を込めて手を合わせていた。

「不安そうな顔するな、大丈夫だよお前なら」
「猪さん…」
「賭けは得意だろ?」

そう言って猪はニヤリと笑うと、渓の頭に大きな手のひらを置いてわしゃわしゃと頭を撫でた。渓はポカンとして猪を見つめるばかりだったが、視力を取り戻す大蛇実験が始まる前の夜にも、猪に賭け事を持ちかけられた事を思い出す。あの日はまだ目は見えなかったが、きっと今日と同じような顔をしていたに違いない。

「そもそも、こんな時に長が一緒になって不安そうな顔してるから決断出来なくなるんだよな、男ならどっしり構えてて欲しいよな。うんうん、分かるぞ。本当にうちの長は女心の分かってない男だと思う」

猪は渓の頭を撫でながらわざとらしく嘆くようにそう言った。その言葉に白子が不機嫌そうに顔を顰めたのは知っていたが、そちらには一切目線も寄越さず、少しだけ間を置いてから優しい声で続けた。

「…俺はあの日、大事な人を守れなかった。だけどお前は、自分を守る事で大事な人を守れるんだ」

落ち着いた穏やかな声は、まるで本当の妹に言い聞かせるかのように、優しい愛情で満ちている。乱暴に撫で回した渓の頭から手のひらを離して、猪は丁寧に渓の髪を梳いた。

「大丈夫、この腑抜けた面した長には俺がちゃーんと喝入れといてやるから、目覚めた時にはこいつの顔もしゃきっとしてるよ」
「…猪さん」
「皆で待ってる、だから行っておいで、お前なら出来るよ渓」

猪のその言葉は、不安の底に居た渓の心を、優しく掬い上げた。途端に渓の心が軽くなる。あれほどまで自分の中で渦巻いていた不安は、もうちっとも残っていない。

手のひらの丸簪を握り締め、渓ふわりと、いつものように笑った。

「…ありがとう猪さん」

渓はそう云うと、自分を支える白子の顔を見つめた。白子はまだ不安げに渓を見つめているが、心配されている事は渓ももう重々承知だ。ずっと昔から、白子は心配性で過保護なのだから仕方ない。こんな状況だというのに、幼い頃からの優しい思い出が蘇ってきて、渓は笑う。不思議な事に、本当に大丈夫だと思えた。

「…白子、私、行って来るね」
「…待ってる」
「うん、待ってて」

渓は強く、母の形見を丸簪を握った。

「行ってきます」

そう言って笑った渓は、ふっと目を閉じて、白子の腕の中に眠るように沈んでいった。その姿を確認した後、猪は突然白子の胸倉を掴むと、強引に白子を引き寄せて盛大な頭突きを食らわせる。ゴツン、という鈍い音が静かな空間にやけに響いた。それを目撃してしまった勇太郎は、驚きすぎて固まってしまう。

白子は驚いて目を丸くするばかりだったが、目の前の端整な男の顔が怒っているのが分かってしまって、何も言えなくなった。

「この馬鹿垂れが、弱ってる女の前で情けない顔すんなよ」
「…何を、」
「これから先、この子を守れるのはお前だけなんだぞ。導いてやれるのも、支えてやれるのもお前だけだ。そのお前がそんな顔しててどうする」

諌めるように、それでいて真っ直ぐに猪は言った。

「甘えるのと不安にさせるのは違う。守るのと束縛するのは違う。信じるのと手放すのは違う。しゃっきりしろよ、男だろ」

猪の言葉は、親友のように共に過ごしたあのカニ頭の男の顔を思い出させた。似ても似つかないはずなのに、懐かしい感じがしてしまって、白子はつい口を閉じた。猪はようやく白子の胸を離すと、構わず言葉をぶつける。

「こんな状況だからこそ前を向いて、お前はどっしり構えてろ。そして信じてやれ、お前の見込んだ女なら大丈夫だ」

真摯なその言葉を受けた白子は、ようやく肩の力が抜けた。そんな白子を見て、やっと猪は笑みを零す。本当に、兄のようだった。

「…そうだな」

白子はそう言って、腕の中で目を閉じる渓を見つめた。不安が完全になくなったと言えば嘘になる。渓が絡むとどうも冷静でいられなくなるのも事実だ。それでも、猪の言葉に確かに支えられたせいか、本当に大丈夫な気がした。

言霊なんて信じてはいないが、少なくとも猪の言葉には力があった。白子の弱さを見せられるのが里には猪しか居ないというのもあるのだろうが、だからこそ猪の存在は大きい。白子にとってだけではなく、渓にとっても風魔にとっても、彼の支えがあってこそ成り立っている部分は多いのだ。

「―――待ってるよ、渓」

優しい表情で最愛の人の白い頬を白子は撫でて、白子は顔を上げた。その表情は、いつもの凛々しい長の姿だ。その顔を見て、猪も安心したように表情を和らげた。

「外に風魔達が集まり出してる、適当に指示出しといていいか」
「構わん、お前に任せる」
「御意に。おい眼鏡」
「はっ、はい!」
「お前も少し寝とけよ、お疲れさん」

猪は勇太郎の頭をぽんぽんと撫でて労いの言葉を掛けると、さっさと出て行ってしまった。猪に散々こき使われてきた勇太郎だったが、思わぬその行動につい泣きそうになる。

白子はそんな猪の背中を見送って、いつになく優しい猪の考えを読み取ると息を吐いた。あれは後で説き伏せることにして、白子はもう一度渓を見る。今夜中に目を覚ましてくれる事を願いながら、白子は渓の白い額に唇を落とすのだった。


 ● ●


美しかった世界は、憎しみが覆いつくす闇の世界に変わってしまっていた。黒い霧のようなものが辺りを包みこむ。

渓の目の前には、自分と同じ姿を模った、自分ではない生き物の姿があった。体は黒い靄のようなものを放っていて、もはや原型を保っていないようにも見える。その体から聞こえてくるのは、悲しい、憎い、辛い、といった負の感情の音ばかりで、それが渓の不安を駆り立てた。

しばらく渓が何も出来ずに目の前のそれを見つめていると、それはゆっくりゆっくりと顔を動かして渓を見た。ぐにゃりと歪んだ顔は、もはや渓の顔ですらない。人とも蛇とも言えない奇妙な生き物の姿に変わっている。

かつて"姫"と呼ばれたはずの娘の姿は、もう何処にも存在していなかった。

『渓…渓…憎イ…大蛇様ニ刃向カウ者…許サナイ…許セナイ…』

ゆらりと目の前の生き物が動いて、覚束ない足取りで渓に近寄った。

『渓…私達ハ…ヒトツニ…ナルノ…』

両腕を伸ばし、まるで屍が動き始めたかのように向かってくる目の前の存在は、確かに恐ろしかった。けれどそれ以上に、渓は悲しくなった。ずっと渓を見守り続けたはずの姫が、もうそこには居なかったからだ。

「…姫」

渓が呼んでも、目の前のものには届かない。それでも渓は懸命に言葉を投げかけた。

「お願い正気に戻って、私、貴女まで失いたくはない。貴女を殺したくない」

姫もまた、渓と同じく『蛇の信者』という一族の運命に巻き込まれただけの被害者だ。渓と同じように体を奪われ、三百年も漂って、自分の記憶を全て失って、そうしてようやく手にした渓という器を生かす為に、姫は再びこの世界に閉じ込められてしまった。

『渓…私ト…ヒトツニ…』
「お願い、大蛇なんかに負けないで、もっと綺麗な世界を一緒に見よう?」

懸命に語りかけても、声は届かない。そしてとうとう、姫であったものの両手が、渓の首を締め上げた。

「うっ…」

必死に振りほどこうともがいてみるが、黒い靄には実態がないのか触れられない。喉をきつく押さえられて息が出来くなった。まずい、と思ったが、触れられなければ足掻く事も不可能だ。

『渓、私ト、一緒ニ』
『ズット、大蛇様ト、ヒトツニ』
『憎イ、悲シイ、皆、殺シテシマエ』
『寂シイ、苦シイ、怖イ、助ケテ』

目の前のそれは、誰のものか分からない声で、同じ事を繰り返す。渓は徐々にその声が遠くなるのを感じた。指先から徐々に、自分自身も侵食されていくのが分かる。このまま息が止まってしまったら、姫と同じように、真っ黒い靄のような生き物になるのだろうか。

視界がチカチカとし始める。もはや頭も殆ど働かない。此処で死んでしまったら、白子達を悲しませてしまうのに、どうしたって逃れられなかった。

息が出来ないまま、もう諦めるしかないのだろうか、と渓がそう思った時、突然聞きなれない男の声が聞こえた。

『――様』

点滅する視界の中に見えた男の顔ははっきりとは分からなかったが、見かけた事もない男だった。浅黒い肌にがっちりとした体格で、長い黒髪をひとつに束ねている。誰かの名前を呼んでいるが、名前はどうしても聞き取れない。男の声はまだ続いた。

『何を仰いますか!――様はお美しいです!』
『――様は、本当に花がお好きなんですね』
『――様は俺の命の恩人ですから』
『そんな不健康な物ばっかり食べてちゃ駄目ですよ!』
『何があっても、俺が――様をお守りします』
『俺、一生傍に居るって決めてるんで』
『――様、俺、貴女の事、好きでした』

蛇の目を使って見えるのと同じように、渓は誰かの視界から、その男の姿を見ていた。全体的にぼやけていて、はっきりとは分からない。時折視界に、琥珀色を薄めたような綺麗な髪がちらついた。恐らく、この視界の主の髪だろう。

それが何なのか分からないまま、渓の呼吸は限界を迎える。とうとう視界は真っ白に染まって、最後の景色が浮かび上がった。

湿気た洞窟の奥から、視界の主は重い体を引きずるようにして光の方へ歩いている。そしてようやく辿り着いた洞窟の出口付近に、先程の男が立っていた。男の周りは死体で溢れていたが、男も血塗れで片腕を失くしているばかりか、体中に矢が刺さっていた。出口の外には、獲物を逃がさぬようにと兵士達が弓や火縄銃を構えている。

視界の主は、その光景を目の当たりにして硬直した。それと同時に、男の体がぐらりと傾いて、その場にどさりと音を立てて倒れたのだ。刹那、張り裂けんばかりの声で視界の主は叫んだ。

『小太郎!!!』

視界の主は女だった。名を呼んだその声は随分と掠れていたが、それでも叫ばずには居られなかったのだろう。重い体を懸命に動かして、女は小太郎と呼んだ男に駆け寄ろうとする。

『出てきたぞ!蛇の信者の女だ!』
『撃てぇ!殺せぇ!!』

出口を固めていた兵士達がそう言うと、彼らは次々に矢を放ち、火縄銃で女の体を撃ち抜いた。女の体は呆気なく射抜かれて、その場に膝をついて前にどさりと倒れこむ。視界はもう、殆ど見えなくなっていた。

『こ、たろう…』

薄い琥珀色の髪が視界で揺れる。女は必死に腕を伸ばしたが、小太郎、と呼ばれた男に、その腕は届かないまま、静かにその視界を閉じた。

そこまで見えて、渓はこの視界が誰のものだったのかをようやく理解する。これは、ずっと忘れられていた、蛇の信者の"誰か"の記憶だ。それが誰のものなのか、もう渓は本能で悟っていた。

「こ、たろう」

最後の力を振り絞って、渓が掠れた声でその名前を呼ぶと、びくりと目の前の姫だったものが肩を揺らして、渓の首を解放した。渓は立っていられなくて、倒れるようにその場に座り込むと激しく咳き込んだ。一気に空気が体全身を巡って、変な呼吸になってしまう。

あまりの苦しさから解放された渓は、涙ぐんだまま何度も咳き込んで、必死に呼吸を落ち着かせた。目の前では、姫だったものが頭を抱えて呻き声を上げている。

何とか息を整えて、渓はまだ掠れた声のままで、必死に姫に語りかけた。

「…小太郎、思い出して、小太郎よ。貴女の、大切な人だったんじゃないの?」
『小太郎…違ウ…アレハ…風魔ノ弟…』
「違う、彼じゃない。貴女の中にいるはずでしょう…?思い出して、お願い」
『ウ、ウア…小太郎…小太郎…』

頭を押さえて、目の前のそれは膝をついた。黒い靄は薄くなり、徐々に人の形を取り戻し始める。今しかないと察した渓は、畳み掛けるように続けた。

「浅黒い肌の、長い黒髪の人。貴女は、薄い琥珀色のような髪をしてる」
『アァ…あアァ…』
「…貴女は花が好きなのよね?不健康なものばかり食べてちゃ駄目って叱られてたんでしょう?」
『あ、あァ……』
「彼は…貴女の事が、好きだったんでしょう?」

渓の言葉に、目の前のそれは目をぐるりと動かして渓を見た。そして凄まじい勢いで再び渓の首を締め上げる。

『渓…ヤハリ、オ前ハ、生カシテオケナイ…!』

低く怒りに満ちた声は、姫のものではない。これはきっと、勇太郎が言っていたように大蛇の細胞に宿った思念なのだろう。人に対する憎しみと怒りに取り憑かれた、悲しくて哀れなもののように思えた。

人の体を取り戻し始めた相手であれば振りほどけるのではないかと思った渓は再び抵抗するが、やはり腕は靄がかかったままで振りほどけない。

どうしても、渓の声は届かないのだろうか。渓はもう一度小太郎という名を口にしようとするが、先程よりも強く首を絞められて、とうとうそれも叶わない。

結局何も出来ずに、大蛇に取り込まれてしまうかもしれない。
どうすればいいのか必死に渓は考えるが、またしても視界がチカチカとし始める。悲しませたくない大切な人達の顔を思い浮かべ、何とか耐えようともがいていたその時、頭の中に直接声が響いた。


―――渓、私の光。


それは、渓の中で何度も聞いた、耳馴染みの良い声だった。


―――それを、私の心臓に。


夢でもなければ聞き間違いでもない、確かにはっきりとその声は届いた。器である渓を幾度も救ってきた声だ。

同時に、渓の右手には母の形見の丸簪があった。何故、と聞かれても、理由なんて分からない。初めからあったのかも知れないし、奇術みたいに突然現れたのかもしれない。けれどそれを強く握った瞬間、何かに導かれるように、渓の体は動いていた。

そして丸簪の切っ先が、人の体を取り戻し始めた目の前の生き物の心臓を、容易く貫いた。渓の手には確かに何かを突き刺した感触が伝わってくる。

渓は固まったまま、動けなくなった。自分の首を締め上げていた腕はもう離れてしまっていて、目の前の生き物は何も言わずにぐったりと渓にもたれ掛かる。

すると、先程まで世界を包んでいた黒い霧は次第に晴れ、徐々にあるべき姿を取り戻し始めたのだ。ずっと聞こえていた大蛇の声も、もう聞こえない。恐らく勇太郎の見解通り、あの細胞は姫にしか寄生することが出来なかったのだろう。

渓が大蛇の血を分けられた一族の末裔で、尚且つその中に姫を宿していたからこそ、前例のない異変が起きたのは間違いない。少なくとも蛇の信者でなければ、とっくに大蛇の細胞が暴れだして無惨な最期を迎えたはずだ。死んでいった数多くの実験体達のように。

蛇の信者の記憶の世界に、いつもの静けさと寂しさと美しさが蘇る。
だがそれも一瞬の事で、突然世界が全てバキバキと音を立て、割れた硝子のようにひび割れ始めたのだ。姫を存在させる為に存在していたこの世界が、主を失った事で崩壊を始めた事を渓は本能で悟ったが、少しも動き出すことは出来なかった。

人ではなくとも、渓は何かを自らの手で殺してしまった。手のひらから伝わるその感覚が消えない。

罪悪感と恐怖で体の震えが止まらなかった。世界が壊れてしまう前に早く帰らなければ、このまま一緒に消えてしまうかもしれないのに、自らの手で姫を失ってしまった事実が渓の思考を閉ざしてしまう。

ずっと彼女は自分を救ってくれていたのに。なのに私は、彼女を。

渓がそんな事を思って自らの罪に打ちひしがれていると、ふと背中に優しく腕を回された。温もりに包まれて渓がハッとして顔を上げれば、先程見えた薄い琥珀色の髪が揺れている。優しく抱きしめられている事はすぐに分かったが、肩越しに見える綺麗な髪が視界に映るばかりで、顔は見えなかった。

「…渓、私の光」

馴染みのない女の声を、渓は先程聞いたばかりだった。女性にしては少し低い声は、すとんと耳に落ちてくる。彼女こそが、渓の中に生まれてしまった"姫"の本当の姿なのだろう。

「私はお前になりたかった、胸を張って、誰かに愛される者になりたかった」

独白のようなそれは、壊れかけた世界に響き渡る。色取り取りの硝子の破片のような記憶が形を失くして行く中で揺れる、とても薄い、光のような琥珀色の髪が美しかった。

「…私を取り戻してくれて、ありがとう、渓」
「…姫」
「私はもう姫じゃない。失くしていた記憶を持って、私はやっと、あるべき場所へ帰れる」

壊れ物を扱うかのような優しくて細い指先が、渓の髪を撫でた。姫であった彼女の体もまた、音を立ててひび割れ始めていた。

「最後の姫だった私が消えれば、この世界は消滅する。そうすれば、私と共に大蛇も消える。安心しなさい、貴女の中の要らないものは、私が全部連れて行くから」
「待って…私、貴女を…貴女を、殺して…」
「お前は私を救ってくれた。それだけは決して履き違えてはいけない」

自分を抱きとめる女の体が、どんどん割れて壊れていく。渓は咄嗟にその体を抱きしめ返した。女の体は骨ばっていて、痩せこけていた。

「三百年前、私は既に死んでいる。そして姫として此処に繋がれてしまった、ただそれだけ。私は大蛇の怨念そのもの。だけどもう、やっと帰れるの。だから悲しむ事はないよ、私は今、こんなにも幸せなのだから」

本当に幸せそうに、安心したように、そう言葉を落とした。

「…最後に顔も、見せてくれないの?」

涙を堪えながら渓は言った。女は渓をしっかり抱きしめたまま、決して顔を見せようとしない。渓の視界には薄い琥珀色の髪が揺れているだけだ。女はふふっと少し笑った。

「私の顔なんて覚えておかなくて良い。その代わり、一つだけ教えてあげよう」

蛇の信者が居なくなる。崩壊しかけの世界の中、渓が意識を手放す寸前、彼女の声は確かに届いた。

「私の名前は―――」


 ● ●


もう間もなく、太陽が現れ始めるという時だった。白子の腕の中の渓が、突然パッと目を見開いた。その瞳は、もう金色の輝きを失っている。見慣れた漆黒の瞳だった。

その瞳が真っ先に捉えたのは白子の顔だ。白子は驚いたように僅かに目を見開くと、少し遠慮がちに声を掛ける。

「…渓?」

傍には猪と勇太郎も居た。二人もじっと渓の顔を見つめている。

すると渓の瞳から、途端に涙が溢れ出した。渓は弾かれたように白子に飛びついて、首元に腕を回しながら勢いよく抱きつく。手のひらには、しっかりと丸簪が握られていた。

体は震えていたが、苦しいからじゃない。あの世界で起こった出来事への寂しさと痛みと、彼女から与えられた温もりと、無事に帰って来られた事に対する安堵が合わさって震えが止まらないだけだ。

あの世界に行くまではあんなに苦しかった体が、今では少しも辛くなかった。呼吸も安定している。

「…渓、俺が、分かる?」

泣きながら、渓は首を縦に振った。

「体、辛いところはない?」

その問いにも、渓は何度も首を縦に振る。姫が、彼女が、悪いものを全部持っていってくれたのだ。蛇の信者という楔も、大蛇の細胞も、全て。だからもう渓の中には、きらきら輝く寂しくて綺麗な蛇の信者の記憶の世界も、姫の存在も残っていない。彼女がこの体に遺してくれたのは、彼女が愛した渓の命だけだ。

白子は小さな体を強く抱きしめながら、深い安堵の息を吐く。正直気が気ではなかった。

けれど腕の中の恋人は、確かに人の温もりを取り戻して、こうして此処に生きている、それだけでもう十分だった。精一杯の思いを込めて、白子は言う。

「…おかえり、渓」

その言葉と同時に、猪と勇太郎も二人に抱きついた。勇太郎は安堵のあまりわんわんと泣きじゃくり、猪は三人まとめて思いっきり抱きしめた。猪の顔にもまた、安堵の笑顔が浮かんでいる。困ったときに笑う白子の顔によく似ていた。

徐々に空が白み始めて、空を覆っていた雲は少しずつ晴れていく。もう、大蛇は居ない。けれど最後の戦いは、確かにそこに待ち受けていた。


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