「もうすぐ、もうすぐよ」

京都のとある病院の一室で、一人の女が写真を立てを手にしながら、ベッドの上でゆらゆらと揺れていた。写真立てには、女と、無精ひげの男と、やせ細った少女が幸せそうな顔で並んでいる。もうすぐ、としか、女は言わない。しかし囁く言葉は、まるで優しい歌を唄っているかのように穏やかだ。

崩壊の時は、刻一刻と、確かに迫っていた。


三十二、赤い雨が降った日


暖かい夢を見ていた。曇神社で、三兄弟と一緒に笑っている夢だ。もちろんその風景の中には、優しく目尻を下げて困ったように笑う彼の姿もあった。毎日いろんな事が起こって、賑やかで、笑い声の絶えない幸せな日々の夢。

渓は、これが夢だと分かっていた。出来ることならばこのまま覚めないでほしいとも思った。しかし、次第に覚醒していく意識と共に、幸せな夢の色が褪せていく。形を成してた風景は徐々に薄れて、夢の終わりへと向かっていく。せめて最後に、もう二度と訪れることのないであろうこの幸せな景色を焼き付けておこうと、渓は笑い合う三兄弟と彼の姿を必死に見つめた。その視線に気付いたのか、彼が渓に視線を寄越して、ふわりと微笑んだ。まるで、まだ明るい空に浮かぶ月の様に。

―――白子

夢の中では、声は声にならなかった。その笑顔を最後に、何気ない日常がセピア色に飲み込まれた次の瞬間には、渓の瞳は薄暗い天井を見つめていた。これが夢ではないと、渓は悟っている。

重い頭を動かして周囲を見渡せば、視界はすっかり見慣れた景色を映し出す。どうやら屋敷の寝室で眠っていたらしい。太陽は沈む手前だろう。ゆっくりと上体を起こして自分の体に視線を落とすと、着ていたはずの着物は脱がされていて、代わりに浴衣を着せられていた。誰がやったのかは分からない。

少し肌蹴ていた浴衣をさっと直してから、渓は僅かにふらつく体をなんとか支えて布団から抜け出すと、のろのろと居間の方に向かって歩いていった。

居間に着くと、縁側の柱にもたれかかるようにして、姿勢を崩して座っている猪の姿が見えた。相変わらずの女の姿で、手には煙管を持っているが、肩から男物の紫の羽織を掛けて片膝を立てているその様子は随分と男らしい。猪はすぐに渓に気付くと、ふうっと口から煙を吐いて煙管の灰を落とし、姿勢を崩したままで渓を見ながら言った。

「おはようございます渓様。お体の調子は?」
「ちょっと…重いです」
「こちらにお掛けになってお待ちくださいな。何か温かいものでもご用意致しますわ」

もっていた煙管をそっと袖に仕舞いこむと、猪は着物を正して立ち上がる。渓は言われるがまま縁側にちょこんと腰掛けた。

猪は台所で温かい甘いお茶を入れて渓の所に戻ると、自身の紫の羽織をそっと渓の肩に掛けて、淹れたての甘いお茶を手渡してからその隣に腰掛けた。渓は礼を述べてから、ゆっくりとお茶に口を付ける。口の中に広がる柔らかい甘さにほっとすると、ようやく頭も冴えてきた。お茶を飲みながらこれまでの経緯を自分の中で整理する。

渓は、嫌な予感に耐え切れず、無我夢中で里に走った。そしてそこで、真っ赤に染まった白子が、光の宿らない目をして立っているのを目撃したのだ。彼は異様な方向に足が曲がっていた人のようなものが引きずっていたが、あれは人で間違いないのだろう。鮮明に思い出せるその姿に、渓は思わずぎゅっと強く瞼を閉じる。風魔である白子が人を殺してきたことも知ってはいたが、いざその光景を目の当たりにするのは、なかなかにきついものがある。

「…覚えていらっしゃるようですわね、全部」
「……はい」

たっぷりと間をあけてから猪の問いに答えた渓は、ゆっくりと空を見上げた。木々に覆われた空は夜に変わり始める途中のようで、だんだんと明けた空を隠していく。驚くほど静かだった。

「……全部、受け止めたつもりだったんです」

ポツリと渓は零した。どうにか搾り出したかのような小さな声は、静かな世界に溶けてゆく。

「風魔として生きてきた白子が、人を手にかけてきたことも知ってました。実際に目にしたわけではないけれど、彼が人を殺める瞬間にも立ち会っています。なのに、血にまみれた白子を見たとき、どうしようもなく怖くて―――受け止め切れなかった」

言い切って、渓はきゅっと唇を噛む。泣きたい気持ちになりながら、泣くのはお門違いだという事も分かっていたので泣けなかった。今にも溢れそうな涙が、何に対するそれなのかもよく分からない。ただ恐怖したから泣きたいのか、受け入れられない自分が悔しくて泣きたいのか、白子が人を殺めている現実が辛くて泣きたいのか。そのどれもが当てはまっていて、どれもが違うような気がした。だというのに、ただ泣きたい気持ちだった。

猪はそんな渓をしばらく見つめてから、同じように空を見上げた。そうして、あの日失った大切な者に想いを馳せて、猪はそっと目を閉じる。十年経っても、あの日の事は鮮明に覚えているし、忘れたことなど一度だってなかった。緩やかに目を開いて、何かを決意したかのように猪は穏やかな声で言った。

「…どうしたって受け止められない現実なんて、この世界には腐るほどありますわ」

ずっと遠い空に、何かを思いながら発せられたであろう猪の言葉に、渓は視線を落とした。隣に座る猪を見れば、猪は寂しそうに空を見上げて微笑んでいる。

「いくら愛する者のすべてを受け止めたいと思ったって、そんなこと、そう簡単に出来ることではありませんわ。だって、いくら繋がりが深くたって、所詮は自分とは違う生き物なんですもの」
「猪さん…?」
「長がこれまで多くの人を殺めてきたことも、我々風魔がそういう生き方しか出来ないことも確かな事実です。けれど、渓様がそれを無理に受け入れることではありません。風魔に身を置くからといって、すべてを風魔のしきたりに染める必要はないのです」

猪は寂しげな瞳を浮かべたまま、空へ向けていた視線を渓に移す。深く飲み込まれそうな漆黒の瞳と、遠い何かに捕らわれたままの紫の瞳がぶつかり合う。

しばらくそのまま見つめ合うようにしていた二人だったが、先に口を開いたのは猪だった。静かな世界に似合う、低く落ち着いた声だった。

「わたくし、渓様に初めてお会いしたときから、渓様のお姿にあの子のことばかり重ねてしまいますの」
「…あの子?」

渓が首を傾げると、猪はくすっと微笑んだ。渓を見つめるその眼差しには、愛情と、優しさと、寂しさが浮かんでいる。


「妹です。わたくしにとっては、残されたたったひとりの家族でした。もし生きていれば、渓様くらいの年になります」


あまりに唐突な猪の告白に、渓は言葉を失った。それと同時に、猪が見せた僅かに強張ったあの表情を思い出す。すべてが繋がったような気がした。

何か答えなければ、とは思うのだが、いくら考えても上手い言葉は見当たらない。なんと答えていいのか分からないまま、結局は声を発さずに次の言葉を待つのだろう。猪はそんな渓の心情などすでにお見通しのようで、再び視線を空に向けると、僅かに目を細めてぽつぽつと話し始めた。

「…妹が死んだのは、もう十年以上前になります。あの子が十二になった頃、里の人間に殺されました」

衝撃の事実に、渓はただ固まることしか出来なかった。風魔は家族だ、と白子はそう言っていた。なのになぜ、家族殺しのような悲惨な事件が起きてしまったのだろう。そう考えたところで分かりはしない。答えは猪が持っているのだから。

その後、猪は静かな声で、淡々とあの日の事を話し始めた。渓はただ、語られる真実に静かに耳を傾けるのだった。


 ● ●


うちは三人兄弟だったのですが、わたくしの二つ上に兄がおり、五つ下に妹がおりました。妹は父が任務で命を落とした後すぐに生まれたのですが、うちは男兄弟だったので、妹が出来たときはそれはもう嬉しくて嬉しくて。本当に、とても可愛い子でした。

わたくしの家系が風魔小太郎の側近の家系であることは、以前渓様にもお話いたしましたでしょう?わたくし自身、生まれたときからそういう家系であることは存じておりましたから、父はいつか任務で亡くなることも分かっておりましたし、父の死も覚悟出来ておりました。だから、父の死に関しては、不思議と悲しくはありませんでした。それよりも、妹が生まれたことの方が、わたくしにとっては重要でしたの。

親不孝だと思われるかもしれませんが、任務で命を落とすということは、つまり風魔の長を守って死んだということ。側近の家系では名誉でもあります。だから、任務で父が死んだときは、風魔の長の側近として持って生まれた使命を全うしたのだと、むしろ誇りですらありました。父は立派な風魔で、当時の長からもとても信頼されておりましたの。だからわたくしも、いつか父のような立派な風魔になるのだと、そう思って日々鍛錬を重ねてまいりました。

そうそう、妹の話でしたわね。妹が生まれたことは、わたくしにとっては世界が覆るくらいの衝撃でした。妹はくりっとした大きな目をしていました。華奢で、白くて、笑顔がとても可愛い女の子でしたわ。その上とっても優しくて、渓様は信じてくれないかもしれませんが、お料理が上手でした。本当ですわよ、とても良く出来た妹でしたの。

しかし、彼女は生まれつき心臓悪く、それに加えて肺の機能も弱い娘でしたから、その日一日を生きる事も難しいような子でした。いつも病床に伏せておりましたので、当然、風魔の忍としての鍛錬なんて出来るはずがありません。当時の長は、そんな妹を風魔一党の足手まといだという理由で、「風魔元服の式も出来ないような者は風魔には必要ない、さっさと始末しろ」とわたくし達家族に命じました。あの時の長は、自分を守れる強き者だけが風魔として生き残ればいいという考えでしたから、気に食わない者や弱い者にはすぐ手を下すような長でした。

風魔元服の式とは、四歳から十歳までの子供が風魔になる為に行う式のことです。まず、大切な人を自らの手で殺め、その後真っ暗な箱の中に閉じ込められ、気が狂いそうなほどの孤独に耐え忍び、そうして心に闇を宿した者だけが白髪と紫眼を手にして風魔になれる―――そういう慣わしでした。

風魔になるために、兄は妹が生まれた後すぐに母を殺して一人前の風魔になりました。その三年後、八つのときにわたくしも元服の式を執り行うことになったのですが、兄からは妹を殺すよう云われておりました。長の命もありましたから、当然ですわね。

しかし、わたくしには出来ませんでした。まだ幼い妹を、何度も殺そうと思いました。けれど、何度わたくしがあの子を殺そうとしても、あの子はいつでも笑っていました。あの子の柔く白い肩に、一度刃を滑らせたことがありますが、それでもあの子は笑っていたんです。己の肩を鮮血が流れ、とてつもない痛みがあったはずだというのに、まだ三つになったばかりの娘が怯えもせずに笑っていました。まるで死への恐怖など感じていないかのように。

その時、わたくしは感じました。あぁそうか、この子は生まれたときから、生きることを諦めていたのだろうと。風魔としての運命を受け入れることの出来ない自分の命の価値を、きっと生まれたときから分かっていたのだろうと。死を恐れない笑顔が生きることを諦めているようにも思えて、どうしようもなく愛おしかったんです。あの時、わたくしは何としてでもこの子を守らなければいけないという衝動に駆られましたわ。彼女の生きる世界を、幸福で満たしたいとさえ思いました。だから結局、妹を手にかけませんでした。

それでもわたくしは、風魔にならなければいけませんでした。うちの家系に残されているのは、もはや兄とわたくしと妹しかおりませんでしたから、風魔小太郎の側近という家系を守る為にも、わたくしはどうしても風魔にならなければいけなかったのです。そうなると、長からの命もありますし、生きる事もままならない妹を殺すのが一番賢い選択でしょう。けれど、あの儚い笑顔を奪うことは、わたくしには出来なかったのです。

だから、どうしたと思います?そう、兄を殺したんです。妹は殺せないのに、兄は殺せるだなんて、こんな馬鹿げた話がありますか?簡単でしたわ。兄を殺すのは、思わず笑ってしまうくらい簡単でした。妹に突き立てるには躊躇う刃も、兄には容易く突き立てられました。何度も、何度でも。

兄のことは尊敬していましたし、もちろん家族として大切でしたわ。当然、殺したいわけでもなかった。けれど妹を殺すくらいなら、兄を殺してしまえばいいのだと本気で思いましたの。この先長く生きれるかどうかも分からない妹の命と、一人前の風魔である兄の命を天秤にかけたとき、風魔小太郎の側近としての家系を守るために選ばなければいけないのがどちらなのかは分かっていました。けれど、わたくしは妹を選んだのです。明日には死んでしまうかもしれない、幼い妹の命を。

わたくしは当時の長に嘘をつきました。兄を妹のように見せかけて、その亡骸を持って「妹を殺した」と報告したのです。変装はお手の物ですから、兄の姿を妹に変えることなど容易いことでしたわ。……どうやって十歳の兄を三歳の妹に見立てたのかは、語れないので企業秘密ですわ。だけど、そうまでしてわたくしは妹を守りたかった。狂っていますわよね、本当に。

彼女の為ならなんでもしようと思いましたし、実際何でも出来ましたわ。兄は事故で死んだように見せかけ、妹は里から離れた場所に匿って育てました。わたくしは表面上、長を守る側近の唯一の生き残りとなったので、とても大切にされました。正直、他の風魔と比べてもわたくしの実力は確かなものでしたし、当時の長もわたくしを可愛がってくれましたわ。だからとても騙しやすかった。妹と二人でひっそりと暮らすことも、とても簡単でした。


そうして数年の月日が流れ、わたくしは十七、妹は十二になりました。大きくなった妹は、物腰の柔らかい、優しく美しい娘に育っておりました。彼女は自分が風魔であることや、自身が重い心臓の病を患っていること、肺の機能が弱いことは知っていましたが、それ以外の真実は何も知りませんでした。わたくしがずっと彼女に嘘をつき続けていたからです。

両親は幼い頃に任務で命を落としたと云い、兄弟はわたくしと妹の二人だと教えていました。風魔になるための元服の式があることなど、当然教えていません。里から離れたところで暮らしているのは、人が多い所では肺に負担がかかる為、風魔の長が配慮して家を与えてくれているのだと適当なことを吹き込んでおりました。幸いにも、世間を知らないためか妹はとても素直で聞き分けがよく、わたくしの言う事を良く聞いてくれておりましたので、そんな嘘も簡単に信じてくれましたわ。―――本当は、全部嘘だと分かっていたくせに。

……ね、まるで渓様みたいでしょう?
自由に飛べる術を知っているのに、知らないふりをして、わざと鳥篭に捕らわれたままでいるのです。いつも笑って、何も知らないふりをして、わたくしの傍にいてくれましたわ。

そんな妹を、わたくしは自分に依存させているつもりでおりました。依存させて、わたくしが居なければ生きていけないように仕向け、わたくしがあの子の生きる世界の唯一の幸福であろうとしていたんです。本当はわたくしがあの子に幸福を見出して依存していただけだというのに、まったく愚かな話ですわよね。

すべてが終わってから気付いたことでしたが、わたくしはきっと、あの子に対して家族や妹以上の感情を抱いておりました。わたくしにとって、あの子の存在は特別すぎたのです。あの子はそれを全部分かった上で、何も知らないふりをして傍にいれくれました。兄だなんて呼ぶにふさわしくないわたくしのことを、兄と呼んで慕ってくれました。とても歪でめちゃくちゃな愛情だとは分かっていますし、十分に狂った生活でした。それでもわたくしにとっては、何にも変えがたい幸せな日々でした。


そんな日常が、何の前触れもなく唐突に終わりを迎えたのは、薄暗い雨の日でした。
任務を終えたわたくしは、妹が好きだと云っていた花を持って、急いで彼女の元に向かっていました。特になんて事はない日でしたが、その花を見つけたとき、妹の笑顔が浮かんで、すぐにでも会いたくなったのです。一刻も早く喜ぶ顔が見たくて、急いで帰りました。あの子の笑顔を思うだけで、自然と顔が綻びました。

ようやく彼女の元に辿りついたわたくしが目にしたのは、喜ぶ彼女の姿ではなく、切り刻まれた彼女の遺体でした。その遺体を取り囲むようにして、見覚えのある風魔の顔が四つ並んでいました。彼らは、当時の風魔の長に付き従っている忍達でしたので、すぐに長の命でここへやって来たのだと分かりました。うまくやれていたと思っていたのに、妹のことがどこかから漏れ、それが長に知られてしまったのが原因でした。

妹を殺した四人は、口を揃えて云いました。長の命に背いた罪だ、長を欺いた罪だ、力のない者が生きている意味などない。そして、もう絶命している妹に、もう一度刃を突き立てたのです。

その瞬間、憎悪に支配された体は、すでに動いていました。妹を殺した連中も、命令を出した風魔の長も、何もかもが憎かった。妹を殺した四人をその場で殺害し、四つの遺体を引きずってわたくしは里に向かいました。わたくしと同じ気持ちを、この連中の家族にも味わわせてやりたかった。

あの日、あの薄暗い雨の日、里には赤い雨が降りました。里に行き、わたくしは彼らの家族、親族、恋人、それらを全員殺害しましたの。本当は当時の長もわたくしの手で殺してやりたかったのですが、その前に長に―――今の風魔小太郎様に取り押さえられました。

取り押さえられたとき、すぐに自分も殺されて妹の元に行けるのだと思っていたのに、残念ながらわたくしは殺してもらえませんでしたわ。今の風魔小太郎様が「この家系の者は里にとっても大切な者だ、簡単に殺してはならない」とお口添えをしてくださったそうで、わたくしの命はとりあえず預けられました。その時、わたくしと長はほとんど話したことなどなかったのですよ?信じられませんでしたわ。

命を取られることはなかった代わりに、わたくしは重い手枷を嵌められ、拷問部屋で厳重に閉じ込められてしまいました。出来れば早く殺して欲しかったけど、そうはいきませんでした。

それから二日後、当時の長が死にました。元々長のやり方に不満を持っていた里の者も多く、その長を手にかけて新たに長となったのが、風魔史上初となる二人の風魔小太郎でしたわ。後に金城白子として曇神社に身を潜めることになった小太郎様と、獄門処で軍を作っていた半身に火傷のある小太郎様のお二人です。そうして風魔の新たな時代がやってきたと共に、わたくしは金城白子と名乗ることになる彼によって拷問部屋から出されました。

あの時、わたくしは何もかもどうでもよかったのです。妹を失ったわたくしには、もう生きる希望などありはしませんでしたから。さっさと殺せ、そう長に云ったのを覚えています。しかし長は、わたくしの願いを聞き入れるどころか、こう云いました。


『いいか猪、お前にはお前の仕事を与えてやる』

『お前は俺である為に、俺の傍に居ろ』


それは思いもよらない言葉でした。わたくしの犯した罪を、長は許したのです。多くの里の人間を殺めたわたくしは大罪人です。それでも長は、わたくしの実力を認め、側近としての立場を与えてくださいました。その上、わたくしが拷問部屋に閉じ込められている間に、妹の墓まで作ってくださっていたのです。墓は、妹が死んだあの場所に、そのまま作ってくださっていました。

長は年もわたくしより二つ下ですし、素直で可愛げもありませんし、生意気なところもある方ですが、風魔元服の式を廃止にし、風魔復興の為にその人生を捧げようとなさっていました。己の幸せも、未来も、すべては衰退の一途を辿る風魔を復興させる為に犠牲にしようとしていたのです。その姿を見て、この方になら仕えていけると、そう思いました。

妹を失ったわたくしの世界は、光も希望もなかった。生きる事も死ぬ事も、風魔の復興も衰退も、何もかもどうでもよくなっていた。長は、そんなわたくしの世界に差し込んだ一筋の光でしたわ。だからわたくしは、長の為にこの身を捧げようと決めたのです。長があの日、風魔の為にそう決意したように。


 ● ●


話が終わる頃、空は夜に変わっていた。渓は静かに猪の話を聞いていたのだが、話が終わる頃にはポロポロと涙が零れ落ち、頬を濡らしていた。嗚咽が上がるわけでもない。ただどうしようもなく、涙が止まらなかった。

空を見上げたまま話していた猪は、話し終えたところでようやく視線を渓に向ける。涙を流す渓の顔を見て、少し困ったように笑った。その笑顔は、白子によく似ていた。

「泣かないでくださいな。渓様を泣かせたなんて知られたら、わたくしが長に殺されてしまいます」

猪は長い指先で、渓の濡れた頬をそっと撫でて涙を拭う。それでも渓の涙は止まらなかった。そんな渓の顔を見て、猪は言う。

「長の為にも、渓様は笑っていてくださいまし。貴女は笑顔が良く似合うのだから」

言いながら、猪は柔らかく微笑んだ。大切な者を失って、罪を犯して、重く暗い過去をずっと抱えたまま、それを飄々とした風貌で隠してきたのだ。

猪の事だ、きっと、たった一人でその苦しみを抱えてきたのだろう。生きる意味を与えてくれた白子の為ならばと、この先に望めたはずの自分の幸せや喜びを諦めて、すべてを失ったあの日から今日まで生きてきたのだろう。例えどんな形であったとしても、白子の信頼を裏切らぬよう、傍にいようと思っているのだ。彼の妹がそうであったように。なぜなら猪は『そういう奴』なのだから。

あぁ、なんて切なくて、歪で、純粋な愛の形なのだろう、と渓は思う。

「……どうして、話してくれたんですか?」

掠れた声で渓が問えば、猪は目尻を下げて微笑みながら、優しい目をして答えた。

「お二人には、間違えて欲しくないのです」
「え…?」
「あの頃、わたくしはすべての選択を間違えました。妹の為にと思ってやってきたことも、結局はすべて自分の欲を満たす為のものでしかなかった。過ちに気付くのは、いつも決まって何もかもが終わった後ですわ。貴女達には、そんな結末を辿って欲しくない。だってお二人はわたしにとって、この世界でようやく見つけた、次の生きる希望なのですから」

突然の猪の言葉に、当然渓は驚いて目を丸くする。風魔の長である白子が生きる希望になるのは理解できるのだが、いきなり里へやって来て里の調和を乱した自分が、猪の生きる希望になるだなんて、どう考えても理解できなかった。そんな渓の心情などやっぱり猪にはお見通しのようで、猪は渓が声を発するより早く言葉を紡いだ。

「長と渓様を見ていると、あの頃のわたくし達を思い出しますの。相手の為を想いすぎて上手くいかないところも、素直になりきれずに我慢しすぎてしまうところも、本当にそっくりですわ。一歩間違えれば、簡単に壊れてしまう危うさがある。だからこそ、お二人には幸せになって欲しいのです。あの頃のわたくしと、同じような気持ちを味わって欲しくない」

猪はきっと、誰よりも純粋な心を持ったまま、誰よりも歪んだ世界を生きてきた。だからこそ、こんなにも真っ直ぐに白子と渓の幸せを願っているのだ。あの頃の自分が重なってしまうから。心から、自分と同じようになって欲しくないと思っているから。

白子と渓、二人の幸せの為ならば、猪は何でもしてしまうのだろう。その為ならば、手段も問わないはずだ。何でも器用にこなしてしまうくせに、猪にはそういう不器用な愛し方しか出来ないのだ。そう、なぜなら猪は『そういう奴』だからだ。それはもう、渓にも痛いほどに伝わっていた。

猪は優しい。優しいからこそ、自分の為に生きれないのだ。だから白子と渓が、彼の生きる希望なのだ。それに気付いたとき、渓は涙が止まらなかった。猪は変わらず渓の涙を拭いながら、穏やかな声で続ける。

「何もかもを受け入れられなくたっていいんですよ。そういう人なのだと割り切っていくことも、ときには存分に我儘になることも、人と愛し合い生きていく上では大切なことなのです。長は長のやり方で、渓様を守ろうとしています。だから渓様は渓様のやり方で、長を支えていけばいいのです。貴女達はもっと、自分の為に欲張りなさい。大丈夫だから」

それは、猪が過ちから学んだことだ。すべてを失って、やっと気付いたことだ。それを知っているから、猪はずっと二人の為だけに行動し続けているのだ。

渓は自分の頬に添えられている猪の手を、ぎゅっと握り返した。それから震える声で、必死に言葉を手繰り寄せる。

「…猪さん、ありがとう」
「どういたしまして」
「それからね」

息を吸って、渓は言った。

「妹さんは、猪さんのこと、本当に大好きだったから傍にいたんだよ、絶対に」
「え…」
「私は、大好きな人の傍にいられるのなら、鳥篭の中でも構わないもの。だからね、妹さんは、幸せだったんだと思う」

こんな拙い言葉で、想いのすべてが伝わるなんて思ってはいなかったが、泣きじゃくる渓にはこれが精一杯だった。そんな渓の言葉を聞いて、猪はしばらく固まってしまっていたのだが、ふっと表情を綻ばせると、今にも泣き出しそうな顔で、笑った。

「ほんっと、勘弁してくれよ」

いつもの口調でそう言った猪は、はーっと長い息を吐いてから、ぽそりと呟いた。

「……そうだな、そうだといいな」

そうだよ、絶対に。
声にならない声でそう答えた渓は、猪の手を握ったまま、せめて精一杯笑って見せた。

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