拝啓、曇家のみなさま。 暑い日が続いていますが、お元気でしょうか。私は元気にやっています。 さて、新しい土地での生活ですが、正直まだ馴染めていないところもたくさんあります。環境やしきたりや、この土地ならではの決まりがあり、今までは当たり前のようにしていた事がここでは日常的な事ではなく、慣れない事ばかりで毎日大変です。 けれど、少しずつ受け入れてもらえているようで、忙しなさに押しつぶされてばかりの日々にもようやくゆとりが生まれました。とっても可愛いお友達も、たくさん出来ました。みんなとても良い子で、いつも助けて貰っています。 これから暑さも少しずつ和らぎ、季節の移り変わりには体調を崩すこともあるかと思いますが、どうかご自愛ください。 ではまた。 二十九、見えない敵 「…どういう事よこれ」 偵察の任務を終え、煩いほどの蝉の声が響く里へ十日ぶりに戻ってきた猪は、いつものように白子の屋敷の縁側から現れてから眉を顰めた。居間の真ん中に置かれている食卓をぐるりと取り囲みながら、白子と渓、さらには風魔の子供達五人が仲良く朝食をとっていたのだから無理もない。猪の顔を見た子供達は、ぱあっと表情を明るくさせて猪に駆け寄った。 「猪様だ!!」 「任務終わったの?」 「おかえりなさい!」 「しばらく何処へも行かない?」 子供達は猪を取り囲んで口々に無事を喜ぶと、朝から元気に猪にじゃれ付く。猪は呆れたように眉を下げると、やれやれといったように肩を竦めた。 「おいおい、お前らの大好きな猪様は長期の任務でお疲れの上、今から長に報告もしなきゃいけないんだぞ。呑気にお前らと遊んでる場合じゃないって」 「えー!?じゃあ今度?」 「あぁ、とりあえず落ち着いたらな」 「やったー!」 猪はふうっと息を吐くと、縁側に腰掛けた。それを見て、子供達は渓を振り返る。 「渓様!猪様も一緒に朝御飯食べていい!?」 「それは私じゃなくて長に聞いてね」 「長!猪様とも一緒に朝御飯が食べたいです!」 「それは尋ねているというより、もはやお願いだな」 子供達の言葉に、白子も呆れたように笑みを零す。子供達は祈るように両手を合わせ、じっと白子を見つめた。 「…駄目ですか?」 「…準備してやれ」 「やった!猪様、すぐに準備するからあっちに座って待ってて!」 子供達は元気に台所へ行くと、みんなで仲良く猪の朝食を準備し始めた。その光景を視線で追ってから、猪はそのままごろんと寝転がって長い息を吐く。里に戻って早々に子供達の元気さに振り回される予定など、さすがの猪にもなかったのだろう。渓はそんな猪を見てくすくすと笑った。 「お帰りなさい猪さん、長い間お疲れ様でした」 「…もはや任務なんかよりあいつらの方が疲れるんだけど」 「そう云わないで。みんなずっと心配して待ってたんですよ、猪さんのこと」 猪は寝転がったままくるりと体を反転させ、床に肘をつきながら怪訝な表情で白子を見る。白子は猪の視線など気にも留めずに、呑気に朝食を食べ進めていた。 「…長の自宅でまだ風魔になってない子供が自由に歩き回ってるって、こりゃどういう事だよ」 「稽古をつけてやっている代わりに、家の手伝いなどをさせているだけだ」 「すごく助かってるんですよ」 「そういう問題かよ」 呆れたように猪が言ったと同時に、台所から渓を呼ぶ声が聞こえて来た。どうやら子供達が何かやらかしたらしい。渓は動じる事もなく、慣れた様子で声の方にパタパタと駆けて行く。それを見送ってから、猪はもう一度白子に視線を寄越した。 「どういう風の吹き回しだ?」 「何がだ」 「子供達と共同生活なんて」 「別に一緒に暮らしているわけではない。さっきも云った通りだ、それ以上はない」 「へえ?」 まあいいや、と呟いて猪は起き上がると、子供達が並んで座っていたところのど真ん中を陣取って腰掛ける。そして子供達の朝食をこっそり摘みながら白子を見てニヤニヤと笑った。口の中に伊達巻の優しい甘さが広がるのを堪能しながら、猪は口を開く。 「どうだった?邪魔者の居ない夫婦生活は」 「夫婦ではない」 「みたいなもんだろ。なんか、初心な熟年夫婦的な」 「どんな例えだ」 「ぴったりだと思うけどなあ」 別の皿からもう一つ伊達巻を口に運びながら、猪はぐーっと伸びをした。 「ま、俺の予定ではそろそろ子作りにでも励んでくれるかと思ってたんだが、まさかこんな事になってるとはな〜。お陰さまで、そっちの方はまだなんだろ?」 「貴様は俺に刺される為に戻ってきたのか?」 「だってなー女の顔っていうか、それ通り越して母親の顔してるぜ、あれ。おい、危ないから苦無をしまえ。本当に俺を刺すつもりで見るな」 猪は久々に会っても猪だった。白子は眉間にしわを寄せながら、懐に苦無を仕舞う。朝から子供達に疲れたなどと言っていたが、白子にしてみれば子供達よりも猪の方がよっぽど疲れる要因である。そんな白子の気持ちを知ってか知らずか、猪はお構いなしに言葉を放つ。 「で、どういう状況なんだよこれは」 「何がだ」 「何が、じゃねえよ。分かってんだろ?風魔の長の屋敷に子供が堂々と出入りしてるなんて、頭の固い連中が知ったらまた愚痴愚痴云われるのはお前だぞ」 「案ずるな、もう知られている」 「笑えねえな」 味噌汁を啜って箸を置いた白子は、ゆっくりと立ち上がって縁側から空を見る。今日は少し天気が悪いようだった。 「心配するな、別に毎日来ているわけじゃない。それに、確かに渓を受け入れていない連中はこの状況を口煩く詰めてくるが、それなりに上手くやっている」 「本当かよ」 そこまで話してすぐ、猪の朝食が運ばれてきた。猪は何事もなかったかのように運ばれてきた朝食を口にし、子供達からおかずを奪った事に文句を言われていた。子供達が来てから賑やかになった朝の風景に猪が混ざった事により、さらに朝が騒がしい。渓は楽しそうにその光景を見つめ、白子も影から呆れながら、それでいて優しく見守っていた。 朝食を終え、片付けを済ませると、渓は支度を済ませて子供達と一緒に屋敷を出ようとしていた。猪はきょとんとした表情で渓を見る。 「珍しいな、出掛けるのか?」 「はい、ちょっと里の方に」 「へえ。いいのか?お姫様は一人で出歩いちゃ駄目なんだろ?」 「ちゃんと白子に許可はもらってます。必ず子供達と一緒にいることと、みんなに送り迎えをしてもらうこと、それから居住区以外に行かないことは前提なんですけど…みんな私のお世話も快く引き受けてくれて」 「なるほど、じゃあ最近は里の連中とも話したりしてるのか」 「そうですね、少しずつではあるんですけど、なんとか。みんなのお陰で、以前よりは受け入れてもらえてるみたいで」 渓は嬉しそうに笑って子供達を見た。子供達は渓の腕を引っ張る。 「渓様、早く行こう!」 「はいはい。じゃあ猪さん、行ってきます」 「あんまり遅くなるなよ」 猪が渓の頭をぽんぽんと撫でると、子供達がずいっと前に出た。 「大丈夫だよ猪様!」 「俺達がちゃんと渓様を送り届けるから!」 「そりゃ頼もしいな。お姫様に怪我させないように気付けろよ」 「はい!」 元気よく答えて、子供達は渓の腕を引いて楽しそうに里へ向かって行った。その背中が小さくなるまで見送ってから、猪は軽く深呼吸をする。その顔には、いつものような余裕は浮かんでいなかった。 踵を返して居間に戻った猪は、下座に着いて腰を下ろすと、深々を頭を下げた。上座には白子が腰掛けている。白子の前髪は下ろされていて、その表情はよく分からない。ピリッとした空気が流れて、まるで二人の空間だけが違う世界のものであるかのように物々しい。天気の悪さも相まって薄暗いせいか、尚の事どんよりとした重い空間だった。 「遅ればせながら、戻りました」 いつになく真剣な口調で猪が言う。白子も"風魔小太郎"の口調で返した。 「状況は?」 「はい。結論から申し上げますと、渓様を狙っているのはやはり政府内部の人間、それも事実を簡単に捻じ曲げられる程の上層の人間、もしくはそれに近しい何者かである可能性が高いです。しかしながら、確実な情報は得られず特定には至っておりません」 「渓の手配書についてはどうなっている」 「政府に潜入して捜索したところ、日本全国に手配書が回っているとはいえ大々的なものではないようです。手配書が回っているからといって命の危険があるものではなく、あくまでも渓様を"捕らえる"為の手配書です。しかしながら、やはり堂々と里の外を出歩くのは危険でしょう。我々風魔にとってもリスクが大きすぎる。念の為、上層部の人間に扮して操作をしたので、一部は回収することに成功しましたが、さすがに数日で出回ってしまっているもの全てを回収するには至りませんでした」 白子は顎に手を添えて口を紡ぐと、じっと何かを考えている様子を見せた。何か思い当たる節があるようで、白子は熟考の末ようやく口を開いた。 「猪、政府の上層に川路という男が居たのだが、それに関して何か情報はあるか」 「川路というと…山小屋で長が手にかけた、あの?」 「ああ」 「いや…川路の件に関しては、全くといっていいほど耳にはしていません。かといって、何かそれに関係するものを目にした覚えもない」 猪も白子同様、考え込むような仕草を見せる。 「長、確か川路は渓様の力の事を知っていたと」 「そうだ。大蛇の実験を推奨し、無理矢理にでも渓に実験をさせようとしたのは川路だ。だが奴は、渓に実験を行う前に死んでいる。それで実験の話はなかったことになったはずだが、その後政府からの命令で渓の実験が決まった。不思議な事にな」 そうして二人で押し黙る。予想している事は、多分同じだろうと確信していた。思い空気だけが部屋の中に降り積もる中、先に口を開いたのは白子だった。 「大蛇の事はともかく、蛇の信者がもつ力の事は、大蛇に関わっていた者の中でもほんの一握りの者しか知らないはずだ。その大半は政府の上層の影で動いている隠密化学部のような連中で、いくら知っていたとしても表立って何か大掛かりな事を仕掛けられる程の力はないだろう。仕掛けたとしても上層の人間に消されるだけだ」 「となるとやはり、今回の件は政府の中でも上層の、しかも権力を持った人間が行っている可能性が高い。ただ―――あまりにも強引すぎる。政府という機関をまるで理解していない」 「…ああ、俺も思っていた」 二人の懸念はやはり同じだった。思い返してみれば、渓が行った大蛇実験には、あまりにもおかしな点が多すぎるのだ。 元々、視力を失っていた渓に実験の話を持ってきたのは川路だったが、彼は政府の中でもかなり上層の人間だ。犲とも関わりがあったので、蛇の信者の事を知っていてもおかしくはない。その川路の申し出を断った事で、渓は川路に山小屋に連れ去られ襲われかける事件に巻き込まれている。 それを白子が助けたのは本当に偶然で、町で情報を仕入れ、里に戻ろうと移動している際に通っていた山の中で、小屋に連れ込まれている渓の姿を見つけてしまったのだ。初めは関わりを持たない為に見なかったことにしようとも思ったのだが、どうしてもその場を離れる事が出来ず、挙句小屋の外まで響くほどの声で「たすけて白子」と叫ばれてしまって、衝動的に助けてしまっていた。 これ以上の関わりを持たぬようにと思ってはいたが、忘れたくても忘れられなかったただ一つの温もりにもう一度触れてしまった為に、白子も後戻り出来なくなった。 そこで白子は、渓の現在置かれている状況を調べ始めたのだ。 川路には齢十四になる娘がいたのだが、重い心臓の病で長くは持たない未来が約束されていて、その娘を救う為に渓を利用しようとしていた。しかし先の事件で白子が川路を手にかけた為、渓の実験の話は当然なかったことになった。その後、残念ながら娘は亡くなり、川路の妻も心を病んで入院したわけだが、それ以上の事は調べていないので分からない。 ただ、どうしても気になるのは、何故再び渓に実験の話が持ち込まれたか、ということだ。 犲の隊長である蒼世が一枚噛んでいるのは間違いないだろうが、あくまで彼も政府の上層に仕える人間の一人に過ぎない。いくら犲の隊長とはいえ、渓の実験を執り行うかどうかの決定権は持ち合わせていないだろうし、何より渓を妹のように大切に思っている彼が実験を薦める事は考えにくい。渓が白子との関わりを持っている事を察していたので、風魔の残党を捕らえるために状況を確認しようと式神を配置したりはしていたが、自らが実験に関して積極的に動きを見せる可能性は極めて低い。 蒼世の場合、立場上「渓に実験を行う」と上層部が決めたのならそれに従うしかないのだが、彼は最終的に上層部を裏切って渓の記憶を残させ、彼女を自由にさせた。白子にとって蒼世は気に食わない邪魔な存在ではあるのだが、蒼世の計らいがあったからこそ白子の傍には今渓がいる。 だとしたら、わざわざ渓をもう一度政府に取り込もうとするだろうか? 蒼世はこうなる未来を予測して渓を手放したはずだ。こうして渓の手配書が出回っている事には、どう考えても関与していないだろう。 だからこそ、おかしいことだらけなのだ。 一体誰が、何の為に渓に強制的に実験をさせ、何の為に渓を捜索しているのだろう。 川路のように目的を持って事を進めていくわけでもなく、あまりにも唐突な命令で否応なく一方的に渓に実験をさせ、居なくなったと知ったら必死に捜索を始める。渓が蛇の信者であることは、政府としても出来るだけ隠し通しておくべきであるのに、手配書まで全国に回すというやり方も浅はかだ。 もし仮に、渓が蛇の信者だと世間にバレたら、渓を利用したがる人間がうじゃうじゃと沸いて、尚のこと政府になど戻されることはないだろう。そんなリスクも考えずに事を進めすぎていて、政府としてはあまりにもやり方が幼稚だ。それに、目的も分からない。 答えの見えない気持ち悪さを感じながら、白子と猪はお互いに考え込んだまま口を開かなくなった。猪の掴んできた情報だけでは、どうしたって足りない。 縁側から生温い風が吹き込む。白子は目を閉じて何度か呼吸を繰り返してから、ゆっくりと口を開いた。 「猪、しばらく渓を頼む」 「…ご自分で行かれるおつもりですか」 「政府の上層機関が絡んでいるんだ。大蛇だけでなく、蛇の信者の力にも関係している以上、少なからず風魔にも問題は発生するだろう。この任は危険すぎる」 「だからこそ俺が行く。こんなときだからこそ、あの子の傍にいるのはお前じゃないと駄目だろ」 猪は叱るような口調で言った。猪の気持ちも尤もではあるのだが、白子はあくまで風魔の長だ。危険すぎると分かっている処に部下を送る事はどうしても出来ない。 確かに渓の事は気がかりではあった。彼女のことだ、きっと心配もするだろう。それでも、自分が行かなければならないと白子は察していた。 「渓の事を考えていないわけではない。何日も里を空ける事はしないし、あいつを不安にさせておくつもりもない。そこまで危険ではないと判断したらお前にも任せる」 「だけどな、」 「これは命令だ」 白子は力強くそう答えた。猪は不服そうに黙り込む。そんな猪を見ながら白子は続けた。 「それに、渓は渓でちゃんと里に馴染もうと努力している。俺が何もしないのは示しがつかないだろう?」 「…強情め」 「お前に云われたくはない。もう一度云うぞ、これは命令だ」 釘を刺すかのようにそう言われてしまえば、猪が折れるしかなかった。深く長い溜め息をつきながら、猪はぶすっとした表情で白子を睨み付ける。 「分ーかったよ、じゃあそれでいい。でもな、行く前に一個だけ絶対やっておいて欲しいことがある」 「なんだ」 「渓様にはお前からちゃんと話せ、そんで納得してもらえ。勝手な行動するんじゃねえぞ」 「…」 「そりゃあんなにいい子なんだから大切だろうさ、出来れば何も知られずに笑ってて欲しいだろうよ。だからこの状況を全部伝えろとは云わない。ただ、お前が勝手な事したらあの子はどう思う?逆にあの子が勝手な事したら、お前はどう感じる?重くて辛い話ほど大切な事なんだから、尚更ちゃんと向き合って話してやれよ。大事な人が傍に居ないって結構不安なもんだぜ?」 何もかもを見透かしたような猪の言葉に、白子は困ったように笑みを零した。猪だからこそ、重みのある言葉だ。 「…確かにな。分かった、渓にはちゃんと俺から話すよ」 「お、珍しく素直だな。子供達にでも影響されたか?」 「かもな」 白子の言葉に猪も笑うと、ぐっと伸びをしてその場にごろんと横になった。白子は労いの言葉をかける。 「ご苦労だったな」 「ほんとにな。せめて気をつけて行けよ」 「分かってる」 猪は寝転がりながら天気の悪い空を見上げた。 里に居る間、気が向いたら子供達に稽古でも付けてやろうと思いながら、場所は樹海にしようかなどとぼんやり考えていると、ふと脳裏に樹海での出来事が蘇る。子供達が崖から落ちそうになっていたとき、それを見えもしない渓が予見して――― ハッとした猪はガバッと勢いよく起き上がった。白子は目をぱちくりとさせながら見つめるばかりだ。そんな白子の視線になど、猪はまったく答えないまま思慮を巡らせる。 あの時のことはもうすっかり忘れていたし、子供達のことを思って白子にはあえて報告はしなかった。それをどうして今になって思い出したのだろう。猪は嫌な予感が背筋を這い上がるのを感じていた。ただの勘だったが、嫌な予感ほど良く当たるのを猪は知っている。 「猪?一体どうし―――」 「もし、もしもだぞ」 白子の言葉を遮った猪の声は緊迫していた。そして、ゆっくりと視線を白子に向ける。 「もし、もしもあの実験が、渓様の視力を復元させる為ではなく、あの子の持つ『蛇の目』の力を蘇らせるための実験だったとして、仮に政府がその力を狙っているとしたら…?」 「……何?」 思いもよらなかった猪の言葉に、白子は僅かに言葉を詰まらせる。猪は息を吸って、ゆっくりと続けた。 「…悪い、話してなかった事実がある」 二人の間に、緊迫した空気が流れ込んだ。 蝉の声は、もう聞こえなくなっていた。 △ back ▽ |