金城白子と名付けられた少年が曇神社にやってきて、一月が過ぎた。まだ口数も表情も少ないが、少しずつ打ち解けていっているようだった。慣れない掃除や洗濯で大変なことを起こすことも多々あったが、曇天三兄弟たちに支えられながらなんとかやっていた。 そんなある日のこと、毎日遊びに来る幼馴染の渓が、傷や泥でボロボロになってしまった状態で、ぐずぐずと泣きながら神社にやって来たのだ。もちろん天火たちは驚いて、慌てて渓を部屋に入れる。少々お転婆なところもある渓だが、決して誰かと喧嘩をするような子ではない。ましてやこんなにあちこち傷だらけになるほどなら尚更だ。転んだのだろうか、擦りむけて膝から流れる血が痛々しい。 空丸が慌てて渓の手当てをしている間に、天火は厳しい表情で言った。 「渓、誰にやられたんだそれ」 渓は答えずに、俯いてぐずぐずと泣いているばかりだ。そんな渓に、天火はめげずに声をかける。 「ちゃんと云え、この天火さまがパパッとやっつけてきてやるから」 そんな天火の言葉に答える代わりに、渓は首をふるふると横に振る。 「仕返しなんて怖くないぞ!もう二度と渓にこんなことさせないようにしてやるから」 その言葉により一層首を強く横に振るばかりで、渓はぐずぐずと泣き続ける。どうしたもんかと天火は溜め息をついて少し考えると、質問を変えることにした。 「じゃあ渓、なにがあったか云ってみろ。ゆっくりでいいから」 天火が出来るだけ優しくそういうと、ようやく渓が顔を上げた。涙と鼻水と泥ですっかりぐちゃぐちゃになった顔を天火がごしごしと濡れた手ぬぐいでと拭ってやると、ようやく渓の白い顔が見えた。 少しだけ落ち着いたのか、渓は何か言おうと口を開きかけるが、そのときにまだ無愛想な白子と目が合った。すると泣き止みかけた渓の顔が、またしても歪んでいく。結局泣き出した渓は、まだ治療も終わっていないのに部屋を飛び出して、神社の庭にある縁側に座りこんでしまった。 その様子をぽかんとして見守っていた天火だったが、突然ぐるりと白子を振り返る。じとっと白子を睨むように見つめると、白子も不機嫌そうに天火を見つめた。 「おい白子、渓と何かあったのか?」 「あるわけないだろ」 呆れたような声で返事をすると、白子は続けた。 「俺は今日ずっとここにいたけど」 「そうだよ兄ちゃん!」 「…それもそうだ」 まだ幼い空丸も白子の意見に賛同する。天火は小さく溜め息を零して、遠くから渓の小さい背中を見つめた。いまだにぐずぐずと泣きじゃくる背中も泥まみれだ。いじめられたとしか考えられない姿だが、当の渓が何も話してくれない限りどうしようもない。空丸と宙太郎も心配そうに渓を見つめている。 いつもにこにことしている渓が突然泣き出すと、みんなそろってどうすればいいのか分からなくなるから困ったものだ。そして渓はいつも泣いてる理由を話さない。天火だって泣いているときにその理由を聞き出せたことは数少ない。その日一日中泣いていても次の日にはけろっとまた笑っているのだから、結局涙の理由は蒸し返せずにそのままになってしまうことが多かった。 さて困った。 天火が考えあぐねていると、口を開いたのは空丸だった。 「どうして渓ちゃん、白子さんの顔見て泣いちゃったんだろう?」 そのセリフのお陰で、曇天三兄弟の視線は一気に白子に集まることになってしまった。白子は溜め息を吐いてその視線の問いに答える。 「知るわけないだろ」 「…白子の顔が怖かったとか?」 「いつも通りだけど」 「確かに」 こいつは喧嘩を売っているのか、と心の中で吐き出しながら、白子は面倒そうな視線を天火に送りつけた。しかし白子がここへ来てから渓が泣いたのは初めてのことだったので、顔を見て泣き出された白子も心なしか気にはなっていた。渓に泣かれるようなことをした覚えはもちろんない。それに今日渓が神社へきたのはこれが初めてなのだから、白子が渓に会っていることはない。 よく分からない状況に一同が困惑していると、少しぐずぐずが収まったのか、渓が泣き顔のままで覗き見る四人を振り返った。泣き濡れた瞳は真っ直ぐに白子に向けられていて、渓は意を決したかのように声を震わせて言った。 「ご、ごめんなざい…!」 なぜ謝られることがあるのだろうかと白子が顔をしかめていると、天火の視線も白子に向けられていた。 「…やっぱりなんかあったんじゃ」 「だからない」 きっぱりとそう言い放った白子はひどく面倒そうに溜め息を吐くと、すたすたと渓の元に歩み寄った。渓は両手で顔を覆いながらぐずぐずと泣いていて、まったく目を合わせようとはしない。そんな渓に向かって、白子は言った。 「おい」 「う…ぐずっ…」 「俺が何かしたのか」 さっさと事を終わらせたいだけの業務的な白子の言葉だったが、渓は首をふるふると横にふるだけだ。 「じゃあ何だ、云いたいことがあるなら早く云え」 それでも渓は首を横に振る。なんなんだこの女、と白子は面倒に思うと、諦めて立ち上がった。そのまま天火たちのところに戻ってくる。 「おい白子――」 「俺じゃない」 白子はそれだけ言うとすたすたと歩いて台所に行ってしまった。天火はやれやれと溜め息をつくと、おろおろとする弟たちの頭をなでて部屋に戻るよう言いつける。渓は大丈夫だからと笑顔で言えば、弟たちは素直に天火に従った。 いまだにぐずぐずと泣いている渓の横に腰掛けると、渓の頭を弟たちにしてやったように優しくなでる。渓はゆっくりと顔をあげて天火を見つめた。大きな瞳は悲しそうに揺らいでいる。 「白子は何もしてないんだろ?」 コクン、と渓は頷く。 「じゃあなんで渓が謝るんだ。渓が悪いことしたのか?」 その言葉に少しだけ渓は迷った様子を見せてから、頼りなさげにコクンと頷いた。仮に渓が白子に悪いことをしたのだとしても、きっととんでもなく些細なことだ。白子はそんなに些細なことは気にも止めないだろうということが分かっていた天火は、もちろんそんな渓の肯定など信じない。それに渓は故意的に誰かに怪我をさせられているのだから、誰かにそう言えとでも言われたのかも知れない。 「渓、じゃあどんな悪いことしたのか云ってみろ。それを聞いてから俺が悪いかどうか判断してやる」 天火がそう言えば、渓は少し迷った様子を見せたが、周りに誰もいないことを確認すると、小首をかしげて小さな声で言った。 「…白子には、いわないでね?」 「白子に悪いことしたのにか?」 「いっちゃだめなの!」 そう言った渓はまた今にも泣き出しそうで、天火は慌ててなだめる。 「わかったわかった!白子には云わない」 「…ほんと?」 「ほんと。ほれ、約束」 ニッと笑って天火が小指を差し出せば、渓はその小指を少しだけじっと見つめてからおずおずと自分の小指を絡ませた。そしてそのままの状態で、ようやくぽつぽつと話し始める。 「……あのね、渓、怒っちゃったの」 「…は?」 とんでもなく素っ頓狂な理由に、天火も目を丸くするが、渓は続ける。 「いっつも悪いことするあの子たちがね、悪口ばっかりいうから怒ったの」 渓がいうあの子たちというのは、いつも悪さばかりするこの辺りでは有名な悪ガキ三人組のことだ。渓は年が近いこともあり何度か悪さをされたことがあったが、今まで一度もそれで泣いたことはない。 「渓、悪口云われたのか?」 「渓じゃないよ」 「え?」 「……白子」 「は?」 「あの子たち、白子の悪口ばっかりいってたから、怒ったの」 そう言った途端に渓はしゅんとうな垂れてしまった。ぐずぐずとまではいかないが、少しだけポロポロと泣いている。天火はそんな渓を見つめながら、渓が泣きながら帰ってきた理由を考えた。 とりあえず、渓を泣かせたのはあの悪ガキ三人組だということは分かった。悪口を言われたのは渓ではなく白子で、それで渓が怒ったというところまではなんとか納得がいく。しかしいくらあの悪ガキ三人組とはいえ、こんなに泥やら傷やらでボロボロになるまで女の子をいじめるのだろうか。腑に落ちない天火は、もう少しだけ深入りすることにした。 「白子、何て云われてたんだ?」 「…白い髪と紫の目が変だとか、全然笑わないからかわいそうとか不気味だとか、たくさん嫌なこといわれて、笑われてたの」 「へぇ」 これにはさすがの天火も少し怒りが込み上げる。自分より年は下の三人組だが、ちょっとこれはいただけない。渓が怒るのも無理はないなと思っていると、ふいに渓が口を開いた。 「だからね、渓、謝ってっていったの」 「…悪ガキ三人組に?」 「白い髪も紫の目も綺麗だし、笑わなくたって白子は強くて優しいんだから、そんなこといわないで、謝ってって、そういったの」 なるほどな、と天火は納得して、渓にバレないようにほんの少しだけ笑った。優しいのはどっちだか、と心の中で呟きながら、小指を繋いでいない方の手で渓の頭をなでて続きを促す。 「ほう、それで?」 「そしたらそんなの嫌だ、でもあいつは変だっていうから、渓はもっと怒ったの。だからね、あの子たちをここに連れてきて、謝ってもらおうと思ったの」 あぁ、そういうことか。天火はより一層深くなる笑みを必死に堪える。怪我した理由も読めてしまって、自分の中でたどり着いた結論が結局「渓は可愛い」なのだから、我ながら相当な妹依存だなと天火は心底思う。 そして天火の予想は当たるのだった。 「渓ね、頑張って連れて来ようと思って一生懸命ここまで引っ張ろうとしたんだけど、うまくいかなくて、渓がたくさん転んじゃって」 まだ小さいとはいえ、渓にとっては男三人だ。当然小柄で華奢な体では、どれだけ頑張ったって三人も連れてくるのは無理な話である。無理やり神社まで連れていこうとする渓を引き剥がそうと思って抵抗していたら、勢い余って渓を転ばせてしまったのだろう。それでもめげずに渓がくりかえすものだから、結局渓が泥まみれの傷だらけになってしまったわけである。 「そのうちあの子たち逃げちゃって、謝ってもらえなくなっちゃったから、白子に謝ってもらえなくてごめんねっていおうと思って来たんだけど、そしたら白子は自分が悪口いわれてたこと知っちゃうなと思ったら、今度はどうしたらいいかわからなくなって、そしたらなんだかつらくて泣いちゃって」 どんどんたどたどしくなっていく言葉を聞いていた天火だが、いい加減ニヤけが止まらない。自分の幼馴染であり妹のような存在の彼女は、どうしてこんなにも可愛いのだろう。 「それでさっき白子に謝ったわけか」 「うん」 思ったよりも自分の声が弾んでいたことに僅かばかり焦った天火だが、渓は気付く様子もなく頷いた。 「…ねぇ天火、渓、悪いことしたよね?」 「いや、してない!」 「でも謝ってもらえなかった…」 「渓は悪いことなんてしてないぞ!白子を守ろうとしたから渓はエライ!」 何より可愛いからそれで解決だと心の底から天火は思った。それに元はといえば、白子の悪口を言った連中がそもそもの発端である。無理やり謝らせると言った渓も横暴といえば横暴だが、幼いなりに渓は白子にきちんと特別な愛情を向けていることくらい、天火は気付いていた。だからこそ、白子の悪口だけは許せなかったのだろう。それにまだ幼い故に細かな善悪の把握など出来はしない。渓の中では最善だったに違いないのだから、多少の横暴は目をつむってやることにした。 「だからね!」 そんなことを思っていたら、俯いていた渓が突然勢いよく顔を上げて天火を見つめる。慌てて表情を取り繕う天火は見事に怪しいのだが、必死な様子の渓はそれに気付かない。 「白子にはいわないでね!」 「…云わないよ」 「ほんと?」 「ほんと。約束してるだろ」 そういって繋いだままの小指を見せて渓に笑いかければ、渓はようやく笑った。 そしてそんな二人の様子を影ながらこっそりと見つめていた白子は、呆れたように溜め息をついた。その手にはお盆があって、作り方を覚えたばかりのおはぎと温かいお茶が乗せられている。 「…聞こえてるって」 呟いた言葉は誰に届くわけでもなかったが、誰にも届かなかったかわりに自分にそっと返ってきた。なんだか妙にむずがゆくて、だけど不思議と悪い気はしなかった。悪口など気にしてもいないというのに、どうして自分のためにそこまでするのだろうとぼんやり白子は考える。 考え始めた途端に、ぐしゃぐしゃに泣きながら謝った渓の姿を思い出した。一体どんな気持ちで、あのたった一言を搾り出したのかは白子の知るところではないが、渓は白子自身が自分を思うよりも、ずっと白子を大切にしているということだけは伝わったらしい。 「…変な女」 ぽそっと呟いてから、赤の他人なのに、と心の奥の方で言う。赤の他人にこんなにも心を預けられる人間などいるわけがないとは思いつつ、しかしすぐそこでようやく笑った少女は自分に心を預けているからこそ泣いているのだ、ということも事実として存在してしまって、なんとなく白子の気持ちはちぐはぐだ。 とりあえずそのまとまらない感情を頭の片隅に追いやると、白子は渓と天火がいる部屋の襖を開けた。二人は小指を繋いだまま驚いたように白子を見つめる。白子はというと、二人が小指を繋いでいるという状況に嫌悪感に似たような感情を抱きつつ、持っていたお盆をおろした。渓の傍にお茶とおはぎを置いてやると、渓は大きな瞳をぱちくりとさせながら白子の顔をまじまじと見つめるばかりだ。 「…これ食べれば」 「え?」 「これ食べれば、ちょっとはマシになるかと思って」 渓が甘いもの好きというのは一月も一緒にいれば分かることで、泣かれっぱなしも面倒だなと思った白子がふいに思いついて準備したものだ。渓は少し不恰好なおはぎと温かいお茶を何度か交互に見た後に、ようやく頭が追いついてきたのか、先ほどまで泣いていたのが嘘のように、ぱあっと明るい顔で笑ってみせた。 「渓にくれるの!?」 「他に誰がいるの」 「俺!俺!」 「天火は後で」 ちぇっと拗ねる天火などそっちのけで、渓の瞳は非常にきらきらしている。つながれた小指はすでに離れていて、渓はすっかり目の前のおやつに夢中だ。 「白子!これ、食べていい!?」 「食べていいから持ってきたんだ」 「嬉しい!いただきます!」 渓はおはぎをぱくっと口に含む。白子も初めてのおはぎ作りだったので、少しだけ不安そうに渓の様子を伺う。渓はもぐもぐと口を動かして、ごくんと飲み込んだあと、今日一番の笑顔で言った。 「白子!おいしい!このおはぎおいしい!」 「…そう」 こんなに素直に心から喜ばれてしまった上に、おいしいとまで言われるとは思っていなかった白子は、どう反応すればいいかわからなくてそっけない返事を返した。渓は気にすることもなく、もぐもぐと幸せそうにどんどんとおはぎを食べ進めていく。そして全部食べ終わると、ぱちんと手を合わせて言った。 「ごちそうさまでした!」 「はい、お粗末様」 「白子〜俺のは〜?」 「だから後でっていってるだろ」 白子と天火が言い合う横で幸せそうににこにこしながら、渓はその様子を見つめていた。白子は天火と言い合いをしながら、ちらりと渓の体を見る。手当てがまだ途中だったことを思い出して、白子は自然と渓の手を取った。なぜこんなことをしたのかは白子自身分からなかったが、とりあえず今日の礼のつもりにしておこうと無理やり理由付ける。 「―――渓」 白子は初めて、渓の名前を呼んだ。 渓は驚いたのか、大きな目をより一層大きくして白子を見つめた。 「手当て終わってないだろ、行くよ」 「…渓、渓って呼んでくれた!!」 「ほら早く」 「天火、天火!白子が名前呼んでくれたよ!!」 「いいからさっさと来る」 「うん!行く!」 そして白子に手を引かれたまま出て行く渓を見つめて、天火は面白いおもちゃを見つけたとばかりにニヤリと笑った。 「そう簡単に渓は渡してやらんぞ白子〜」 ニヤニヤとしながら呟いた天火の独り言は、誰に聞こえるでもなく、温かな空気に包まれて静かに消えた。 初めて名前を呼んだ日 (次の日、なぜか神社まで渓に謝りに来た悪ガキ三人組がいたらしい) (白子の悪口を言うこともなくなったが、白子に対して敬語で話すようになったそうな) 2015.04.01 HAPPY BIRTHDAY SHIRASU!! △ back ▽ |