「渓姉!」 それはみんなで夕食を囲んでいるとき、宙太郎の唐突な一言から始まった。 「どうしたの宙太郎?」 「渓姉のおっぱい見たいっス!」 ぶはっ! 宙太郎以外の全員が、豪快に口に入れていたものを噴き出した。宙太郎は呑気に「汚いっス!」と喚いているが、この状況にさせたのは自分だという自覚がまるでない。渓はごほごほと咳をしてからお茶を飲んで落ち着けると、涙目で宙太郎を見た。 「…なんなの急に」 「こないだ買い物に行ったときに聞いたっス!みんなお母さんのおっぱい吸って育ってるって!」 「うん、それで?」 「でもオイラは見たことないから…」 「…なるほど」 このとき宙太郎はまだ十歳で、本来ならばもう乳離れもしているのだろうが、母を知らずに育った宙太郎にとっては、女性の胸そのものに純粋な興味があるらしい。渓も十八になり、当然体も女性らしく育って胸もある。男兄弟しかいない宙太郎にとっては唯一頼み込める相手だった。 「宙太郎!渓さん困らせるな!」 顔を真っ赤にしながらそう言うのは、十四歳になった空丸だ。思春期真っ只中の彼にとってはとんでもなく恥ずかしい話題なのだろう。 「でもオイラ見たいっス!同い年の子はみんな見たことあるって云ってたんス!」 「…気持ちは分かるんだけどね宙太郎、私そんなに立派な胸は…」 「そうだやめとけ宙太郎!渓は幼児体系だから胸なんてな…」 「天火、セクハラだぞ」 「事実だろ、白子だって思ってることを云ったまでで…」 「天火の馬鹿!さいってー!」 天火のひどい言い草に、顔を真っ赤にさせて激怒した渓はぽかぽかと天火を叩くが、細腕で殴られたところで当然痛くもかゆくもない。ケタケタと天火は笑っているが、空丸は顔を赤くさせてわたわたとしているし、白子はとんでもない夕食時だなと溜め息をつく。そんな中、一人真剣な宙太郎はなかなか諦めない。 「ちっちゃくてもいいっス!渓姉見せて!」 「…なんだろう、とんでもなく失礼なこと云われてる気が…」 「事実だからな」 「天火は黙ってて!」 「渓姉!」 「〜〜〜あぁもう!」 渓はがしっと宙太郎の肩をつかんで、目の前に座らせる。 「いいですか宙太郎くん」 「はい!」 「女性の胸は、血の繋がった相手にしか見せてはいけないというルールがあるんです」 「え!?そうなんスか!」 (さらっと嘘ついたな…) 当然渓は嘘をついてもすぐ目が泳ぐ上に、嘘だと分かる嘘しかつけないので、大人組と空丸にはすぐにバレてしまったのだが、純粋無垢な宙太郎はその渓の嘘をあっさり信じてしまう。 「だから見せてあげられないの、ごめんね」 「じゃあ見せなくてもいいっス!触らせてほしいっス!!」 「ぶっ!!」 堪えきれず噴き出したのは天火だ。渓は顔を赤くして天火を睨みつけるが、天火は扇で顔を隠して肩を震わせている。 「…それもダメ」 「えー!なんでっスか!?」 「私がいや」 「渓姉ー!お願いっスー!!」 とうとう宙太郎が半泣きですがり付いてきてしまった。宙太郎の泣き顔に弱い渓は、うっと言葉につまる。助けを求めて白子をちらっと見るが、こればっかりは無理だという困った笑顔を返された。渓はそろっと宙太郎に視線を移す。宙太郎の目からは今にも涙が零れ落ちそうで、渓は諦めたように深く長い溜め息をつくと、宙太郎に優しく云った。 「…夕飯食べたら一緒にお風呂はいろっか」 「「「え!?」」」 宙太郎以外の三人の声が重なる。渓が最後に宙太郎と一緒にお風呂に入ったのは、渓が十三歳のときだ。それ以降は渓も年頃になって、宙太郎と一緒に入浴することもやめていた。どうしてあなたたちが反応するのよ、と渓は訝しげに三人を見るが、三人は硬直したままだ。何しろあの恥ずかしがりやの渓が、まさか一緒に風呂に入ろうなどと言い出すなんて想像もしなかったからである。そんな三人の気持ちなど露知らず、宙太郎の目はどんどんきらきらしたものに変わる。 「み、見せてくれるんすか!」 「…恥ずかしいからそういう云い方はちょっとしないでほしいけど…まぁ、そういうこと」 「あ、でもオイラ血は繋がってなくて…」 「あー、えっと、うんとね、これっきりならいいよ、多分」 「今日だけ特別ってことっスか!?」 「うん、今日が最初で最後ね、多分」 「嬉しいっスー!!!」 (大嘘だ…) 宙太郎は慌てて夕飯を食べ終えると、渓を急かす。渓は溜め息をついて食事を終え、今にも小躍りしだしそうな宙太郎の手を引いて風呂場に向かう。そして風呂場についてからもう一度、盛大に溜め息をつくと、くるりと振り返った。そこには影から見つめる天火と白子と空丸の姿があって、渓は三人を睨みつける。 「ぜっっっったいに見ないでね」 「幼児体系に興味はないから安心しろ渓」 「真面目な顔してそんなこと云ってるけど、一番危なそうなの天火だからね」 「俺は天火を見張っとくから安心してね渓」 「爽やかに云ってるけど怪しすぎるわよ白子」 「お、俺は二人を見張っときます!」 「どうしよう、空丸まで信用できない」 「渓姉!はやく入るっス!」 「はいはい」 風呂場に消えていった二人を見送ったあと、天火はわなわなと震えだした。 「おのれ宙太郎…俺が渓と最後に風呂なんて入ったのなんて、渓がまだ六歳のときだったというのに…!」 「年上と年下じゃまた違うだろ」 「白子だってちょっとは興味あるくせに!!」 「俺は渓と風呂に入ったことなんて一度もないけど?」 「だから気になるんだろ!!」 「兄貴も白子さんも静かに!あっち戻るぞ!」 「空丸だって興味あるくせに」 「う、うう、うるさい!」 三人でがやがやと言い合っていると、突然風呂場から宙太郎の「おおー!」という声が聞こえてきて、三人は風呂場の扉越しに耳を澄ます。きゃっきゃと喜ぶ宙太郎と、こらこらと困ったようになだめる渓の声が僅かに聞こえ、三人は息を殺す。 「これがおっぱいっスか!」 「そうですよー」 「触ってもいいっスか!?」 「「「!!!」」」 当然扉越しの三人の目は見開かれる。食事中に宙太郎がいった「触らせて欲しい」は、渓が見せたくないと言ったための苦肉の策で、当然着物の上からという意味だったわけだが、今は本体が見えているだけでなく、直接触ろうとしていることになる。ゴクリと生々しい音を扉越しに立てる三人は、必死に扉の向こうに耳を傾けた。 「えー恥ずかしいんだけどなー」 「お願いっス!一生のお願いっス!」 「…ちょっとだけね?」 「わーい!!」 恥ずかしそうに渓が答えるのを耳にして、天火は再びわなわなと震えだす。白子が天火をなだめた。 「落ち着け天火、ここですべてが水の泡になってもいいのか」 「ぐ、ぐぬぬぬぬ…!」 「堪えろ、もう少しの辛抱だ」 「白子さん、ノリノリですね…」 「ここから動かない空丸には云われたくないな」 「―――きゃ!」 「「「!!!」」」 渓の声に三人は再び扉越しの声に神経を集中させる。 「んもう、くすぐったいー」 「ふわふわっスね!」 「や…!ちょっと変なとこ触らないで!」 「だってふわふわしてるっスー!」 「わー!顔うずめないの!」 「「「……」」」 けしからん。 三人の心の声が見事に一致した。 「こ、こら宙太郎どこ触って…あはは!もうくすぐったいってば」 「えへへ〜」 「もう!はいおしまい!」 「えー!?」 「ほんとは見せちゃだめなのに見せたんだから、もうおしまいね」 「…残念っス」 しかし宙太郎は素直に従ったようで、後は特に何事もなく仲良く風呂に浸かっている。体を流し合ったりしてきゃいきゃいと楽しげにお風呂に入る二人を耳だけで楽しんだ三人は、その後無言で部屋にもどって机を囲むように座っていた。天火が重々しく口を開く。 「…解せぬ」 開いたかと思うと、今度は泣きながら机に突っ伏した。 「なんで宙太郎とは一緒に入るのにお兄ちゃんとは一緒に入ってくれないのぉおぉぉぉ!!?」 「幼児体系って日ごろ馬鹿にするからだ」 「白子ッ!お前は『今の渓』と一緒に入りたいと思わないのか!?宙太郎に負けたんだぞ!!」 「それは確かに解せないけど」 (解せないんだ…) 心の中で空丸が突っ込んだところで、ぱたぱたと可愛い足音が聞こえた。スパーンと襖を開けたのは非常に満足そうな宙太郎で、その後ろから湯上りの渓がのんびりとやってきた。 「あがったっス!」 「あぁ…おかえり宙太郎」 「ヒィ!?て、天兄が怖いっス!」 「楽しかったみたいだな」 「白兄が黒いっス!」 「何してるの三人で机囲んで怖い顔して」 呆れたように渓は言うと、帰るね、とだけ告げて玄関に向かってしまう。それを引き止めたのは天火だ。 「待て渓」 「なに?」 「頼みがある」 「どうしたの改まって」 「俺と風呂に入ってください!!!」 「……」 渓から見事なビンタを受けた天火は、左頬に立派な紅葉を咲かせたまま渓を見送ることになった。渓が帰った後、あれこれ様々な質問を受ける宙太郎だったが、渓と言わないと約束しているからといって、珍しく何も吐かなかった。悔しがる三人をよそに、さっさと自室に戻って布団を敷きながら、宙太郎はニヤリと笑った。 「オイラの勝ちっス」 その勝ち誇った顔は、当然三人の兄たちは知らない。 末っ子の特権 (そして八つ当たりのように天火の幼児体系コールがひどくなった) 2015.04.10 △ back ▽ |