粉々になった色とりどりの破片が散らばる中、その破片の上に黒く長い髪の、黒目の娘は横たわっていた。

彼女の頭の中から、少しずつ少しずつ、いろんなことが消えていく。ぼんやりとした瞳からは、悲しくもないのに静かに涙が溢れ続けていた。こうやって、いつか、自分自身も消えるのだろうかとその娘が思っていたとき、ふいに白髪の男の笑顔が浮かんで、そして泡のように消えた。よく知ったはずの笑顔なのに、その男の名前が出てこない。悲しみも痛みも、すっかり消え去ってしまっているのに、この男の姿を見ると、胸が詰まって苦しかった。

横たわる娘はもう、呼吸をするのも億劫なくらいに響くこの胸の苦しみの名前を、知らない。


二十一、災厄が渦巻く空


気を失った空丸と、空丸が持っていた曇の宝刀を抱えた白子達は、中の大蛇が目覚めるまで彼を隠して眠らせておくことにした。空丸が持っていた曇の宝刀を抱えて姫の待つ場所に戻ると、そこには寝間着の姿を脱した姫の姿があった。黒い髪を靡かせて、鋭い金色の輝く瞳を細めながら、いつものように袖口を口元に当てて微笑み、姫は彼らを出迎えた。白子はその姿を見て、僅かに目を細める。

姫は、崖の上にある剥き出しの岩肌に、ちょこんとお行儀良く腰掛けていた。白地に淡い紫と青の紫陽花文が広がる着物に、青みの強い深い紫の帯を合わせて、肩からも薄い紫のショールを羽織っている。渓はいつも髪を半分だけ上げて可愛らしく団子にしていたが、姫となったそれは、髪を結うこともなくただ風に美しい黒髪を遊ばせている。

「なんだ、すっかり小奇麗になったな姫」
「何を云う、お前たち風魔に合わせてこの色にしたのだ。どうだ、似合うだろう?」

小太郎の馴れ馴れしい言葉遣いを気にする事もなく、姫はほれほれ、と無邪気に着物を見せびらかしている。そんな姿を見て、白子は不意に渓であった頃の姿が頭を過ぎった。

渓は、暖かい色が好きだった。その中でも特に桜色が好きで、幼い頃から小物はいつも可愛い色目のものを持ち歩いていた。おやつを選ぶときも、味ではなく色で決めていたくらいに、温かみのある色ばかりを好む。その渓が今、目の前で自分達と同じような色の着物を着ている。いつも可愛らしく仕上げられた髪型に刺している、母の形見の赤い丸簪も、彼女は今身につけていない。

あぁ、もう本当に別のものなのだ。
表情には出さなかったが、白子は虚しく思った。渓と全く同じ姿で、同じ顔をしているのに、今ここにいるのは、蛇の信者の姫君だ。

白子はゆっくりと、小太郎と姫に近付いた。姫は白子を見て上品にくすっと笑う。渓は一度だって、そんな風に笑ったことはない。比べるな、と白子は頭の中で思いながら、姫の前に膝をつく。

「姫、私は―――」
「そう畏まるな風魔の長、お前のことは良く知っている。改まった紹介など不要だ」

想像していたよりもずっと柔らかな雰囲気の姫を見上げれば、姫はまた上品にくすりと笑ってみせた。白子は無意識に、渓の面影ばかりをその姿の中に探してしまう。

「一応私とは、はじめましてだな。同じ大蛇様の眷属、仲良くやりましょう」

膝をついたままの白子の前にふわりと姫はしゃがみこんで、白子の目を真っ直ぐに見た。金色の目に捉えられた瞬間、白子は動けなくなった。目を逸らすことも出来ずに、ただ美しすぎるその目を見返すことしか出来ない。思考も上手く働かず、目の前で微笑む娘に目を奪われるばかりだ。

「あら、返事はいただけないものかしら?」
「…いえ、そういうわけでは」
「だからそう畏まるなというに」

姫は自然な流れで白子の手を取り立ち上がると、白子もつられて立ち上がった。そんな様子を見ていた小太郎が、やれやれと息を吐く。

「お堅いやつだな」
「お前は姫の前で無礼すぎる」
「畏まるな、と言われたからそうしているだけだ」
「まったく」

呆れたように白子が言うと、そんなことより、と姫はきょろきょろとあたりを見渡す。

「大蛇様はどこへ?」
「まだ気を失っておられるので、目覚めるまではもうしばらくかかるかと」
「そう、つまらないこと。早くお会いしたいというのに」

姫は残念そうに眉を下げたあと、すぐに微笑んでみせると、白子たちにその上品な笑顔を向けたままで続けた。

「そうだ、風魔の長よ。お前たちには伝えておかねばならんことがあるな」
「何でしょう」
「私の力のことだ」

姫はすっと美しい金色の目を細めてみせる。鋭い瞳孔は、目を逸らすことを許さない。白子と小太郎は目を逸らせず、身動きも取れないのだが、姫は気にするでもなく飄々と声を上げた。

「なぜ、蛇の信者と呼ばれる一族が、みな力を持っていたかは知っているか?」
「大蛇様の血を飲んだからと」
「そう、初代の信者たちは大蛇様と契約を交わし、その血を分け与えていただいた。その血を飲んだものは全て、私と同じく蛇の目の力を手に入れた。全てを見通し、操り、大蛇様の為に目となり餌となる」

微笑を崩すことなく、渓の姿をした姫は淡々と続けた。その内容はこうだ。

蛇の目の力は決して万能なものではなく、同時に複数の視界を奪うことは出来ないし、あくまでも見られる視界は大蛇と敵対関係にある者、もしくは大蛇の眷属の者だけで、それ以外の無関係な者の目は一切見ることは出来ない。また、操れるのは視力という概念のある動物だけで、安倍や芦屋の人間が操る式神の目を奪うことは出来ないし、そういった類の術全般に目の力は通用しない。そして、何より蛇の目を持つ者は戦う力も式術の力も持たない。だからこそ、過去には多くの力を持った者が必要だった。

「一つの蛇の目で見られる視界は一つだけ。代わる代わる入れ替える事は可能だが、それでは肝心な情報を逃すこともあるでしょう?だから我々一族は、決まった人間の視界を常に奪い、常に監視し続けていた。だから彼らは我々一族を恐れたのだ」
「しかし、結局滅ぼされたも同然じゃないか」

小太郎の言葉に、姫は肩をすくめてみせた。

「あぁ、悔しいことに、あの式神のせいでな」
「式神?」
「お前が山中で殺し損ねた、あの女だ」

白子に視線を寄越したまま、姫はその微笑を絶やすことなく言った。牡丹がそのきっかけだったらしい。

「遡ること六百年前、あの式の女は一人で我々の村に記憶を失くしたフリをして乗り込んだ。式の目を奪えない我々は、あの女の正体も気付かないままあの女を受け入れた。そして少しずつ、あの女は我々の数を減らしていったのだ。そうして徐々に目を失った我々は、監視の状態もままならなくなり、そして一気に攻められた。大蛇様が封印されてしまった後は完全に目の力も閉じてしまい、そこを狙われて一気に大勢の初代の者が狩られてしまったのだ。血筋は薄まり、三百年後には力が目覚めない者もあった。おかげで現在では、情けなくも私だけが生き残り、運よく目覚めたわけだ」

つまり姫が言いたいのは、多くの目がない今、奪える視界は限られているということだ。

「同胞として、出来るだけお前たちの役には立とう。しかし私にも限界はある、あまり無茶は申し付けるなと、そういうことだ」
「なるほど、お姫様はあまり有能じゃないということだな」
「姫に対してそういう口の利き方を――」
「よいよい、お前の弟の言う通りよ風魔の長。それとも、金城白子と呼んだ方が?」

くすくすと悪戯っぽく笑って白子を見る姫に向かって、白子は僅かに目を細めてからまさか、と吐いた。口元に袖口を当てて、姫はからかうように笑う。その顔は渓のもので、その笑顔は渓のものではない。ちぐはぐな女を目の前にして、白子はなんとなく苦しくなったが、その感情は無視をする。姫はふわりを絹のような黒髪を靡かせながら、すっと優しく目を細めた。

「とにかく私を使える時は好きなだけ使え。私もお前たちを使わねばならん」
「というと?」
「残念なことに、私には戦う力がないからな、お前たちには存分に私の盾になってもらいたい」

人に物を頼むにしては随分と上からの物言いだが、姫は相変わらず余裕たっぷりで、悪びれもなくそう言う。あぁ、まただ、と白子は思う。渓であって渓でない目の前の女に、今までの渓を重ねてしまう。もし渓だったら、なんて、今さら思っても仕方がない。白子は無表情を決め込んで、次々と自分の胸の中の記憶を掘り返す目の前の渓であった女を見返した。

「もちろん、姫は我々がお守りいたします」
「あら、優しいこと。私も十分役に立たねばな」

こうなってしまった以上、もはや姫となった彼女と離れる事も出来はしない。どれだけその姿があの日の彼女と重なろうと、胸の傷を抉り出そうと、傍にいることしか出来ないのだ。だからこそ自分は、せめてこのまま傍にいようと誓った。渓の体がそこにある限り、きっと渓を忘れることなど出来ないのだから。

姫は渦を巻く空を見上げながら、一つ小さな欠伸を零す。その様子を見た白子は、姫に声をかけた。

「姫、まだお疲れならば、少し休んだ方がよろしいのでは」
「お前たちの役に立たねばならない、もう少し起きておくわ」
「どうせ犲たちが動き出すのもまだ先だろう、後で倒れられても困るだけだ。今は眠っておけ」

風魔の二人の長にそう言われて、姫はきょとんと二人の顔を見た。それからなぜか、くすくすと笑い出した。その顔はいつも通り上品ではあるのだが、なんだか随分嬉しそうで、そして子どものような笑顔だった。風魔の双子も、意外な姫の表情に驚いて目を丸くする。

「いや、嬉しいものだな、大切にされるというのは」

二人を見つめる金色の瞳は、幸せそうに細められている。どことなく渓に似た雰囲気の笑顔に、白子の胸が柔らかな音を立てた。姫は靡く髪をそっと耳にかけると、太陽を遮る空を見上げながら寂しそうに呟いた。

「…こうやってあの時も、彼らが私達を大切にしていれば、こんな事にはならなかったのに」

その言葉に質問を投げかける隙さえ与えず、姫はにこりと笑って視線を二人に戻す。すると突然二人の手を握って、自分よりもずっと大きな二人の姿を見上げた。

「よし、私が寝付くまで傍におれ!」
「…は?」

白子が素っ頓狂な声を上げると、姫は悪戯っぽく笑ってみせた。

「今日はお前たちといたい」
「お姫様は一人で眠れもしないのか」
「冷たいことを言うな風魔の弟、私は今嬉しいのだ。喜びを共有したいと思うのは、おかしなことではないでしょう?」

金色の鋭い目を持ち、時々異常なまでに大人っぽい雰囲気をかもし出すため、物静かな威厳のあるお姫様かと思っていたが、実際はずっと子どもっぽいらしい。じゃれるように二人に腕を絡ませながら、姫は自分の寝床へと案内しろと楽しそうに言う。そんな姫に、小太郎は溜め息をつく。白子も想像していた"姫"と違い、ずっと気楽に接することが出来そうなその性格に、少しばかり安堵して苦笑をもらすのだった。



真夜中、崖から離れ、木々が覆う森の中に彼らは居た。程よい高さの岩に白子は腰掛けて、曇の宝刀を見つめている。姫はその隣りで、布を敷いただけの簡易な寝床ですやすやと寝息を立てていた。そこへ狐の仮面をつけた小太郎がやって来る。

「なんだ、姫はまだ寝てるのか」
「結局なかなか眠らなかったからな、寝かせておけ」
「やれやれ、とんだ姫様だ」

しゃがみこんで、気持ち良さそうに眠る姫の顔を小太郎は覗きこむ。あの後、風魔の昔話を聞かせろとせびられ、くだらない話を散々させられてから、ようやく眠ってくれたのだ。小太郎は子どものような寝顔を見ながら、その鼻をつまんでみる。むうっと眉間にしわを寄せて腕をぱたぱたとさせるが、姫は起きない。小太郎は仮面の下で小さくくつくつと笑った。すっかり新しいおもちゃを見つけた様子の小太郎を横目で見ながら、白子は冷めたように言う。

「姫が起きるぞ」
「そうなったらその時だ。ところで」

小太郎は仮面のままで、曇の宝刀を握ったままの白子に視線を合わせて言った。

「十年も共にいて情が沸いたか」
「まさか」

曇の宝刀を掴んだまま離さない白子を見て、そう言いたくなったのだろう。白子はそんな小太郎の言葉を鼻で笑って、小太郎に宝刀を差し出しながら続けた。

「この刀、大蛇と器を切り離す事が出来るらしい」
「ただの錆刀じゃないか」
「術が宿っているんだと」
「ほぉ」

小太郎はおもむろに鞘から刀を引き抜いて、少しばかり眺めてみるが、興味なさげに再び鞘に戻すと、乱暴に地面に投げ捨てた。その小太郎の行動を見ながら、白子は弟に声をかける。

「まぁそんな事はどうでもいい。十年近くもご苦労だったな、獄門処の中は窮屈だったろう」
「何、短いものだ。全てお前の思い描いた通り。俺達の計画通りだ」

風魔一族が滅んだように見せかけ、大蛇が復活するまでにひっそりと風魔以外の同志を集めて、大蛇の復活と共に風魔は再び時代を作る。蛇の信者である姫も無事に目覚め、手中に収めた。危険思想や怨念にまみれた獄門処に収容された囚人たちを、国への反感を利用して同志という手駒にしたのも正解だった、と彼らは言う。二人は十年の年月を経て、ようやくここまで辿り着いたのだ。

「長が二人など馬鹿気ていると思ったが、悪くない」

白子が言えば、小太郎はさも当然のように答えた。

「俺は初めからそのつもりだった。里のじじい共が俺達を殺し合わせようとしたが、まるで分かってない。お前の才を引き出せるのは俺だけだし、俺の才を引き出せるのはお前だけだ。忍の時代が戻ってくる」

双子は忌み子。白子と小太郎が生まれたとき、当時の長は片方を殺せと母に命じていたのだが、母はその命に違反して、ずっと小太郎を隠して育て続けていた。白子は父を殺して風魔になったが、そのせいで母に愛されなくなり、小太郎は母には愛されていたものの、匿われて生きているため風魔にはなれない。お互いに足りないものは、お互いが補ってくれる。

二人はそうやって生きてきたのだが、そんなある日、小太郎の存在が当時の長に知られてしまい、母は拷問を受け、挙句の果てにはその身を焼かれて崖から落とされたのだが、落とされかけたとき、小太郎が母の腕を慌てて掴んだのだ。そこから火が小太郎に移り、彼は右半身に大火傷を負った。このまま小太郎も焼けて死ぬのでは、というときに白子が現れ、母の腕を切り落として小太郎と母を離し、母はそのまま崖の下へと落下。小太郎は半身に大火傷を負ったものの、命に別状はなかった。その小太郎を、当時の長は殺せと白子に命じたのだ。

当時の長のやり方に不満を持っていた白子は、長の命令に違反してその場で長を切り殺した。そして彼は、いや、彼らは、二人で長として新たに風魔の頂点に立った。白子は元々次期長候補だった為、実力もあった。二人で長と決めたのはまだ風魔になりきれない小太郎だったが、その小太郎も十分資質はあったし、忍は命ずる者がいなければ動けない。当時の長に対して不満を持っていた者も多かったため、反対する者はなく、ようやく風魔の時代を再興するために動き出したのだ。

「想像より順調だったな。ああ、だけど一人手を焼いた奴がいた」
「曇大湖か」

小太郎の言葉に、白子は十一年前のことを思い出した。この日の為に、白子は天火の両親を殺した。その真実を、ずっと彼等や渓には隠し続けて、今日に至る。

「元々蛇の信者のことも知っていたし、それもあって風魔と大蛇の関係を繋げていたからな。奴は知りすぎた。それに犲の師範だったし、殺すのにも苦労をしたよ。婿養子だったから器の血筋でなかったのが救いだが…母親を殺してしまったのには、少々焦りを覚えた」
「確かに、母親の死は誤算だったが、お陰で曇の懐に入りやすくなったじゃないか」

白子の脳裏に、笑顔の三兄弟の姿が甦る。十年間、自分を何一つ疑うことなく家族として迎え、愛してくれた、自身の敵。その十年の日々の中には、すでに失われてしまった愛しい者の存在も、確かにあった。

「―――そうだな、とても簡単だった」

思い出して、胸の奥が僅かに痛む。響く痛みに無視をして、白子はゆるやかに目を閉じた。

すると突然、ぱっと姫が目を開けてむくりと起き上がった。双子の視線は姫に向けられる。金色の目を見開いて、姫は静かに、それでいて嬉しそうな声を上げる。

「大蛇様」

その声で、風魔の双子は大蛇の目覚めを知る。姫は彼らを見上げて、金色の瞳を嬉しそうに細めた。

「ゆくぞ風魔の長、大蛇様をお待たせしてはならぬ」

姫はそっと腕を伸ばす。立たせろ、ということなのだろう。白子はほんの一瞬、その手を取るのを躊躇ったのだが、その間に小太郎が伸ばされた白い手を握った。小太郎に引っ張られるように立ち上がった姫は、待ちきれないとばかりに小太郎の手を引いてさっさと歩き出す。やれやれと小太郎がその後についていくのを見送りながら、白子はそっと髪紐を取り出した。十年前、曇家に来たばかりの頃、天火が白子に与えたものだ。

「…」

白子はそっと、その長い髪紐を燃やす。これでもう、あの日々の中にいた自分は死んだ。

「さよなら金城白子」

小さく呟いて、先を歩く弟と姫の背中を追いかける。その手が未だに繋がれたままだという事実に、ほんの少しだけ嫉妬のようなものを感じつつも、もう表情には出さない。だってあれは、渓ではないのだ。その姿が、その声が、その顔が、渓だと錯覚させてしまうだけであって、もはや違う生き物だ。ただ傍にいて、力を持たない小さな体を、その金色の瞳を守ってやるだけだ。

白子は息を吸って、何事もなかったかのように足を進める。すでに大蛇の前で膝をつく風魔達を横切ると、その先頭に立ち、小太郎と共に大蛇の前にひざまずいた。災厄が渦巻く空の下、空丸の皮を被った大蛇が、静かに彼らを振り向いた。


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