腕の中でがくんと気を失った彼女の、涙で濡れた白い頬を、彼は指先で優しく拭い取る。次に彼女が目覚めたとき、待ち構えている未来の中に、あの夢のような日々の中で見つけた笑顔はもうありはしないのだ。

小さな体を慈しむように抱きしめながら、彼はその耳元で悲しい愛の言葉を囁いた。その声はこの先もずっと、彼女には届くことはない。


十九、蘇りし蛇の姫君


柔らかく風が頬を撫でる感覚に肌寒さを感じて、渓はゆるやかに目を開けた。差すような朝焼けに目を細める。ぼんやりして視界もかすむ中、やけに重たい頭を押さえるようにしながら上体を起こすと、そこは琵琶湖が見渡せる丘のような開けた場所で、どこかの山中のようだった。琵琶湖の真ん中にそびえ立つ獄門処もやけに小さく見える。なぜこんなところにいるのかも分からずに、朝方の冷気に震えながら自身の姿を確認してみると、布のようなものの上に寝間着のままで寝かされていたようだった。体が冷えないように、小さな体をすっぽりと包み込むような大きさの羽織も、掛け布団の代わりにかけられている。

どうしてこんなところにいるのだろう、と上手く働かない頭で渓は必死に考えるが、理由などさっぱり分からない。その上頭は異常に重く、何かを考えることさえ面倒に感じた。目の前がぼんやりとする中、寒いということだけが何より一番で、渓は大きな羽織を手繰り寄せて体に巻きつけた。薄紫の綺麗な羽織は、とても温かかった。

「お目覚めか」

聞きなれない声がして、渓はのんびりと声の方に顔を向けた。そこには忍装束の白子と狐の面を被った風魔の男が立っているのが見える。二人は目覚めたばかりの渓に近付いた。渓はというと、近付いてくる二人をただぼんやりと眺めるばかりだ。

狐の面を被った男が、座り込んで体を包む渓の前にしゃがみこみ、渓の色のない虚ろな顔を覗きこむ。渓は、今自分が置かれている状況も、この狐の面の男のことも、怖いとも思わなかった。ただそこに、「見たことがある狐の面の男がいる」ということだけを脳が認識していた。そしてゆるゆると、渓は立ち上がったままの白子を見つめる。大好きな人だ、とそれだけを思いながら、相変わらずの虚ろな顔のまま、抑揚のない声で確かめるようにその名を呼んだ。

「しらす」

そんな渓の様子を見ていた狐の面の男は、渓の顔を見つめたままで声を上げる。

「なんだ、次に目覚めたときは自我が崩壊しているんじゃなかったのか」

そう言った男に答えたのは白子だ。

「なんとか繋ぎ止めてあるようだな、しかし崩壊は始まっている。見ろ、もう目は姫の侵食が始まっている」

ぼんやりと白子を見上げる渓の瞳は、黒と金が混ざり合ったような奇妙な色をしていた。瞳は黒くなったり金になったりをくり返しながら、金色になろうともがいていた。

「その証拠に感情はすでに薄れている。普通ならもう少し怯えた顔をするものだ」
「ほう、良く知っているじゃないかこの女のこと」
「これに限ったことではない、ただの一般論だ」

二人の会話を耳にしながらも、渓にはその内容などまったく入って来ない。二人が何を話しているかなど、渓にとってはもうどうでもいいことだった。この状況で何をするのが正しいのかも、どんな言葉を発するのが正しいのかも、渓には判断が出来なくなっていた。

「しらす」

もう一度、抑揚のない声で大好きな名前を呼ぶ。きっとこの行為にさえ、渓にはもう意味のないことだった。白子は無表情のままで虚ろな渓を見下ろすが、その声には答えず狐の面の男に視線を寄越す。

「決行は今夜だ。俺はまだ少し遣り残したことがある。夜まで姫は任せるが、何かあっても手荒な真似はするな」
「やれやれ、随分と過保護らしい」
「肝心なのは器ではない、姫に何かあればどうする」
「そういうことにしておこう」

面白がるようにして肩をすくめながら狐の面の男が答えると、白子は目を細めて男を見てから踵を返して立ち去ろうとした。しかし、そんな白子の手を何かが握って引き止める。白子が振り返れば、虚ろな目をした渓が両手で白子の手を力なく包み込んでいた。渓の両手はぞっとするほどに冷たく、人としての体温を感じない。渓は包み込んだ白子の手をぼんやりと見つめながら、覇気のない声で言った。

「いや」
「…」
「いっちゃ、いや」

渓はゆるりと白子の手のひらを引っ張ると、それをそっと自分の額に押し当てた。何かを願うように、縋るように。

「ここにいて、しらす」

そんな渓の様子を見た白子は、一瞬だけ、ほんの僅かに眉を寄せたが、すぐに無表情を繕って渓の前にひざまづく。狐の面の男も、同じようにひざまづいた。

「我ら二人、風魔一族十代目頭領、風魔小太郎。姫と同じく大蛇様の眷属。姫には大蛇様の目となり声となっていただかねばなりません。今しばらく力の目覚めを優先ください。我々は大蛇様の器となる者を連れて参ります」

並べられる白子の言葉を、渓はぼんやりと耳にしていた。白子の言っている意味が理解出来ているのかどうか、自分でも分からない。顔色を変えることも表情を変えることもないまま、ただひざまづく二人を眺めるばかりだ。

白子はそんな渓と視線を合わせることもなく立ち上がると、狐の面の男――白子と同じく風魔一族十代目の頭領であり、双子の弟である風魔小太郎に紫の瞳を向けて、視線だけで渓のことを託すと訴えるとさっさと立ち去ってしまった。小太郎はかしこまっていた体制を崩しながら、去って行く後姿を眺めてやれやれといった様子で仮面の下で息を吐く。そして改めて渓の前にしゃがみこむと、ようやくその狐の面を外した。

面の下の顔は、双子なだけあって当然白子と同じなのだが、過去に大きな火傷を負ったため、顔の右半分は巻木綿でぐるぐると巻かれていた。その隙間から覗く右目は火傷のせいで瞼まで焼けており、眼球はほとんど剥き出しのような状態だ。反対側が綺麗な顔をしているだけあって、より一層恐ろしいもののようにさえ見える。

しかし渓はそんな男の顔を見ても、不気味だとも怖いとも思わなかった。ただ白子と同じような顔がそこにあって、渓はやや首をかしげて、不思議そうな、それでいて相変わらず抑揚のない声で言った。

「しらす?」
「残念だが、お前の大好きな白子じゃない」

そう冷めた口調で答える小太郎の声にも、渓の頭は何も反応しなかった。もし渓の自我が崩壊し始めていなければ、小太郎の顔を見てもう少し反応を示したのだろうが、もう渓にそこまでの余裕はない。白子のような白子でないような男の顔をぼんやりとした眼差しで見つめながら、渓は目の前の顔にのんびりと手を伸ばした。巻木綿が巻かれた頬に優しい手つきで触れる。小太郎は突然の行為に眉を顰めて、黒と金の混ざり合った奇妙な瞳を見つめた。

「いたい?」
「…」

そう尋ねた渓は、冷たい指先でそっとその頬を撫でた。小太郎はその手をパシンと払いのけると、冷めた表情で渓の顔を見つめたまま、独り言のようにボソリと呟いた。

「…あいつがこんな小娘にほだされるとはな」

この十年間、白子と小太郎は風魔の時代を取り戻すために動き続けていた。風魔は絶えたと噂を流して、白子は傷付いた姿を見せて曇家に潜り込んで情報を回し、小太郎は獄門処を纏め、収容された犯罪者たちを阿片の中毒者にして手駒にし軍を作る。そして十年、大蛇が器に宿り蘇るのを待ち続けた。

そんなときに目覚めた渓は、彼らにとっては都合が良かった。蛇の信者は、唯一大蛇が認め契約を交わした一族だ。いくら戦闘に不向きであろうと、完全に覚醒させて手中に収めることで上手く利用出来れば、彼らは圧倒的に有利になる。それを見越した上で、こうして渓を覚醒させるように仕向けて、曇家から掻っ攫って来たわけだが、小太郎は白子の態度を不審に思っていた。

渓が白子を特別に思っていることは、渓の力が目覚めたときに白子から聞いていた。その気持ちを利用して、上手く動かせると白子が言ったからだ。しかし、そう言った白子自身も、どことなく渓にだけは気を入れているように小太郎は感じていた。ただの勘だったが、不思議と間違っている気もしなかった。まだまだ乳臭い娘に、まさか自分の兄であり風魔の頭領である白子が肩入れしているなんて、小太郎にとっては信じがたいことなのだろう。

訝しげに自分を睨む小太郎の顔をまじまじと見つめながら、渓は首をかしげた。手を払いのけられたこともよく分かっていないまま、その訝しげな顔を見て思ったことを口にする。

「おつきさま」
「何?」
「おつきさまみたい、きれいね」

小太郎はより一層眉間のしわを深くした。いくら自我を失いかけていようと、この顔を見て綺麗だと口にする女など、彼にとっては異常なものだった。そんな小太郎の表情に怯えるでもなく、渓は両手でその顔を包んだ。人の温もりを感じない冷え切った手のひらに小太郎が目を細めると、もはや感情などないに等しいはずの渓が、ほんの僅かに笑った。

「しらすと、いっしょ」

やけに嬉しそうなその言葉に、小太郎は思わず目を見開いた。金城白子と名付けた男が風魔だと知っていながら家族として迎え入れた曇一家は、彼にとっては随分と馬鹿げた連中だったわけだが、もうすぐ消えてしまう目の前の娘は、そんな風魔を月に例えて綺麗だというのだ。もしかすると、曇神社の人間よりもずっと馬鹿げているのかもしれない、と思いながら、小太郎は気だるそうに息を吐いた。

この娘の風魔を恐れない態度に白子がほだされたのだとしたら、自我が残っている限りこの女はとんだ厄介者だ。ことあるごとに白子の感情を乱しかねない。そう思った小太郎は、目の前の虚ろな顔を真っ直ぐに見て冷ややかな視線を送りつけた。

「お前はもうすぐ力に飲まれて消える。これは逃れられない事だ、諦めてさっさと消えろ」

強い口調でそう言えば、渓から返って来たのは思いもよらない言葉だった。

「しってるよ」

のんびりと、感情のこもらない声でそう言った渓を見て、小太郎は驚いた様子を見せる。渓はそんな小太郎の姿を気にすることもなく続ける。

「でも、そばにいるって、やくそくしたの」

小太郎はその言葉に固まったまま、渓の顔を見つめ返すことしか出来なかった。渓がこんな状態になってもまだ自我を失いきっていないのは、そのたった一つの約束が白子と渓を繋いでいるからだと小太郎はすぐに理解した。同時に、そんな偽りまみれの約束に縋りついてここまで自我を保っていられるというのが、彼には理解出来なかった。


―――ここにいて、しらす。


もはやろくに感情も残っていないというのに、白子に向かってそう言った渓を思い出す。傍にいると約束したから、傍にいて欲しいと思ったのだろう。小太郎は不思議でたまらなかった。白子が風魔小太郎だったことも、渓にとって家族同様に大切な曇家を裏切ったことも知っていて、なおかつ自分という存在まで失いかけているというのに、渓は白子を見限る様子もなく、こんな状態になってまでその約束を純粋に守ろうとしている。

小太郎は、自分の頬を包み込んだままの小さな両手を、今度はそっと離させた。渓の表情はピクリとも変わらない。ただ、少しずつ渓の目は黒を失っていた。徐々に侵食を進める金色を眺めながら、小太郎は渓の白い頬に触れてみる。やはりその頬からも、人間らしい体温は微塵も感じない。渓は抵抗することなく、小太郎の顔を見つめ返すばかりだ。

「…あいつが焦がれるわけだ」

どこまでも純粋で真っ直ぐで、ただただ自分だけを愛してくれる存在がいる居心地の良さを、白子は知ってしまった。昔、風魔になるための儀式を行った際に父を殺し、以降母に愛されなかった記憶だけが根付く白子にとって、際限なく愛をくれる渓の存在は大きかったのだろう。やはりこの女は厄介だな、と小太郎は思う。しかしそれと同時に、失われてしまうのは少し勿体ないような気もした。ようやく少しだけ、渓に興味が沸いたところだったからだ。

頬から手を離した小太郎は、渓の黒く長い髪を一束掬い取り、ゆっくりとそれに指先を滑らせた。絡まることなくするりと指から零れていくなめらかな髪を眺めながら、小太郎は静かに告げた。

「俺たちが月なら、お前は闇だな」
「やみ?」

いつだったか白子は、渓を太陽のようだと言った。しかし、小太郎にはそうは思えなかった。太陽は眩しすぎて、どれだけ手を伸ばしたって届きはしない。届かないくせにいつもそこにあるからこそ、いつか届くのではと焦がれてしまう。白子は手に入れられない渓を、そんな太陽のような存在だと思っていたのだろうが、それは大間違いだ、と小太郎は心の中で吐き出す。

「お前はその優しい言葉で簡単に全てを受け入れて、闇の中に引きずり込む。闇に落とされた人間がどうなるか知っているか?そこから抜け出せなくなるんだ。闇は何も映さない。悲しみも喜びも希望も絶望も、全て容易く飲み込んでしまう。お前のような人間が与える闇の中は、存外居心地がいいものだ。お前の包むそこにいれば、何があっても大丈夫なのだと錯覚させられるからな。そうやってあいつは、お前に飲み込まれただけだ」

白子は渓といる居心地の良さに狂わされた。だからお前は闇なのだと、小太郎は迷うことなくそう言ってのける。優しすぎる暗闇は、月も、光も、時には太陽さえも飲み込んでしまう。手を伸ばした者をためらうことなく覆い尽くし、居心地の良さに狂わせてその闇の中から抜け出すことを許さない。

「優しいお前はそうやって、甘い言葉で闇の中に連れ込んでは他のものから遮断する。お前がここに存在していることで、お前の大好きな金城白子は前に進めない」

小太郎の言葉を聞いて、渓の脳内にビキビキと一気に何かがひび割れる音が聞こえた。

「しらすは、まえに、すすめない」
「そうだ、だからお前がこのまま自我を保っているのはよくない」

小太郎の声は言い聞かせるような優しいものだったが、内容は決して優しいものではない。つまりは「お前がここにいる限り、風魔の長はお前に捕らわれたまま使命を果たせない、だからさっさと消えてくれ」ということなのだ。

「…わたしは、しらすのそばに、いちゃ、いけない?」
「お前が消えても、お前の体は白子と共にある。何も悲しむことはない、約束は果たされる」
「やくそくは、はたされる―――」

そう言った渓の瞳から、一筋だけそっと涙が流れた。とうとう何かが粉々になったような音が脳内に響いて、渓はそれっきり何も考えられなくなった。頭の中で、聞きなれた女の声がやけによく響く。


―――さぁ、もう休みなさい、お前はよくやってくれた。金城白子は、共にある。


「…うん」

渓はその声に小さく答えると、ゆっくりと目を閉じて、ぐらりと小太郎の胸に倒れこんだ。小太郎はその小さな体を受け止めると、口元を吊り上げて不適に微笑んでみせる。そして腕の中にいる渓に向かって、かしこまった口調で告げた。

「ようやくお目覚めですか――姫」

渓は静かに小太郎の胸から体を離すと、ゆっくりと瞼を開いていく。長い睫毛の下からゆるやかに現れるその瞳は、見たこともないような美しい金色で、蛇のような鋭い瞳孔が目の前の小太郎を射抜いた。

目の前にいる同胞の顔を見て、渓であって渓でないそれは、ニヤリと妖しげに、笑った。


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