夜、鳥が空を舞う。
悲しみに暮れる町を駆け抜け、湖に佇む監獄へ向かって行った。その鳥を、彼は静かに見送りながら、彼女を想った。


十三、悲しみの雨は止まず


まるで生気を失ってしまった町には、雨が続いていた。白にも黒にもなりきれない、曖昧でどっちつかずの灰色が覆う世界は、余計に寂しげだ。滋賀という地が失ったものはあまりにも大きすぎて、その偉大さを改めて思い知らされるばかりだ。

『曇神社当主曇天火を絞首刑に処す』

大蛇細胞の件は当然伏せられ、獄門処の爆破行為と理由付けされた張り紙が出された後、曇天火の処刑は滞りなく行われたのだが、会場は大混乱だった。兄の死刑を知らされた空丸と宙太郎が真っ先に乗り込み、兄を迎えに来たと言って押さえつける警官たちを相手に暴れまわり、天火が爆破行為をするはずなんてない、何かの間違いだといって町中の人が全員天火の死刑に異議を申し立てに集まったのだ。

曇家で泣き疲れて気を失っていた渓は、空丸の張り裂けんばかりの声で目が覚め、天火を迎えに行くと言って駆け出してしまった弟たちの後を慌てて追いかけた。息を荒くして死刑場に着いたときには、空丸と宙太郎が縦格子を挟んで天火に抱きしめられていて、渓もそこへ駆け寄った。小さな妹の姿を見つけた天火は、静かに微笑むと、渓の小さな頭に手のひらを置いて、優しく笑ってみせた。

「こいつらのこと、頼むな」

くしゃくしゃと渓の頭を撫でると、背中を向けて去って行こうとする。腕を必死に鉄格子の向こう側にいる兄に向かって必死に腕を伸ばす弟たちをぼんやりと、見つめながら、渓は夢のようなふわふわとした感覚に、ついに立っていられなくなって膝から崩れ落ちた。そんな渓を支えたのは、どこから現れたのかもわからない白子で、白子は空丸も鉄格子から引き離していた。宙太郎は牡丹が抱きしめるように押さえつけていて、さらに後から後からやってきた町人たちが泣き喚いている。

そのすべてが、天火への愛と信頼を表していた。そんな様々な愛情を受けながら振り返った天火は、最上級の笑顔でたった一言だけ残して消えた。


「笑え!」


その言葉に、どれほどの想いが込められているのかも分からない。渓はあちこちから聞こえるたくさんの泣き声と叫び声を聞きながら、夢のような感覚にぼんやりとするばかりだった。

嘘だ、信じられない、天火が消えるなんて嫌だ。そんなことを思っているというのに、頭の中で自分ではない誰かが、嬉しそうに笑っていた。邪魔者は消えた、と言わんばかりの嬉しそうな声で。

―――これでいいのよ、お前が悲しむことはないわ。

そう言って笑う頭の中の誰かの声に引きずられるように、渓は再び意識を手放した。そして目が覚めたときには曇家の布団の中にいたため、あの後の混乱がどうやって収束したのかなど知る由もなかったのだが、知りたいとも思わなかった。ただ、寝ぼけて覚醒しきらない頭の中で、二つの言葉がぐるぐると渦巻いていた。


『こいつらのこと、頼むな』

『これでいいのよ、お前が悲しむことはないわ』


天火の声と、知らない誰かの、それでいて聞き慣れたような女性の声だった。その二つの言葉に板ばさみになりながら苦しむ渓を追い詰めるように、彼女の中で目覚めてしまった力は、優しく穏やかに、そして確実に、渓の心と体を蝕み続けていた。



天火の処刑が行われてから、一週間が過ぎた。
静かな曇家の中に、ジャッ、ジャッ、と米をとぎ続ける音がこだまする。止まない雨が屋根を叩く音さえ、今は痛い。ぼんやりとした目でその行為を続ける空丸の手を、白子は掴んだ。水につけたままの手を空気に触れさせれば、空丸のまだ少年らしい手はすっかり冷え切ってしまっていた。

「何時まで洗うつもりだ?」

苦笑いで白子は言った。優しく静かな、なだめるような声だった。

「手がすっかり冷えてるじゃないか。もう十分だろ」
「白子さん…オロチが死んだら晴れるんじゃなかったんですか」

空丸の言葉に、白子は何も言えずに顔を歪ませる。オロチが死んだら雲は晴れると、確かに空丸たちにそう伝えた。しかし見事に雨は続いていて、晴れる気配も感じさせない。暗く重い空が、まるで泣いているようにも見えた。そんな空を見上げながら、空丸は抑揚のない声で告げる。

「云いましたよね、呪いのオロチを宿した兄貴が死ねば、この地は災いから解き放たれるって。呪いの象徴である曇天も晴れるんじゃなかったんですか」
「…」
「…雨ですね。ずーっと雨だ。これじゃ何時晴れるか分からない…」

空丸の脳内に思い出されるのは、刑場に集まった面々が泣き崩れ、前代未聞なほど荒れに荒れた光景だった。天火を失った家も、町も、そのすべてがあまりも息苦しくて、つい思い出すのはお調子者の、笑顔の兄の姿だ。空丸は唇を噛んで傘を取ると、家を飛び出そうとした。白子はその肩を引いて止める。

「また行くのか。天火の遺体は今―――」
「分かってます!」
「…今後のオロチ研究の為に、死後の解剖を望んだのは天火だ」

遺体、死後。
いまだにその言葉を受け入れられない空丸にとって、それは聞きたくもないことだった。白子を振り返ると、八つ当たりのように白子に言葉を投げつける。溢れ出した言葉は、簡単には収まってくれない。

「それでも嫌なんです!兄貴が帰って来るのは此処だ!俺はまだオロチなんて認めてない、兄貴が犠牲になったなんて思いたくない!」

そう吐き捨てて駆け出した空丸を引き止めることも出来ないまま、白子は小さくなっていく背中を見送って、少しだけ息を吐いた。目を細めて眉を寄せながら、柱にもたれてぼんやりと空を見上げると、一人静かに呟いた。

「天火……お前の代わりは出来そうにない……」

呟いてすぐ、カタンと小さな音が鳴って、白子はその音の方に視線をやる。そこには掃除を終えたのであろう渓が、気まずそうに立っていた。伺うように見つめる丸い瞳を見つめ返して、白子は小さく、困ったように笑う。

「…見てたのか」
「…うん。ごめんね、覗き見るつもりはなかったんだけど…」
「いいよ、気にすることじゃない」

優しい声で言えば、渓はそっと白子に近付いて、いつになく疲労した様子の綺麗な顔をじっと見つめた。白子はその視線の意味が分からず、少し首をかしげてみると、渓は僅かに瞳を揺らした後、こてん、と白子の胸に顔を埋めて、その腰に柔らかくしがみついた。突然の渓の行動に、白子は驚いたように目を丸くするばかりだ。

「…渓?」
「…私、頼りないかな」
「え?」
「天火にね、云われたの。空丸たちのこと頼むって。だからしゃんとしなきゃって思うし、空丸たちの悲しみだって受け止めてあげなきゃって思うんだけど、空丸達は本音を白子にしか吐いてないような気がするの。私の前じゃ、あんまり何も話してくれないし、ああやって怒鳴ってもくれないし…」
「…」

吐き出す渓の声は、いつになく弱々しい。処刑の日から、渓は一度だって泣いていないし、出来るだけ場を明るく取り繕うために笑っている。しかし、今の空丸や宙太郎は、そんな渓の笑顔につられて笑うことも、怒りをぶつけることもない。「家族」ではない一線を、渓は確かに感じていた。

弱音を吐いた渓は、ハッとしたのか慌てて白子から離れると、なんとか笑ってみせた。無理をしているのは誤魔化せていなかったが、これ以上、白子にばかり負担をかけたくはなかったのだ。

「ごめん、辛気臭くなるようなこと云っちゃって!」
「…」
「大丈夫よ、私は家族みたいに一緒にいただけで、家族じゃないってことは分かってるつもりだから」
「渓…」

そう言いながら笑う渓に、何か言葉をかけてやらないと、と白子は思うのだが、上手な言葉が見当たらない。

「白子にはたくさん負担かけちゃうことになると思うけど、私に出来ることは何でも云ってね」
「…渓にはいつも助けられてるよ」
「そんなことないよ。だって白子、夜な夜などこかに鳥飛ばしてるよね?まだオロチについて一人で調べたりしてるんでしょ?私はそんなこと出来ないし…」
「……え?」

白子が乾いた声を上げた。渓はそんな白子の様子を、きょとんとして見上げるばかりだ。

「…白子?どうかした?」
「…渓、それ、いつ見たんだ?」
「いつって…」


―――いつ見たのだろう。


「……あれ?」

渓は首をかしげる。白子が夜な夜な、誰にも知られず鳥を飛ばしているところを、白子の目線から見ていたことだけは、確かに記憶に存在しているのに、いつ見たか、どうやって見たのかを、渓はまったく記憶していなかったのだ。

あぁ、まただ。またこんなこと。
渓はくらりとする頭を軽く押さえて、震える唇でなんとか笑って見せた。

「あ…あはは……いつ、見たんだろう」
「…」
「…おかしいよね、こんなの。自分でも、変だなって…思ってるんだけど……でも最近こんなのばっかりで…疲れてるのかな」

頭を押さえる手も、僅かに震えた。

「…ごめんね、変なこと云って…忘れて」

何も言葉を発せないでいる白子の傍にいるのがつらくて、渓はその場を去ろうとした。しかしそれは叶わず、あっさりと引き寄せられて、ぎゅうっと強く抱きしめられた。それが白子の腕の中だということは、少ししてから理解した。

「……え、え?し、白子?」
「渓、よく聞いて」
「う、うん」

耳元で、真剣な声で白子は言った。息のかかるくらいの距離に、渓の胸は不謹慎ながらも少し動きを早めた。

「天火には黙ってて欲しいって云われてたんだけど…渓だってもう自分の変化には気付いてるんだろ?」
「……この、何かが見えてしまう、こと?」
「そう」
「……うん」

震える声で答えて、腕の中で小さく頷けば、白子は続けた。その声は、優しい声だったが、悲しげで、なにか含みのある声だった。

「天火は渓を想って、渓の中で目覚めつつある力のことを、渓には話さなかった」
「力って……この、見えてしまうことが、そうなの?」
「ああ。ただ、詳しくは俺もよく知らない。渓に教えてやれることがないんだ。でも、渓が知りたいと思うなら、唯一手がかりがある」
「…手がかり?」
「渓の家……そうだな、多分、両親か祖父母が隠しているはずだ。それを探すしかない」
「…それを見つければ、何かあるの?」
「少なくとも、渓はその力に悩まされることはないだろ?見えないはずのものが見えるなんて、普通ならありえない」
「…うん、そうだよね…」

まるで人ではないかのようなありえない力のせいで、今自分はこんなにも苦しんでいる。その原因が分かるのであれば、少なくとも今よりはこの不思議な能力と上手く付き合っていけるかもしれない。渓は白子の腕に抱きしめられたまま、決意を持った声で答えた。

「…私、つらくなるのが嫌で、おじいちゃんの遺品の整理だけほとんどしてないの。もしかしたら、そこに何かあるかな?」
「かもしれないな」
「…頑張って、探してみる」
「あぁ、それがいい」
「…」

ふと、渓は違和感を覚えた。なぜ白子は、このことを自分に伝えたのだろう。天火と共に、ずっと隠してきたのではないのだろうか。


―――そう、探せばいいのよ。お前はそれで救われるのだから。


喉元まで出掛かった言葉は、自分の中の知らない誰かが静かに納めていった。頭の中に直接聞こえた女の声は、白子には聞こえていないようだった。

「…ねぇ、白子」
「ん?」
「…その、私の力のことを知ったら、私は……」
「…」
「…ううん、なんでもない。頑張って探すね」

渓は白子の胸を押すようにして、その腕の中から逃れると、にっこりと笑って白子を見上げた。渓の目に映った白子の表情は、一瞬だけとてもからっぽだったのだが、すぐにいつもの柔らかな笑みを見せていた。目の前にいるのは白子で違いないのに、なんだか違う誰かがいるような気がして、渓は僅かに怖くなった。

「……ねぇ、白子」
「ん?」
「白子は、いなくなったりしないよね?」

訝しげに白子を見上げる渓の顔を見て、白子はふっと笑うと、優しく小さな頭を撫でた。それはいつもの白子の表情で、渓は安心したように胸をなでおろす。

「俺はずっと、渓の傍にいるよ」
「…うん、ならいいの」

渓は軽く深呼吸をすると、いつも通りの白子の紫色の瞳を真っ直ぐに射抜いた。黒く深い瞳に射抜かれた白子は、動けなくなってその瞳をただ見つめ返すばかりだ。

「…白子」
「…ん?」
「私、白子のこと信じてる」
「…え」
「ずっと傍にいるって、白子の言葉、信じてるからね」

それは、これ以上大切なものを失いたくない、という渓の気持ちを表す言葉だった。両親、祖父母、天火。渓は大切なものを失いすぎたのだ。これで白子までいなくなってしまったら、間違いなく渓の心は壊れてしまう。

「だからね、白子にも信じてほしいの」
「何を?」
「私もずっと、白子の傍にいるって。つらいときも悲しいときも、嬉しいときだってずっと、私白子の傍にいるから。約束する」

まるで愛の告白のようなセリフに、白子は目を丸くする。当然、渓にはそんなつもりなど微塵もないということはわかっていたが、想像以上の大胆なセリフには驚かざるを得ない。

「ね!」

そう言って、迷いなく笑った渓の顔を見て、白子の心がズキンと痛んだ。それを上手くはぐらかして、白子もなんとか笑って見せる。渓を利用しようとしているなんて、彼には言えるはずもなかった。

「…あ、そうだ渓。早速渓を頼りたいんだけど、いいか?」
「なに?」
「雨の中で申し訳ないんだけど、買い物してきてよ。空丸だっていつ帰ってくるかも分からないし」
「なんだ、そんなこと」

渓は、笑う。白子を信じると言った渓は、もう何があっても白子を疑うことはないのだろう。

「分かった、任せて」
「気をつけてな」
「うん、行ってきます」

赤い傘を差して、渓は玄関を出ると、階段を下りて行ってしまった。その背中が見えなくなると、白子はずるずると柱を伝ってしゃがみこむ。くしゃりと髪を掻き揚げながら眉を寄せて、泣きそうな顔で自傷気味に笑った。


『私、白子のこと信じてる』


その言葉が、白子の心に重く圧し掛かった。ずっと傍になんていられるはずもないのに、渓は迷いなくその言葉を信じると言ったのだ。渓自身に目覚めた力を調べさせようとしているのも、これからせわしなくなる自身の手を煩わせないためで、渓という最後の生き残りを利用するためだというのに。

渓の言葉と笑い顔が、くっきりと白子の脳裏に焼きついた。渓という存在が失われるのも、もう時間の問題だ。出来ればそうなって欲しくはなかった。どうせなら渓の力が目覚めないままで、結果的に彼女を悲しませることになってしまっても、それが一番いい終わり方だったのに。

白子は雨を降らせ続ける空を仰ぐ。そして心の中で、誰にも知られずに呟いた。


渓、出来れば俺を、許さないでくれ。


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