体の痛みを忘れることは出来ても、心の痛みを忘れることは容易ではない。ならば心を売ってしまえ、深い深い闇の底に。そしてお前の体を、私に。


十二、太陽が消える


翌朝、目覚めた渓は妙な気だるさを覚えていた。昨日雨に濡れたせいだろうか、とぼんやり思いながらのろのろと体を起こす。熱っぽさは特にないが、軽いめまいにくらくらとして、思わず顔をしかめながら頭を押さえた。連日、精神的な疲労が重なっているのだろうと思い、渓は何度か深呼吸をする。大丈夫、と言い聞かせれば、体のだるさは消えていった。病は気から、なんてよく言ったものだと思いながら立ち上がり、顔を洗った。

いつものように着替えて、髪を半分上げて団子にする。だるさはもうなくなっていたが、心配性の兄弟たちに顔色の悪いところを見られたら、それだけで彼らの負担になってしまう。最近はそんなことばかりを考えてるような気がしながら、渓は小さな鏡を取り出して、自分の顔を映す。

そこには、金色の目をした自分が映っていた。
人のものではないような色をしたそれは、まるで蛇のように鋭く、射抜いただけで人を殺めてしまえるような―――。

「……え?」

渓は何度かパチパチと瞬きをする。すると、鏡に映る自分の姿は、いつもとなんら変わりがない。くりくりと大きな黒い目も、いつも通り真っ黒だ。

やはり、疲れているのだろうか。

今日は素直に疲れているといって、神社のことは手伝わず、のんびりさせてもらった方がいいのかもしれない。そんなことを思いながら、渓はそっと鏡を伏せた。もやもやとした不安はあったのだが、気にしてしまえばその分気持ちが重くなってしまう。もう一度、病は気から、と言い聞かせて、雨振る町へと出て行った。



渓は曇家に着いた途端、盛大に溜め息を吐いた。昨日雨に濡れたせいで、天火が熱を出して寝込んでしまったのだ。そんな天火を心配するあまり、宙太郎はしっかりするっス、と騒ぎながら泣きついていて、空丸はそんな宙太郎を天火から引き離そうと必死で、肝心の天火の看病にまで手が回っていない。

ゆっくりなんてしていられないな、と渓は苦笑いで天火の傍に腰掛けると、早速袖を縛って手ぬぐいを冷水で冷やし、天火の顔に浮かぶ汗を拭ってやった。宙太郎がうるさすぎて渓がいたことにも気付かなかった天火だったが、ようやく渓の姿を確認して、荒い息で名前を呼んだ。

「渓…来てたのか…」
「わ!?渓さん!来てたんですか!」

空丸もようやく渓の姿に気がついたらしく、こんな状況を見せてしまってすみません、と宙太郎を押さえつけながら騒がしく謝罪した。汗を拭ってから、再度冷やした手ぬぐいを天火の額に乗せてやれば、天火は心地良さそうに目を閉じる。渓は天火の頬に触れながら心配そうに顔をのぞきこんだ。

「大丈夫?食欲はある?」
「ううう…渓〜…」
「あんな格好でずっと雨に打たれるからよ」

渓の膝に抱きつきながら甘える天火の頭を、渓は優しく撫でてやる。渓の手つきが心地よいらしい天火は、すっかり大人しくなってしまった。そんなある意味情けない兄の姿に呆れたように溜め息をつきながら、空丸はやれやれと言葉を吐き出した。

「渓さんの云う通りだ。馬鹿でも風邪ひくって分かって良かったな」
「うう…そうだな。これは弟を想う兄の、美しい愛の成れの果てな訳で…」

ふざけているのか真面目なのか、相変わらずいまいち分からない口ぶりで天火が言うと、空丸は答えることなく寝込んでいる兄を足蹴にする。風邪をひいたって容赦のない空丸の態度に、渓も困ったように笑うばかりだ。そんな空丸の態度にショックを受けた天火は、渓の膝に抱きついたまま、頭からすっぽりと布団を被ってしくしくと泣き始めてしまった。当然、天火の気持ちで自身の心も一喜一憂してしまう宙太郎も、同じように悲しみ始めてしまう。

目の前の状況に、どうしたものかと渓が眉を下げて溜め息をついていると、そこに白子と太田先生がやってきた。天火の病状を聞きつけた先生が、雨の中わざわざやって来てくれたらしい。白子は渓の姿を見つけると、にっこりと笑った。

「渓、来てたんだ」
「うん、今来たところなんだけど…」
「…大変そうだな」

渓の膝ごと布団に埋めて、昔の可愛かった空丸は、と嘆きながらしくしくと泣き続ける天火と、その天火の傍らで、天兄が苦しんでいるからオイラも苦しむ、と物騒なことを言いながら今にも首をつり始めてしまいそうな宙太郎。その二人に挟まれるような形でいた渓は、白子を見ながら困ったように笑うばかりだ。天火の様子を見にわざわざやってきた先生も、完全に目の前に光景に言葉を失っている。そんな先生を気にする様子もなく、空丸はいつものように挨拶をしながら、部屋に招き入れた。そして白子と渓を見ながら、空丸は申し訳なさそうに言った。

「白子さん、渓さん。後、宜しくお願いします」
「何処か出掛けるのか?」
「夕飯の買い物に。鍋にお粥作っておいたので、薬の前に食べさせて下さい」

そう言いながら買い物の準備を始めた空丸に、白子は嬉々として尋ねる。

「味付け俺が足しても…」
「絶対駄目です止めて下さい」
「大丈夫よ空丸、私がちゃんと見とくから」
「はい、よろしくお願いします」

白子に味付けなどさせたら、食べ物ではなく殺人兵器ばりの何かが出来上がってしまう。渓もそれだけは避けたかった。空丸は、嫌がる宙太郎を無理やり引き連れて買い物に出掛け、ようやく曇家に静寂が戻ったところで、天火を普通に寝かせてやる。顔も赤く、どんどん吹き出る汗を拭いながら、渓は眉間にしわを寄せて苦しそうな呼吸をくり返す天火を、心配そうに見つめた。いくら雨に濡れたからとはいえ、ここまで苦しむ天火の姿を見たのは、渓が記憶している限りこれが初めてだった。十一年前、空丸を庇って背中に傷を負ったときも、傷が治ればいつものように笑っていたし、それ以来大きな怪我も病気も、今までなかったのだ。

「相変わらず賑やかじゃな」

先生は渓と反対側に腰を下ろすと、薬を調合し始めた。その様子を見ながら、白子は空丸と宙太郎のことを思う。

「相変わらず…そうだといいけど…」

ぽそりと呟いた声は、誰にも聞こえなかったが、渓はいつもと少し違う雰囲気を漂わせる白子に気付いていた。すべてを見透かすような黒い瞳を真っ直ぐ白子に向けていると、その視線に気付いた白子は誤魔化すように笑ってみせた。

そんなとき、すっと障子が開いて現れたのは、宙太郎が通う小学校の担任、牡丹だ。渓も軽く挨拶程度は交わしたことがあったので、見知った仲ではある。しかしそんな牡丹の登場に、視線を鋭くさせたのは白子だった。

「お前……」
「俺が呼んだんだ、入ってくれ」

天火が言えば、白子は何も言わなかったが、ただ冷たい視線で牡丹を睨みつける。この二人の間に何があったのかなど当然渓は知らなくて、物々しい空気に思わず身を硬くした。そんな空気などお構いなしに天火は上体を持ち上げると、渓、白子、牡丹の三人を真っ直ぐに見据えた。

「太田先生は知ってんだ。三人に聞いて欲しい事がある」

体は非常に辛そうなのだが、あまりに真面目な口調で天火が言うものだから、三人はじっと天火を見つめることしか出来ない。

「しら―――、ゲホッ、ゲホッ」
「天火!」

言いかけた天火が、苦しそうに咳き込み始めた。傍にいた渓は、抱えるようにその体を支えてやる。白子も近付いてきて、険しい表情で言った。

「天火、とりあえず先に薬を―――…」

言いながら水を用意しようとした白子の腕を、天火はがっしりと掴んで止める。白子が思わず天火の顔を見ると、天火は息を荒げたまま、なんとも言えない表情で白子の顔を見返した。そして、信じられないような言葉を落としたのだ。


「俺、もうすぐ死ぬんだわ」

「―――え」


空気が凍りつく、というのは、こういうことを言うのだろう。当然、固まってしまったのは白子だけではない。渓も、牡丹も、天火を見つめたまま声も発せずに、ただ苦しむその顔を見つめることしか出来ないでいた。

天火は着ていた浴衣を着崩して、自分のはだけた胸元を露にする。するとそこには、まるで鱗のような、蛇の皮のようなものが、天火の皮膚の上に広がっているのが見えた。白子は愕然としていて、牡丹も顔を青くして口元に手を添えている。渓は、天火の身に何が起こっているのかも分からずに呆然とするばかりだ。天火はそんな渓を見て、苦痛の表情を浮かべたままふっと笑いかけると、小さな頭にそっと手のひらを乗せた。

「……渓は、知らないもんな」
「な、にを」

口の中がカラカラに乾いて、上手く言葉が出ない。渓がただ天火の顔を見つめていると、天火はそっと口を開いた。

「―――此処はオロチの社、空が濁り、災いが起こる呪いの地」

古々、古代より生まれし大蛇は、妖かものの怪か。三百年に一度この地に蘇り、人の器に宿る、呪大蛇。貪欲、強欲、傲慢、生きとし生けるものを喰らい、地を焼き海を干す、滅びの蛇。心せよ、大蛇は人の敵にて害。見つけ次第狩り、封ずるべし。

「……つまり、天火がその、大蛇の器、ってこと……?」

乾く唇で、どうにか渓が声に出しても、天火は困ったように笑うばかりで何も言わない。それが、肯定を示す意味であることは、渓の鈍感な頭でも、嫌になるほど理解出来た。

「…ただ、俺の場合は人体実験の賜物だけどな」
「…人体実験?」

聞きなれない言葉に眉をひそめたのは白子だ。天火は黙っていて悪かったと先に述べ、自分が人体実験の実験体になった経緯を話し始めた。

十一年前、天火は空丸を庇った際に背中に傷を負ったのだが、そのせいで天火は生死の境を彷徨った。その際、政府の隠密化学部が開発していた"大蛇の細胞"を使った薬を投与され、辛うじて一命を取り留めたのだ。代々、大蛇の器になるのは大蛇と敵対している家系の人間なので、曇家の人間である天火の体に、薬は驚く程よく馴染んだらしい。

一命を取り留めたのは良かったものの、天火の左半身には麻痺が残ってしまった。その左半身を動かすために、天火はその後も薬の投与を続け、実験体であり続けた。左半身は動くようになり、人とは思えないような化け物じみた力さえ手にした。

しかし、薬といっても毒は毒。長年に渡る人体実験のせいで、天火の体は大蛇の毒に蝕まれ、その体は大蛇に喰われ始めていたのだ。天火が薬という名の毒を投与され続けながらも自由に生かしてもらえていたのは、天火の体が限界に近付いたら、大蛇として天火を殺し、死体となったその体を解剖する、という前提があってこそ。そして、天火の体はもう限界に近付いていた。

「抗体も弱まってきたみたいだ、相当侵食されてる。先生が処方してくれた薬も、もう効かねぇ」

太田先生も、隠密化学部の一員として、ずっと天火を見ていたのだという。天火が二日酔いだのなんだのと理由をつけて先生から譲り受け、飲み続けていた薬は、天火の体を蝕む大蛇の細胞を、活性化させないための薬だった。

白子も牡丹も、そしてすべての真実を知った渓も、言葉を発せないでいた。しかし、耐えかねたように、天火に掴みかからんばかりの勢いで声を上げたのは白子だった。

「何故…いつから知ってたんだ。お前だって器探してただろ!?」

それは、天火が死ぬという事実を、いつから受け入れていたのだという問いかけだった。器を探していたのは政府から目を付けられないための偽装だ。ぎりぎりまで曇の務めを果たし、空丸達を護る為。白子は分かっていたが、それでも詰め寄らずにはいられなかった。

「ああ、お前には助けられてばっかだったな」
「過去形はやめろ!空丸達はどうするんだ。それに、渓だって――」
「それが最期の頼みだ」

渓の力が目覚め始めていることを白子が聞いたのは、昨日の話だった。それがたった一日で、渓に真実も告げず、空丸たちの未来ごと白子に丸投げにしたまま、天火は逝こうとしている。白子はぎりっと奥歯を噛み、拳を強く握り締め、吐き出すように言った。

「ふざけるな」

立ち上がって今にも出て行ってしまいそうな白子に、渓は声も掛けられない。突然、大蛇がどうだの器がどうだのと言われたところで、すべてを受け入れるだけの余裕は当然ない。それに、そんなことより、天火が死んでしまう、という事実の方が、渓にとってはよっぽど重要だった。

「―――天火様、彼は忍です。命じれば従います。最期くらい、曇の忍らしくさせてやれば宜しいのでは」

冷静な牡丹の声がやけに響いた。しかし、その声はなんとか冷静さを保とうとしているようにも感じられる。牡丹の言葉を聞い天火は、一度大きく息を吸って、それからいつものように、それでいて切実な声で言った。

「…白子、悪い」
「…」
「頼む」

命令はしなかった。ただ、いつも通り頼んで、困ったように笑ってみせた。白子はきゅっと唇を噛みながら、握り締めた拳をまぶたに宛がって天を仰ぐ。その姿は、泣いているようにも、何かを堪えるようにも見えた。

「―――お前は、我儘すぎる」
「…悪い……」

白子は細く長い息を吐く。どこまでも人を振り回す男だと、心の底で思いながら。

「…もうすぐ警察が迎えに来る。表向きは獄門処の爆破で死刑ってことになるらしい」
「…いや」

ポツリと呟いたのは渓だった。天火は渓の顔を見て息を呑む。静かに涙を流しながら、虚ろなままで深い黒だけが包み込む虚空の瞳には、天火だけが静かに映りこんでいる。

「…また、みんな私を置いていくの?」
「渓…」
「どうして、ひとりぼっちにするの?」

呟く言葉に、まるで心はない。渓は瞼を伏せる。悲しい、寂しい、虚しい、あぁまるで、からっぽだ。

「どうして天火が死ななきゃならないの?天火は何も悪くないのに……あぁ、そうか、大蛇の器が必要なのね?天火が生きるためには、本物の大蛇の器が」

渓であって渓でないような声は、恐ろしいほど耳馴染みがいい。すくめられたように、誰もが動けなくなった。空気が張り詰めて、指先も動かすことも出来ない。それはまるで、蛇に睨まれた蛙のようで―――。

渓は静かに、伏せた瞼をそっと開く。いつもは黒く美しい渓の瞳が、虚ろな金色に染まっていた。


「大蛇様を復活させるための器を―――」


渓が呟いた瞬間、天火は力一杯、その小さな体を抱きしめた。ハッとなった渓の瞳は、いつものように真っ黒で、何が起こったのか分からないまま、ただ目をぱちぱちと瞬かせている。抱きしめられている、と気付いたのは、それからだった。白子も牡丹も、渓の力の目覚めを、初めてその目に焼き付けてしまった。


大蛇目覚めしとき、蛇の信者、選ばれし者に、神の力を与えん

生まれ落ちるは、王か、姫か


天火とは相容れないお役目を背負ってしまった少女の力の目覚めに、牡丹は唇を噛み、白子は呆然とするばかりだ。渓は相変わらず状況がわからずに、目をぱちぱちとさせている。

「…え、天火…?私、今なにを…」
「ごめん」
「…え?」
「ごめんな渓」

まただ、と渓は思った。死を目前にしているというのに、それでもなお天火を悲しませている自分に、泣きたくなった。

「…何もしてやれなくて、ごめんな」
「い、やよ。待ってよ天火、私、天火が死ぬなんて…」
「悲しまなくていい。心を病むな」
「なんで…なんでそんなこと…!」
「お前はまだ、そっち側に行かないでくれ」

祈るような、縋るような声で囁いた天火に、ぎゅっと胸が詰まる。何も言えなくなったかわりに、渓はボロボロと泣きながら、天火の背中にしがみついた。

悲しむな、なんて、どうして。

そう思いながらも、渓は声が出ない。ただ惨めなくらいに泣き声を上げながら、大好きな、もう二度と触れなくなる兄の腕に、気を失うまで抱きしめられていた。


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