雨の音が聞こえる。
温もりに包まれたまま、彼女は腕の中に広がる悲しみを、受け止めきれずにいた。


十、安堵の涙


どのくらいそうしていたのだろう。ごめんと口にしたきり何も言わなくなってしまった天火の腕に収まったまま、渓は動けずにいた。腕の力は、それ以上強められることも緩められることもない。現状と自身の記憶に対しての混乱が消えないまま、ただ一つ確かに分かったことは、自分という存在が天火を苦しめてしまったということだけだった。

絶望に塗れた震える腕の温度も、凍りついたまま剥がれ落ちることのない悲しい顔も、ただ受け止めてやることしかできない。何も言えないままでそうしていた渓だったが、先に口を開いたのは天火だった。

「…渓、悪いけど、迎えに行ってやってくれ」
「え…」
「あいつら、傘持ってってねぇだろ」

腕の力を徐々に緩めた天火は、ようやく渓を解放する。しかし渓の目を見ようとはしなかった。できるだけ平常を演じているのだろうが、声がいつもよりずっと暗いことくらい渓にだって分かる。

「でも、そんなことしたら天火が一人に…」
「俺のことはいいから」
「でも」
「いいから」

ようやく天火は顔を上げる。笑ってみせたつもりだろうが、その笑顔は寂しげで、悲しみだけを伝えている。渓は口を開きかけたが、言葉を発することなくそれは静かに閉じられていく。天火は渓の頬に優しく触れる。愛でるような、労わるような、そんな手つきだった。

「雨の中、面倒頼んで悪い」
「…」
「行ってくれ渓」
「…」
「…行って」

渓は天火の顔をじっと見つめる。今は一人になりたいと、そう訴えていることが分かってしまって、渓は悲しげに顔を歪めた。揺らいだ目を僅かに伏せて立ち上がると、渓は傘を手にして、天火を振り返ることなくぽつりと零した。

「…ごめんね天火」

悲しませて、ごめんなさい。

天火を悲しませてしまった理由など、当然渓は思い当たる節がない。それでもそう伝えられずにはいられなかった。

渓は赤い傘を広げ、黒い傘を二つ手にとって家を出ると、今にも泣きそうな顔で駆けて行ってしまった。そんな小さな後姿を目で追った後、天火は着替えることなく真っ先に自室に向かった。空丸たちの目に触れないように隠しておいた書物を漁り、ある一族に関してのものだけを探す。

「…殺してたまるかよ」

例え血は繋がっていなくとも、生まれたときから知っている、可愛くて愛しい大切な妹なのだ。皮肉なことに、渓という存在が自分とは相反する立場にあっただけだ。それでも守ると決めて生きてきた。今になって失うなど、考えるだけでもぞっとする。両親も祖父母も失い、一族はもはや渓を残して他にはいない。たった一人残されてしまった彼女に背負わせるには、運命は悲しく重過ぎる。

元々絶対数の少ない一族だったので、記述もほとんど残されていなかった。こうなることならもっと早くに、渓を救う方法も探しておけばよかったと悔やんでみるが、今更悔いたところで現状は変えられない。天火は残された時間が少ないことを知っていたが、それでも渓の為に動かずにはいられなかった。



ある程度神社から離れたところまで来ると、渓は走ることをやめてトボトボと歩き始める。自分が存在するせいで悲しい顔をさせてしまう、ということに対してのトラウマが深い渓にとって、天火を悲しませてしまったことはかなりの心のダメージである。

理由など思い浮かばない中、唯一普段と違うのは、なぜか「事実」が見えてしまうということ。これが果たして天火を悲しませる理由になるのかは分からなかったが、これ以外に心当たりがない。自分は一体どうしてしまったのだろうと考えてみるが、答えなど出るはずもなかった。

そうして心当たりを探しながら歩いている時だった。突然凄まじい轟音が鳴り響いて、渓はハッと顔を上げる。少し遠くからもくもくと煙が上がり、背筋がぞっとした。

まさか

そこからは、もう考えている暇などなかった。必死に駆け出して琵琶湖にたどり着いた渓は、目の前にそびえ立つ獄門処を見つめた。獄門処からは煙が上がっていて、遠くからでも僅かに騒ぎの音が聞こえる。頭が追いつかないまま持っていた傘を落としてその場にへたり込んだ渓は、呆然と目の前の光景を見つめているばかりだ。

「そらまる……しらす……」

名前を零して、彼らの顔を思い浮かべた瞬間だった。突然目の前に浮かんできたのは、狐の面を被った風魔の男で、彼が殴り飛ばされた景色が見える。そしてはっきりと、空丸の声が聞こえた。

『俺はお前を絶対に許さない』
『俺には護りたいものが山程ある』
『復讐なんかで失ってたまるか』
『曇空丸』
『一生覚えてろ』

その景色が鮮明に見えた後、渓の視界は煙の上がる獄門処を映し出す。

「…………え?」

何を、見たのだろう。
雨に打たれているせいか、妙にめまいがする。しかしなぜか倒れこむことも意識を失うこともできないまま、ただただ放心状態で不気味な琵琶湖の前に座り込んでいた。



 ● ●



「ったくほんとに潜入してたのかよ、無茶するな」

船の上で、犲の武田は呆れたように言った。彼は先日勝手に軍を動かしたこともあって現在謹慎中なのだが、その謹慎ついでに獄門処の視察を指示されてやって来ていた。そして彼が乗る船を動かしているのは、獄門処に潜入していた空丸だ。

「お前の先輩が云い出したんじゃねぇか」

空丸は答える。今回獄門処の偵察に行っていたのは、渓が言っていた通り、犲の屍千狼に獄門処の『ある物』について調べてこいと言われたからだった。空丸は、細腕でも一発で嘉神を伸した蒼世に習えば強くなれるのではと思い、わざわざ京都まで剣を教えてくれと請いに行ったのだが、「犲にとっての利益を持ってこなければ話にならない」とあっさり門前払いを食らった。それでもどうにかしたいと空丸が思っていたとき、そこを狙って千狼がこの話を持ってきたのだ。

「で、収穫はあったのか?」
「まぁな」

ニッと笑いながら武田の問いに答えた空丸は、獄門処の『ある物』を調べることに成功していた。その『ある物』とは芥子で、渓が見た狐の面の男がそれを集めているということだ。これで剣を教えてもらうことが出来る、と空丸は自分自身が前進したことを噛み締めた。

なんてことない会話をしながら船が陸にたどり着いたとき、空丸の視界に人影が見えた。それは傘も差さずに座り込み、呆然と獄門処を見つめている。空丸は一瞬警戒して眉をひそめたものの、すぐにその人物の正体に気付いて声を荒げた。

「渓さん!?」
「!」

空丸の声に真っ先に反応したのは、渓本人ではなく白子だった。渓は空丸に名前を呼ばれたにも関わらず、ピクリとも動かない。空丸は宙太郎に船の固定を一任すると、慌てて渓の元に駆け寄り放心状態の肩を揺らした。

「渓さん!」
「!」

ようやく意識が戻った渓は、驚いたように目をぱちくりとさせて空丸を見つめている。小さな体はすっかり雨に濡れて冷え切っていた。

「そらまる…」
「何してるんですかこんなところで!体こんなに冷え切って…」
「…まるの…」
「え?」
「空丸の馬鹿!!」
「のわっ!?」

いきなり怒ったかと思うと、渓は迷うことなく空丸に抱きついた。空丸は突然の抱擁に動揺し体制を崩すものの、なんとか持ちこたえる。

「ちょ、渓さん…」
「どれだけ心配したと思ってるのよ!」

胸に顔をうずめたままで珍しく張り上げられた声は震えていて、泣いているということを理解するのは容易かった。空丸は何も言えなくなって、胸の中で泣き続けている小さな背中に優しく手を乗せる。

「すみません心配かけて」
「無茶しないでって云ったでしょ…!」
「…すみません」

謝る以外に何も出来ない空丸が動けずにいると、すっと影が差した。見上げれば傘を広げて困ったように笑う白子が立っていた。空丸を救出するために潜入する際、いつもの忍装束でも小袖姿でもなく警官に変装していたため、警官の制服を着ている。白子はゆっくりとしゃがみこむと、濡れた渓の頭を優しく撫でながら言った。

「ごめんな渓、心配かけて」
「…」
「傘持って来てくれたんだろ、ありがとう」
「…白子」

ようやく顔を上げた渓は、真っ赤になった目で白子の顔を見つめる。

「でも渓が濡れてちゃ元も子もないな」
「…だって、いきなり爆発して、びっくりして…」
「あー、なるほど…」

爆発は混乱のために白子があえて行ったことなのだが、そんなこととは知らない渓がその爆発を目撃してしまい、あまりの衝撃に思考が停止してしまったのだ。まさか自分のせいだとは、と思いながら、白子はばつが悪そうに指先で頬を掻くと、ははっと誤魔化すように笑った。

「とりあえず、風邪ひくから帰ろう。天火も心配してるだろうから」
「……うん」

渓はようやく空丸から体を離すと、白子の手を借りて立ち上がった。空丸も気まずそうに立ち上がって渓の持ってきた傘を受け取ると、渓を白子に任せてその光景を見ていた武田の元へ歩み寄る。するとなぜか不機嫌そうに空丸を睨みつける武田がいて、訳が分からないと空丸が首をかしげた。どうやら武田は空丸に妬いているようなのだか、当然空丸はそんなことには気付かない。

そんな二人があれやこれやと言い合いながら先頭を行き、その後ろを宙太郎、もう少し後ろを白子と渓が歩く。白子は自分の傘に渓を入れ、冷え切った細い肩に着ていた上着をかけてやった。小柄な体には不釣合いなそれは、すっぽりと渓の体を包み込んでいる。

渓の小さな手を握れば、その手は驚くほど冷え切っていて、僅かに震えていた。どれくらい雨に打たれていたのかは知らないが、早く風呂にいれてやらないとな、と思いながら、白子は握り締める手に少しだけ力を込めて、俯いたままの渓を見つめるのだった。



そして雨の中、無事に神社に帰って来た渓たちは、神社の前に佇む天火の姿を発見する。心配して、結局表で待っていたのだ。その姿をはっきりと確認するよりも早く、渓の頭を抱きかかえるようにして白子はその視界を塞いだ。渓は訳が分からずに、塞がれた視界の下できょとんとしている。

「どうしたの白子?」
「渓は見ない方がいい」
「?」

状況が読み込めない渓は、よく分からないと言いたげだったが、素直に白子に従った。なぜ白子が渓の視界を塞いだのかというと、それは天火の格好のせいである。

鳥居の真下に立つ天火は、白子がここへ来る前に見たのと同じように、完全に陰茎が丸見えの状態で腕を組んで仁王立ちしていたのだ。渓に悪影響を及ぼさないようにきちんと着させたはずなのだが、なぜかこうなってしまっていることに、白子は苦笑いで溜め息を吐く。

そんな兄の姿を見て、空丸も完全に固まってしまっていた。神社へ向かう道中に、武田に「悪い奴じゃない、人として外れたことは絶対にしない」と、一生懸命兄のことを説明した矢先のことだったからである。当然、説明を受けていた武田も、天火の姿を見て表情を歪ませて固まってしまった。

天火は帰って来た空丸の姿を見つけると、それは鬼のような恐ろしい形相で、唸るような声を上げた。

「そ〜〜ら〜〜ま〜〜る〜〜」
「は?ちょ、待…え」

天火は陰茎が丸見えなのも気にすることなく、階段をペタペタと裸足で下りながら空丸に近付いていくと、その胸倉をがしっと勢いよく掴んだ。

「言い訳無用!!!」

たった一言、それだけを告げると、後に凄まじい打撃の音が辺りに響き渡る。渓はその音だけを耳にしながら、視界を覆われた向こう側の惨状をなんとなく想像して、白子が視界を塞いでくれて良かった、と心から思うのだった。

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