『獄門処の噂?』
『獄門処に入る科人はある物を持って来るべし』
『剣を教えてください!!!』
『対価は?』
『どんなコトでも出来るカ?』
『―――…はい』


九、目覚めし力


翌朝、雨の音で目が覚めた。
目が開くより先に意識が浮上して、朝特有の薄明かりを感じながらゆっくりと目を開ける。肌寒いのは相も変わらず寝間着が乱れているからだ。それを整えながらのろのろと起き上がると、軽いめまいがした。雨のせいで偏頭痛でも起こしているのか、それとも風邪でもひいてしまったのか。いずれにしろこのまま寝転がっているわけにもいかず、渓はゆるりと立ち上がった。

顔を洗って着替えた後、仏壇に手を合わせる。両親が亡くなった十五年前から、毎日続けている日課だ。白子の腕の中で泣いた夜に少しは気持ちが楽になったものの、それでもまだ後を引く。寂しげに伏せられた渓の瞳は珍しく影を帯びているが、一人になればこうなるのもまたいつもの通りだ。きっと曇神社に住む者でさえ誰も知らない渓のこの表情は、ただ仏壇にだけ向けられている。

顔を上げた渓は、並ぶ四つの位牌をぼんやりと眺めた。孤独という言葉が唐突に浮かんで、消えることなく心の奥で揺れ動く。ふうっと吐き出された息は、溜め息と呼ぶには不相応だったが、それでも気にかけてくれるような人間も、温かさも、もうこの家にはない。

渓は立ち上がるといつものように髪を半分だけ上げて団子を作り、母の形見の簪を差す。赤い丸簪には金箔が散らされていて、簡素ながらも華やかだ。鏡の前で確認すると、いつになく表情の優れない自分の顔があって、簪の方が目立って見えるから不思議なものだ。心配をかけないようにしないとな、と思いながら、渓は何度か深呼吸をして家を出た。


赤い傘が揺れる。
曇家に向かう階段を上りながら、渓は収まりきらないめまいに違和感を感じていた。気だるい体は風邪のときの症状によく似ている気がするが、それもなんだか違うように思える。やはり疲れているのかもしれない。風邪だと思われてしまったら、渓は強制的に曇家で面倒を見られることになる。そうなると申し訳が立たない。出来るだけ元気に振舞おうと、いつもより背筋を伸ばして歩くことにした。

階段を上りきると、珍しく納屋の方が騒がしい。渓はそろりと納屋の方へ向かうと、そこには「違う違う」と言いながら焦った様子の宙太郎と、傘を差す白子の姿があった。

「何が違うんだ。何処でそんな汚いの拾って来たの、元の場所に戻しておいで」
「え、餌はちゃんとやってるんスよ…!」
「あれ?そいつ、昨日渡した罪人に似てないか?」
「そ、そうっスか!?ぜぜぜぜ全ッ然似てないっスよよ!」

そんな会話を耳にしながら、声をかけようと渓が近付いたときだった。

「別に空兄がこいつの代わりに獄門処に潜入しに行ったとかじゃないっス全然!そう!!全然!!!」
「えっ」
「えっ」

とんでもない宙太郎の発言に、白子の声と渓の声が重なる。渓の声に反応した白子が振り向くと、渓が信じられないという顔でその場に立っていた。そしてその更に後ろには、傘も差さずに半裸で立っている天火の姿があった。天火がポツリと呟く。

「空丸が…」
「天兄っ」
「起きたのか」

天火の姿に喜ぶ宙太郎とは裏腹に、白子の声は重々しい。渓も天火を振り返ったものの、その目が天火を写すことはなく、後ろから白子に目隠しをされた。半裸の天火は陰茎が丸見えで、年頃な上に男を知らない渓には到底見せられるものではない。白子は渓の耳元で少しの間目を瞑っておくよう言うと、なんとなく雰囲気でよくないことを感じ取ったのか、渓は大人しく従った。

天火はそんな様子には目もくれずに踵を返すと、早々に立ち去ろうとするが、白子が追いかけて天火を止める。渓は目を瞑っているため、どういう状況なのかいまいちよく分かっていなかったが、ただただ良くないということだけは理解できた。

「病み上がりで何処に行く」
「なぁにがだ、人を病人扱いすんなよな」
「昨日派手に倒れといてよく云うよ」

昨日、めまいもあったために帰宅後は早々に眠ってしまった。そのため今行われている会話が渓のいない間に起こった出来事なのであろうことは予測がついたが、渓は目を閉じながら怪訝そうに顔をしかめる。天火が倒れたというのは、一体どういうことなのだろう。

「それについて聞きたいこともある。お前…知っていたな、自分の体のこと」

渓の胸の中で、どんどん不安が膨れていく。天火の体に一体何があったのだろう。

「帰ったら全部話す。今は空丸を連れ戻す方が先だ」
「なら、俺を使え」

渓の目には当然映っていないが、白子は傘を置いて天火の前に跪いた。降りしきる雨が、どんどん白子の体を濡らしていく。癖の強い白髪も身に纏う衣類もあっという間に雨で浸され、染みきらなかった水滴がぽたぽたと流れ落ちる。白子の行動を前にした天火は、不機嫌そうに眉を寄せた。

「何度も云わせんな、お前とは主従じゃねぇ」
「里が失くなろうと忍は忍、こういう生き方しか出来ない。お前は良くも悪くも目立つ。俺の力は知っているだろう、俺なら空丸を連れて帰れる」

淡々と言葉を並べる白子の様子を、天火は何も言わずにただ見下ろしたままだ。

「天火、命じてくれ」

跪いたまま、最後に白子がそう言葉を発すると、天火はどかっと白子の前に座り込んだ。驚いて白子が顔を上げると、そこには自分に頭を下げる天火の姿があった。

「頼むわ」

思いもよらない天火の行動に白子が固まっていると、天火は間髪居れずに続ける。

「風魔の忍にじゃねぇ、友人であるお前に頼みたい。空丸を助けてくれ、白子」

天火は頭を下げたままでそう言った。だからこいつはやりにくい、白子は心の中で呟くと、呆れたように笑った。

「頑固者め」
「性分だ、諦めろ!」

ようやく顔を上げた天火はニカっと笑っていて、一見素晴らしい光景なのだが、陰茎は相変わらず丸見えだ。白子はやれやれと肩をすくめる。

「せめて見苦しいものを仕舞ってから云ってほしいもんだがな」
「うおっ」
「渓にも悪影響だ」

白子は立ち上がると、渓の傍に歩み寄って、そっと声をかける。

「渓、もういいよ」
「…白子…」
「天火を頼むな」

話を聞く限り、白子が空丸を連れ戻しにいくということは理解出来た。目を開けた渓は心配そうに白子を見上げる。濡れた手で渓に触れるわけにもいかず、白子はせめて笑って見せた。踵を返し、振り返ることなく外へ向かうと、白子は忍の声で告げる。

「半時で戻る」

あっという間に見えなくなった背中を、残された三人は見送ると、ようやく浴衣を腰紐で押さえた天火が言った。

「宙太郎、罪人連れてお前も行け」
「オイラもっスか?」
「白子を渡してやらねぇと、獄門処行こうにも行けんだろ」

天火がそういうと、宙太郎は素直に従って罪人を連れてあっという間に出て行った。渓はそっと天火に近付いて、傘に入れてやる。天火が渓を見ると、渓の瞳は不安に満ちていた。

「…天火、中入っとこ。風邪ひいちゃう」
「…あぁ」

渓の声があんまり切なくて、天火はそれに従う。玄関に入ると、渓は傘を畳んでパタパタと風呂場に向かった。大きめの浴布を何枚か持って天火の元に駆け寄ると、濡れたまま玄関先で立ちすくむ天火に一枚手渡した。しかし受け取る気配もなく、天火はそこに立ちすくむばかりだ。

渓は仕方なく自分よりも大きなてのひらを引いて玄関先の廊下に座らせ、肩に一枚浴布をかけてから、たっぷりと湿気を含んだ黒く長い髪を拭いてやる。天火はなされるがままで、何も言わない。

「…天火、上だけ脱いで。体も濡れてるでしょ」

渓が静かにそう言うと、やはり天火は何も言わないまま、腰紐から下はそのままで、言われたとおりに上を脱ぐ。天火の背中の傷に渓は一瞬眉を顰めるが、何も言わずに天火の大きな背中を丁寧に拭いていく。この背中に守られているのは、空丸や宙太郎だけでなく、自分自身も含まれていることを、渓はちゃんと分かっていた。

「はい、出来た。新しい着物持って来るね。お風呂も入れてくるから、沸いたら体冷やさないようにちゃんと浸かっとくのよ」

渓は立ち上がると、天火の部屋から新しい着物を取り出して、再び風呂場に行って風呂を沸かす。玄関先に戻ると、天火はひたすら外を眺めていた。空丸のことがよっぽど心配らしい。渓は天火の前にしゃがみこんで、その顔をのぞきこむ。持ってきた着物を天火に手渡して笑いかければ、ようやく天火は視線を渓に移した。

「大丈夫よ天火、みんな揃ってすぐ帰って来てくれるから」
「…そうだな」
「そうよ。空丸は獄門処にちょっと偵察に行かされてるだけで、調査が終わればすぐにでも戻ってくるんだから」

心配をかけまいとそう言った渓だったが、急に天火の顔が凍りつく。渓をじっと見つめたまま、天火は動かなくなってしまった。

「…天火?」
「…偵、察?」
「そうよ、犲に云われて―――……あれ?」

言いかけて、渓は首をかしげる。空丸が居なくなったことさえ知らなかったのに、どうして自分はこんなことを知っているのだろう。それが嘘でも誤魔化しでもなく、紛れもない「事実」なのだということを、渓はなぜか知っている。渓自身訳がわからずに、思わずぽかんとして天火を見上げれば、天火は凍りつかせた表情をさらに険しいものにして渓を見つめていた。そしてほんの僅かに震える声で、確かめるように問いかける。

「…渓、お前、それ、いつから知ってた?」
「いつからって、云われても……」

―――分からない。

「…あ、れ?」

空丸が犲に言われて獄門処に潜入した。こんなにはっきりと、その風景までも鮮明に覚えているのに、どこで見たのか、誰に聞いたのかも、覚えがない。

「でも、あるものを調べて来いって、依頼されて……でも私、空丸が居なくなったこと、ついさっき、知って……」

渓は呆然と天火を見上げたまま頭を抱える。発する言葉の語尾はだんだん小さくなっていき、最終的にたどり着いた答えは、たった一つだった。

「…わからない…」

渓がそう零した瞬間、天火は渓を力いっぱい抱きしめた。天火に抱きしめられることはこれが初めてではないのだが、その腕の中が今までに一度も味わったことがないほど絶望に満ちていて、渓は混乱する。痛いくらいに力が込められた腕の中は苦しいにも関わらず、振りほどくことを躊躇わせる。なぜなら天火の腕が、ほんの僅かに、震えていたからだ。


―――嘘だ。


天火は心の中で呟いた。渓がこうなってしまう可能性は、百か零のどちらかだということを、天火はずっと昔から知っていた。そしてこうなってしまわないことを願って、渓にはずっと、彼女の正体を隠し続けていたのに。

まさか、目覚めてしまうなんて。

渓はこの力のことも、自分自身の正体も何も知らない。本来ならば十四を迎えたときに、祖父母からすべてを伝えられるはずだったのだが、それを伝えることなく祖父母が亡くなった。曇家の当主としてすべてを知る天火は、悩んだ挙句、あえて渓に伝えないことを決め、同じくすべてを知る白子にもそう約束させた。悲しい運命など知らないまま、ただ笑っていて欲しいという天火の一存だ。

けれど本当は、心のどこかでは、「伝えない」という選択肢を選ぶことで、渓の力が目覚めてしまうかもしれない、という可能性から目を背けていたのかもしれない。

天火の腕の中で大人しく抱きしめられているこの娘は、この世にただ一人残されたとある一族の末裔だ。いっそ彼女が選ばれなければ、この力が目覚めなければ、悲しい運命をこの小さな体一つで背負う必要もなかったというのに。

「…ごめん」
「…天火?どうしたの…?」
「ごめんな渓」


大蛇目覚めしとき、蛇の信者、選ばれし者に、神の力を与えん

生まれ落ちるは、王か、姫か


「俺は、俺達は、お前を」


―――殺さなきゃならない。


伝えられるはずもない言葉は、天火の喉の奥でかき消されたまま、渓には届かなかった。


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