あいしてるよ 後編
声が聞こえた。
あいしてるよ〜後編〜淀みは深く、暗い。
少しでも油断すれば、自分も淀みの一部にされてしまうんだと思った。それが怖くて、淀みの中を必死に泳いでいた。遠くで聞こえる声だけを頼りにして。
泳げば泳ぐ分だけ、その声が鮮明になる。
自分が進んでいるという確かな証。
声は自分を呼んでいた。
酷く懐かしい声だった。
早く会いたくて、早く触れたくて、泳ぎ疲れても泳ぎ続けた。そうすることしか出来なかったから。
何度も淀みに負けそうになりながらも、懸命に泳ぎ続けた結果、光が見えてきた。そのときに悟った、これを掴めばこの淀みから解放される。そしてその光の先に、自分を呼んでる人がいる。自分を待ってる人がいる。
(行かなきゃ)
何としてでも、何としてでもあの光を掴むんだ。惨めでも醜くても構わない、この淀みを抜けて、この声を見つけて、そして、あの人に、
―――ケイは、光を、掴んだ。
「ケイ!」
「ん…」
「ケイ!おい!ケイ!」
「………まぶし…」
少し目を開けると、光が世界を覆った。視界に映った色は、例えようがないほど眩い光。なんとか薄目を開けて、少しずつ光に慣れようとする。
その間も声はケイを呼んでいた。何度も何度も、ここにいることを確かめるように。
(聞こえてるってば…)
その声の主が誰であるかは、もう分かっていた。ゆっくりと景色が鮮明になって、光で覆われていた視界が晴れていく。目の前に映る鮮烈な赤を睨むと、ケイは擦れた声で呟いた。
「…レノ、うるさい」
「! ケイ!」
「…うるさくて寝れないわ」
「っ、ケイ!!!!」
「だからうるさい」
レノはケイに抱きつきたい衝動に駆られるが、ケイの体を思って必死で堪える。憎まれ口を叩くケイを見て、安堵の笑みを零す。
「…調子は、どうだ?」
「…レノがうるさかった」
「そりゃ悪かったぞ、と」
困ったように笑うレノを見て、ケイもつられて笑った。頭が少し覚醒してきたところで、ケイは周りを見渡す。
白く殺風景な部屋、一定に保たれる機械音、馴染みのない薬品の匂い、右手に感じる冷たい点滴。あぁ、今病院にいるんだ、と理解する。その視線を辿っていたレノはケイの頭の中を理解したのか、そっと唇を動かす。
「…神羅病院だそ、と。お前、2週間も眠ってた」
「…そんなに?」
「打たれたところから菌が入って、高熱出したまま昏睡状態。かなり危険な状態だった」
「…う、たれた?」
ゆっくりと記憶を辿る。欲しいのは淀みの中を漂っていたあの時より、もっと前の記憶。するとじんわりと脇腹と左肩が痛み出した。痛みに引き摺られるように出てきたのは、あの日のこと。
「あぁ……そっか…任務……」
失敗、したんだ。
もう何年ぶりだかわからない程久々な、ちゃんとした失敗。気分が落ち込みそうになる。
「任務のことは気にするな、俺が後でちゃんと全員殺ったし、今回は完全に上のミスらしいからな、と。ケイのせいじゃないし、タークスの責任でもないぞ、と」
「そっか…なら、安心」
ほっとしたのも束の間だった。刹那、あの日の映像が頭に流れ込んでくる。廃ビルの中、何人も人を殺し、打たれて、隠れて、そして死にかけた。あの時、もしもレノが来なかったら、自分は確実に死んでいた。
生々しい死への恐怖を思い出し、ケイは微かに震える。そんなケイに、レノは心配そうに声を掛けた。
「…ケイ?」
「……こわ、かった」
揺れる声で帰ってきた、返事。
「死ぬのが、怖かった」
ケイの瞳から涙が溢れて、頬を伝った雫が枕を濡らす。
「私、たくさん人を殺してきたのに…自分が死ぬって思ったら、怖、くて…っ」
言葉が詰まる。涙ばかりが溢れて、上手く声にならない。嗚咽が漏れるが、それを止める術をケイは知らない
「…ゆっくりでいい」
レノはその言葉の先を促してはいるが、決して強制はしなかった。ケイの涙を指先でそっと拭うと、まるで小さな子どもにしてやるように、優しく淡い金色の髪を撫でた。ケイが落ち着くまで、何度も、何度も。
ある程度嗚咽が引くと、ケイはまた言葉を紡ぐ。
「…もっと、生きたくて…でも、死んだ方が、楽かも、って思ったりして……」
「…」
「でもっ、やっぱり生きたかった……消えたく…なかった……」
「…消させねぇよ」
レノはケイが壊れないように優しく、けれどしっかりと、包むように抱きしめた。温もりを確かめるように、生きてることを確かめるように。
「レ、ノ?」
「考えるな」
「…え?」
「今は、今だけは…俺のことだけ考えてろよ、と…」
レノは耳元で囁くと、ケイの涙の跡をやんわりと舐め、瞼にそっと唇を落とした。続いて唇を優しく塞ぐと、ケイは言われた通りレノだけを想って、そっと目を瞑った。レノの温もり、香り、鼓動、全てが全身を甘く痺れさせ、ケイを満たしていく。何度か唇に噛み付くと、レノは名残惜しそうに唇を離して、ケイを見つめて笑った。
「キスも出来る、抱きしめられる、つまりケイは消えてなんかないぞ、と」
「…レノ…」
額と額を合わせると、レノは言い聞かせるようにケイに言った。
「ケイ、俺たちはタークスだ。人だって殺す」
「…」
「殺して、また殺して、そして汚れていく。そうなったとき思うんだ、自分は生きてていいのかって」
まるで自分のことをしているかのようだった。ケイは何も言わずに次の言葉を待つ。
「迷って、嫌になって、それでも守らなきゃいけないものがあるから生きるんだ。譲れないものがあるから生きるんだ。生きたいから生きるんだ。それでいい」
「…………人を殺しても、そう思って、いいの?」
「だったら尚更生きろ。誰かを殺さなきゃいけないほど曲げられないものがあったんだ。それなら最期まで足掻いて、生きて報いて、笑って死ね。そんで地獄に落ちればいいぞ、と」
なんせ俺たちはタークスだからな。
そう続けて笑ったレノの瞳は、悲愴な色で満ちていた。レノはケイよりも多くの人の命を奪っている。だからこそ、こんなに悲しい目をしても笑えるし、生きることを想えるんだろう。
「…涙、引いたな」
そう言ってレノはケイから離れた。言われてみれば、涙はもう流れていない。
「まぁでも、今回みたいな思いするのは2度とごめんだぞ、と」
「……私も」
ケイが思い出したのは、あのときのレノの顔。きっと自分のこととなると、レノにまたあんな顔をさせてしまう。ケイはそれが嫌だった。優しいレノに、命の重さを理解しているレノに、もうあんな顔はさせられない。
「……ケイから愛の言葉が聞けたのは予想外だったけどな、と」
「!」
悪戯っぽくレノは笑うと、ケイの頭をポンポンと軽く撫でた。ケイはムッとしてレノを睨みつける。
「…バカにしてんの?」
「違うって。でもちょっと嫌な思いはしたぞ、と」
「え?」
「これで最期みたいに言うから、ケイが死ぬかと思って、俺も本気で怖かった」
レノも必死だった、レノだって怖かった。ケイは申し訳ない気持ちが溢れて、そっと左手をレノへと伸ばした。それに気付いたレノはケイの手を優しく取ると、自分の頬に触れさせる。
「…ごめんね」
「…」
「怖い思いさせて、ごめん」
「…ほんと、生きてくれなきゃ困るんだからな、と」
「私も」
「ん?」
「レノがいなきゃ……困る」
語尾はとても小さくて、もしも窓が開いていたら、吹き抜ける風に攫われて行ったかもしれない。それでもケイは、レノの目を見て、伝えた。
あの日、レノを想って、生きたいと思った。もしもレノを思い出せずにいたら、レノの存在がなかったとしたら、きっともうこの世界にいなかったかもしれない、そう強く思った。
当のレノはケイの言葉に、熱いものが内側から零れそうになった。ケイから溢れた言葉は、なんて切なくて甘い感情に満ちているんだろう。
「だから…側に、いて」
「…今日はやけに素直だな、と」
「…気まぐれよ」
ケイが照れくさそうに笑うと、レノも笑った。お互いに喧嘩していたことなどとうに忘れていた。側にいてくれればいい、それだけでいい。
そして唇がふれた。
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