コール音が途切れる瞬間が、いつだって一番緊張する。ボクサーにとっちゃ遅いとすら言える朝の8時は、この人にとってはとても早かったようで、ささやきまじりの掠れ声は受話器越しににじみ、非常に聞き取りづらい。
「お、おはようございます」
「ん、…なに」
ふたりで迎えた朝を連想して、ごくりと喉が勝手に鳴った。ばかばかしい、覚えたての中坊じゃあるまいし。
「海、行きません?」
なぜか助手席に俺だった。アパートの前に着いた瞬間、なまえさんがとんでもなくこわい顔して運転席のドアを開けて、ぶっきらぼうに退けと唸ったからだ。泣く泣く譲ったけれど、二重三重に情けない。みっともない。
この人は男を立てるということを知らなすぎる。バックさせるときに腕を回して助手席の肩に乗っけるアレだとか、先に降りて颯爽とドアを開けてあげるアレだとか、みんな水の泡。
「なに拗ねてんの?」
「…拗ねてないっスよ」
ちらっとこっちをみて、またすぐに戻す。静かな凪いだ横顔の向こうで、銀のセダンの低いうなりが尾を引いた。
本当はよおく知ってる。
今回は結構いいのをもらっちまって、あれから3日経ってもまだジムにも復帰できずに、薬くさい湿布はまだ頬に貼り付いたままだった。思い出して、またそこを撫でさすると、なまえさんはまたちらりと一瞥した。
「腹へってんの?」
突拍子もないっつーか、あんまりに気の利かない推理に思わず噴き出した。こういうなんだかまぬけな時があるから、ほんとにくすぐったい。不安なくせに、だからこそへんに横柄な態度とるとこなんか特に。
「ガキじゃねーんスから」
眉間にぐっと皺が寄って、あからさまにむっつりし始める。意外と表情は豊か。
高速を下りたところの信号は赤だった。突きだされた下くちびるが、幼なじみの拗ねかたそっくりで。どうやら俺の頭は夏に浮かされていて、たったそれだけのことで、ノーメイクのすべらかな頬にちゅっとしてやれた。経験上すぐに助手席に納まると、さっきまで俺の顔があったところを、身の毛もよだつようなフックが通過していく。
「よけんな!」
「ほら、まえまえ」
首までさあっと染めたなまえさんは、慌ててアクセルを踏んだ。