【件の目撃の歴史、及び予言】
・文政10年(1827年)の越中国・立山で
『これから数年間疫病が流行し多くの犠牲者が出る。しかし自分の姿を描き写し絵図を見れば、その者は難を逃れる』(この頃は“くだん”ではなく“くだべ”と呼ばれていた。)
・天保7年(1836年)の日付のある瓦版に報道されたものに「天保7年の12月丹波国・倉橋山で人面牛身の怪物「件」が現れた。」
「宝永2年12月にも件が現れ、その後豊作が続いた。この件の絵を貼っておけば、家内繁昌し疫病から逃れ、一切の災いを逃れて大豊年となる。じつにめでたい獣である」ともある。また、ここには「件は正直な獣であるから、証文の末尾にも『件の如し』と書くのだ」と記されていた。この報道の頃には天保の大飢饉が最大規模化していた。
■幕末に入ると、件は突如出現するとする説に代わって、人間の飼っている牛が産んだとする説が広まり始める。
・慶応3年(1867年)4月の日付の『件獣之写真』と題した瓦版によると「出雲の田舎で件が生まれ、『今年から大豊作になるが初秋頃より悪疫が流行る。』と予言し、3日で死んだ」という。
・明治42年(1909年)6月21日の名古屋新聞の記事によると、十年前に五島列島の農家で、家畜の牛が人の顔を持つ子牛を産み、生後31日目に「日本はロシアと戦争をする」と予言をして死んだとある。この子牛は剥製にされて長崎市の八尋博物館に陳列されたものの、現在では博物館はすでに閉館しており、剥製の行方も判明していない。
・明治時代から昭和初期にかけては、件の剥製と称するものが見世物小屋などで公開された。小泉八雲も自著『伯耆から隠岐へ』の中で、件の見世物をする旅芸人についての風説を書き残している。
■昭和に入ると、件の絵に御利益があるという説は後退し、戦争や災害に関する予言をする面が特に強調された。
・1930年(昭和5年)頃には香川県で、森の中にいる件が「間もなく大きな戦争があり、勝利するが疫病が流行る。しかしこの話を聞いて3日以内に小豆飯を食べて手首に糸を括ると病気にならない。」と予言したという噂が立った。
1933年(昭和8年)にはこの噂が長野県で流行し、小学生が小豆飯を弁当に入れることから小学校を中心に伝播した。ただし内容は大きく変わっており、予言したのは蛇の頭をした新生児で、諏訪大社の祭神とされた。
■第二次世界大戦中には戦争や空襲などに関する予言をしたという噂が多く流布した。
・昭和18年(1943年)には、岩国市のある下駄屋に件が生まれ、「来年4、5月ごろには戦争が終わる」と予言したと言う。
・昭和20年(1945年)春頃には松山市などに「神戸に件が生まれ、『自分の話を信じて3日以内に小豆飯かおはぎを食べた者は空襲を免れる』と予言した」という噂が流行。
■平成に入っても度々目撃情報があがるが多くは震災前後などに集中。
・「新耳袋」第9集では、
阪神大震災後に、六甲山麓の高速道路他で出没情報が複数寄せられたという「赤い着物を着た直立した牛の群れ」の話がある。震災後に応援で送られた警備会社の警備員たちの報告書の中に20件ほど含まれていたのだという。六甲の山側で、高速道路などに霧がでて、その霧の中に二本足で直立して、赤い着物を着た牛の群れ、あるいは単体が目撃され、報告されている。
・東日本大震災発生後の救援活動で自衛隊が訪れた時に、瓦礫の街中を派手な着物みたいな服を着た髪の長い女 の人がフラフラしていたらしい。
「震災で気が触れた人かな?」
と思い、保護しようと近づいて顔をみたら、顔が長くてデカく、人の顔には見えなかったらしい。しかも体もデカい。顔は牛のようであったとも。
・六角堂で馬の頭をした人間が目撃される。
・富士山の河口湖で「頭は馬で、体は人の化け物」が目撃される。
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