『馬鹿みたいに鈍い女』が羨まし過ぎる件について。
上司である彼から食事に誘われる事はさして珍しい事ではない。
彼の元で働くようになって早二年。
彼は確かに部長という名の上司なのだが、プライベートではかなりフレンドリーだ。
そのせいで最初はうっかり勘違いをしかけたりもしたが、自分に対する彼の態度は特別ではないと気付いてからは他の人なら口説かれているのかと思うような言動もへらりと笑って過ごしてきた。
だから、だと思う。
「ですが恋人という過程はすっとばしちゃ駄目かと」
「結婚以外の道を残すつもりはないんだ、恋人ごっこなんざ面倒だろ」
「……あの、恋人というものはですね、決して"ごっこ"ではなくてですね、」
「もう二年も指咥えて堪えてんだ。限界なんだよ色々と」
仕事終わりに連れていかれた居酒屋で、馬鹿みたいに鈍い女を落とす方法を教えろと言われてもそれほど驚いたりしなかったのは。
「……はぁ、色々と、ですか、」
「主に下半身がな」
セクハラですよ、それ。
へらりと笑いながらそう吐き捨てれば、向かい側に座っている彼は居酒屋の定番であるビールではなく梅酒と氷が混ざり合うロックグラスを片手に不敵な笑みを浮かべた。
これがオッサン上司なら本当に気持ち悪いのだけれど、目の前で笑う彼は確か今年で二十九。生まれ持った端正なお顔の助力もあって、悔しいが様になっている。
「まぁでも、意外、ですね、」
「何が」
「部長に口説かれて落ちない女性が居た事が、です」
ぐびりと酎ハイを喉の奥へと流し込み、ハイスペックで何気に一途ですし?と冗談めいて笑えば、閉ざされる部長の唇。
あ、れ?と何かマズイ事でも口走ったかと慌てて喋りを止めるも時既に遅し。
ゆっくりと口元から離されて、テーブルへと置かれたロックグラス。一瞬にして切り替わった空気にひやりとしたものが背中を伝う。
「……俺に口説かれて落ちない女はいない、と……お前は思ってるのか」
「……え、」
けれどそれはほんの数秒で、思案するかのような仕草を垣間見せた部長は私の目を見据えてそれを問う。
「どうなんだ?」
「あ、は、はい。そりゃ、部長に言い寄られて嫌な人なんてそうは居ないかと」
予想外の反応に一瞬、出遅れた。
けれども部長はそんな事は気にもならないようで、再びロックグラスを手にしたかと思えば、カラン、と溶けかけの氷を鳴らして、そうか、と満足そうに口端を吊り上げる。
「分かった。落とす方法はもういい」
「え。や、でも私、何も」
「次は理想のプロポーズを教えろ」
「え。いやそれは人それぞれかと」
「んな事は分かってる。いいから、お前の理想を言え」
「……はぁ、」
かと思えば、今度は理想を語れと急(せ)かす。
私の理想なんて聞いたところであてにならない事は火を見るよりも明らかだというのに、一体どうしたというのだろうか。
まぁ、酔いも手伝っているのだろうから彼の気が済むのなら理想のひとつやふたつ語るぐらい何て事はない。
笑わないでくださいよと前以(まえもっ)て予防線を張り、私はゆっくりと言葉を吐き出した。
「まず、彼の誕生日に、家で祝って欲しいと誘われるんです。それで、私は誕生日プレゼントを持って行って渡すんですけど彼はそれほど喜んではくれなくて」
「それはまた失礼な男だな」
「もう、続きがあるんですから最後まで聞いてくださいよ」
「すまん」
「……で、ですね、気に入ってもらえなかったのかと私が不安そうにしていると彼が言うんです。実はどうしても欲しいものがあって君からそれを貰いたいんだ、って」
「……」
「記入済の婚姻届けと指輪の入った箱を出して彼はこう続けるんです。この箱の中身を受け取って、この紙にサインをして欲しいんだ、と」
言い終えてちらりと部長を見やれば、ばちりとぶつかる互いの視線。
笑わないでと言ったのは私だけれど、イチミリ足りとも笑みを浮かべていない真剣な表情で見られていたせいか、顔に熱が集う。
いやいや、ここは笑うとこですよ!部長!
「……なぁ、名前」
「は、はい」
そう心の中で叫んで羞恥心と戦っていれば、目の前の彼は視線を逸らす事なく真面目なトーンで私を呼ぶものだから心臓がどくりと跳ねた。
けれどもそれは、まだまだ序の口。
「今週末、俺の誕生日だ」
「はい。それは存じてます。昨年と同様に、今年も部内の皆でお祝いをし」
「今年は、お前だけに祝って貰いたい」
「ま………………え……?」
「俺の家で、お前だけに、祝って貰いたいんだ」
「…………あ、の、え……っと、」
「どうしても欲しいものがあるんだ。だから、」
ボールペンを必ず持ってこいよ?
そう言って、ゆっくりと吊り上がっていく唇の妖艶さに私の心臓は破裂寸前まで追い込まれたのだから。
『馬鹿みたいに鈍い女』が羨まし過ぎる件について。って、ちょっと待ってそれってもしかして。