魔女との約束


つい先刻、船から見渡したネロ湾を、今度は港から見渡す。相も変わらずひっきりなしに大小の船が行き来している。
まだ昼頃だろうか。
強い陽射しを反射して輝く海、青い空、真っ白な雲。今にも出発しそうな立派な客船や漁船。まるで一枚の絵画のような美しい光景。
つい半時間前まではカリオンの胸を胸踊らせたそれらは、しかし今、面倒事を背負ってしまった彼の鉛のように重い心を再び揺さぶることはできそうになかった。
この無数にある船の中で、たった一隻の船を探しださなくてはならないのだ。骨が折れそうだとげんなりしながらいちばん近くで休憩していた漁師に声をかけてみる。地道に人に訊いていく以外に方法はないだろう。
有益な情報が得られるのはいつになることやら、と内心で溜め息をついていたカリオンだが、あっさりと漁師が教えてくれたことで気分が浮上する。
どうやら、“色ボケ商人ラド”は有名人らしい。
「今は浜辺のほうで恋人とデートでもしてるんでねえかな」日焼けした顔に柔和な笑みを浮かべた漁師の言葉に、カリオンは満面の笑みで礼を述べ、浜辺へ向かうことにする。
ネロ湾から浜辺は目と鼻の先だ。湾の端が小さな森になっていて先が見えず気付かなかったが、森を抜けたところが小さな浜辺になっているのだ。
観光名所として人気のあるビーチは別にあり、港近くの砂浜は岩が多いため地元民も滅多に利用しないらしく、カリオンが辿り着いたときも人気はなかった。そのおかげで、密やかな話し声が風にのって耳に届く。
靴と靴下を脱ぎ、カリオンは裾を捲って海に足を浸し、岩を避けながら声がするほうへ進んだ。
声はだんだんはっきり聞こえてくる。
いったい、どんな人物なのだろう。
ぱしゃ、と水を跳ねる音が聞こえた。
「そこにいんのは誰だ」
驚いた。まさか気付かれるとは思わなかった。
不審に思われでもしたら大変だと、カリオンは慌てて身を隠していた岩影から姿を見せる。
「あっ、ごめん、ちょっと話があって─────え」
「おまえ……」
お互い数秒間、相手を見つめて固まる。
カリオンの中では、“色ボケ”とは無縁そうな、意外な人物がそこにいたからだ。
「せ、船長っ?」
「ネズミ野郎じゃねえか」
眼帯をつけた、錆色の髪の海賊のような男がそこにいた。
どうやら彼は、背が低く平らな、寝そべるのにちょうどよさそうな岩の上に寝転んでいたらしい。海に投げ出していた片足を岩に載せ、彼は怪訝そうにカリオンを見ている。
「えー、イメージと違う!船長はむしろ女より海!財宝!って硬派なイメージだったんだけど!」
「ああ?何言ってやがんだ、てめえは」
「だって船長が“色ボケ商人ラド”なんでしょ?」
ぴくりと、彼の片眉が上がる。
「てめえ……ずいぶんとご挨拶じゃねえか」
迫力のある金色の隻眼で睨まれ、カリオンは滑らせた口を慌てて塞ぐ。
ラドが持っている、彼の手の平サイズの白い巻き貝が、凶器となって振り下ろされるのではないかとひやひやしたが、意外なことに、彼は肩を竦めて鼻を鳴らすだけで、攻撃はしてこなかった。
「まあ、否定はしねえよ。誰に聞いたか知らねえが、たしかに俺は人生の春を満喫中だからな」
「マジなんだ……。で、恋人さんはどこ?デート中だって聞いたけど」
周囲を見回しても誰もいない。恥ずかしがり屋で隠れているのかと近くの岩影を覗いてみるが、やはりお目当ての人物はいなかった。
「おまえに驚いて行っちまったよ」
鬱陶しそうに頭を掻くラドに、カリオンは首を傾げる。
ラドの恋人はよっぽど泳ぎが上手で、海に潜ってネロ湾のほうに行ってしまったということだろうか。港町ならば、泳ぎが得意な人も多いだろう。
こじんまりとした砂浜で、背後の森のほうから来たカリオンがラド以外に会っていないのだから、ラドの恋人は海に逃げたとしか考えられなかった。
「で? その“色ボケ商人ラド”様になんのようだよ、ネズミ野郎」
「ちょっと船長さーん、いちおう俺にはカリオン・ロンギホルトっていう名前があるんですけどー」
たしかに船に忍び込んだが、格安にまけてくれたにしろ料金は払ったのだ。ネズミ野郎は勘弁してほしいと頼み込むと、ラドは鼻で笑った。
「へー、カリオンね。それで、用件は?俺はこう見えて忙しいんだ。さっさと言え」
欠伸をしながら、彼は急かしてくる。
なので単刀直入に、カリオンは切り出した。
「明日なんだけど、“星降りの島”ってとこに船を出してほしいんだ。頼めないかな」
お願い、と両手を合わせてみる。
「“星降りの島”だあ?」
ラドはものすごくいやそうに顔を歪めた。
「しかもよりにもよって明日だと?ぜってえいやだ。明日は嵐になる」
魔女の言ったとおりだ。
こんなにいい天気なのに、どうして嵐になるとわかるのだろうか。わずかに疑問を抱きながら、カリオンはすかさずポケットからアクアマリンを取り出し、ラドに見えるように指先でつまんで掲げた。
「そいつは……!」
目の色を変えた彼に、カリオンはにんまり笑う。
「こいつをあげるって言ってもだめ?」
「……本物のアクアマリンか?どこで手に入れた?」
「んー、教えてあげてもいいけど、どうしようかなあ」
もったいぶってみるが、正直なところ、カリオンにはこの石が本物かどうかはわからない。それに、魔女の話をラドにしていいのかすらわからなかった。
なんとか誤魔化して取り引きできないものかと思案していると、半眼になったラドが低い声を出した。
「わかったぞ、カリオンてめえ、占い師……いや、魔女に会ったな?」
「え、なんでそれを」
「魔女は、“星降りの島”に船を出せと言ったのか?」
「うん、そうだけど……」
舌打ちして、ラドは状況をのみ込めていないカリオンからアクアマリンを引ったくった。
「いいぜ、船は出してやる。だが、俺は手伝わねえからな!」
なにを指しての“手伝わない”発言なのかはわからないが、船を出してくれるなら十分だ。あとはジュディを信じて姫を誘拐するだけ。
それがいちばん気が遠くなるんだけどね……。
さらに気が重くなってきた。もう何も考えずにベッドに寝転びたい衝動に駆られる。
しかし、今夜泊まる宿さえ見つけていないことを思い出し、いっきに憂鬱な気分になった。
「お願いついでに、船長の家で一泊させてくんない?」
ダメ元で提案してみる。
「図々しいやつだな、てめえは!」
怒鳴りながら、ラドは懐をまさぐり、カリオンに一本の鍵をやや乱暴に放った。
片手で掴み、首を捻る。
「どこの?え、もしかして本当に泊めてくれんの?」
「冗談じゃねえ。春を満喫中だって言ってんだろ。前に使ってた部屋を貸してやる。てか、もうそこ使わねえから気に入ったら契約し直して勝手に住め。大家には俺も後から話つけてやるから」
解約に行くのすら面倒でもて余していただけの部屋だからと付け加えるラドに、カリオンは目を輝かせた。
「え、えー!船長……いや、ラド!おまえって本当にいいやつだな!マジ好き!チューしていい?」
「やめろ、消えろ、野郎はお断りだ」
しっしっ、と手を振られる。けれど感動に胸を熱くさせたカリオンは気にならなかった。
さっそく、どんな部屋なのか見てこようと、再度お礼を言ってその場を去ろうとしたとき、ぽつりとラドが呟いた。
「言っておくが、狼男が暮らしてた部屋だぜ、そこ」
「え?」
パン屋の女性の話を思い出し、カリオンは眉を寄せる。
彼女は空き家と言っていたが、狼男が部屋を出た後、ラドがその部屋を借りていたということだろうか。目立つ容姿の彼が出入りしていれば噂になりそうなものだが。
まあ、なんでもいいや。とりあえずゆっくりできれば。
気持ちを切り替え、カリオンはラドに向かって手を上げた。
「ぜんぜん大丈夫!俺そういうの信じてないから!」
足にこびりつく砂を払って靴をはき、カリオンは意気揚々と町へと駆け出した。
とりあえず早く休みたい。長旅の疲れが出てきたのを感じる。大家への挨拶は後だ。いちおう、現契約者のラドが使っていいと言ったのだから一泊するくらい問題ないだろう。
通りすがりの町の人に狼男の家を訊ねると、みんな親切に教えてくれた。そのうえ、これからそこで暮らすかも、とカリオンが話すと、何人かは「頑張んなよ」という言葉とお裾分けをくれた。思いがけず夜食代が浮いた喜びで、カリオンは鼻唄を口ずさみたくなった。
こんな優しい人々が暮らす国の姫を誘拐することに罪悪感を抱かないわけではなかったが、魔女の最後の安堵した表情を思い浮かべ、カリオンは自分を鼓舞する。
やると決めたのは自分だ。今さら悩んでもしかたない。
現ラドの、元狼男の家は二階建てで、一階は店が開けるような造りだった。こじんまりとはしているが、小さな店を開くにはちょうどよさそうだ。天井には蜘蛛の巣が張っていて、丸テーブルには埃が積もっているけれど、捨てるほどではない。
丸テーブルを通り過ぎ、奥に進むと、階段と二つの扉があった。半開きになっている一つの扉の中を覗くと、どうやら浴室のようだ。隣はトイレだろうか。
ラドはまったくこの家を使わなかったようで、黴が発生しているといったことはなさそうだが、やはり埃が多いし、どことなくくすんで見える。
掃除しなきゃな、と思いながら二階へ上がる。居住スペースは二階のようだ。
「おお……!」
戸を開け、カリオンは思わず感嘆の声をあげた。
部屋には食卓、本棚、ベッドといった家具が揃えられ、簡易キッチンも備わっていた。大きな窓の付近にはひとり掛けのソファもある。
悪くないどころか、いいじゃん、ここ。
浮き足立ちながら、窓を開けてちょっとしたバルコニーに出る。
何の気なしに外の景色を眺めようとして、カリオンは息を飲んだ。
「……すっげえ……」
そこからはネロ湾が見下ろせた。
町を歩いている時は意識していなかったが、緩やかな登り坂になっていたようだ。通り過ぎていった家々も見渡せる坂の上に、この家は建っていた。
いつの間にか、陽が地平線の彼方へ沈もうとしている。
あたたかい橙色の海が、きらきらと宝石のように光って、目を奪われる。
「きれいだな…………」
こんな景色を、今まで、一度でも見たことがあっただろうか。
こんなふうに景色を見る余裕が、今まで、一度でもあっただろうか。
「正解だった……よな、俺。今までさんざん間違えてきたんだ……これからは、俺は正解を選びたいよ……」
ぽつぽつと街灯が点きはじめた頃、カリオンはバルコニーから室内へ戻り、もらったおかずや菓子を頬張って、寝台に倒れ込むようにして横になった。思いの外、寝心地はいい。埃っぼいし黴くさいけれど。
落ち着いたら新調しよう。そう決めながら、カリオンは急激に重くなってきた瞼を下ろし、あっさりと眠りについた。



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