港町ポートネリア

七日間の船旅の末、カリオンが辿り着いたのは美しい港町だった。
海底まで見える透き通った海には、不思議な色の魚が群れをなして泳いでいる。
半円形の湾には漁船や客船がひっきりなしに行き来し、この港町に伝わる漁師の歌や笑い声が青い空に響き、なんとも賑やかだ。港にいる人々の表情からは、ここが平和な町だというのが伝わってくる。
建ち並ぶ家々の壁はクリーム色で、屋根は明るいオレンジ色。まるでフルーツと栗のケーキみたいで、見ているだけで旅の疲れが吹き飛ぶ。そういえば、甘味を最後に食したのはいつだろうか。そんなことを考えながら、カリオンは再度、素晴らしい風景の港町を見渡した。
行き先など拘らず、どれでもいいと出港間近だった商船を選んで乗り込んだが、良い判断だったと自画自賛する。夢のようなところへ連れてきてくれた。カリオンは心が浮き立つのを抑えられなかった。
ここが、今日から俺が暮らす場所だ!
下船しようと足を一歩タラップに踏み出す。が、カリオンは襟首をつかまれて引き留められる。
「おいこらネズミ野郎。勝手に人様の船に乗り込んで金も払わねえとはいい度胸じゃねえか」
背後から聞こえる、不穏な声。
あちゃー、と思いつつ、愛想笑いを浮かべながら振り向くと、錆色の髪の若い男がこちらを睨んでいた。
長身で、鍛えあげている胸板を惜し気もなく開きすぎのシャツから覗かせた男は、カリオンから見て左側の目に眼帯をしている。これで三角帽子を被っていれば完璧に海賊にしか見えないような強面の男だが、無断で船に乗り込んだカリオンに気付きつつも、知らん顔で七日間も好きにさせてくれていたこの商船の船長だ。食事も、さりげなく船員の残りをそのままテーブルに置いて食べられるようにしてくれた。
恩は感じていた。ちゃっかり、見逃してくれるならとんずらするつもりではあったが。
言い訳するなら、そこまで手持ちもなく、これから家を見つけて仕事も探さなくてはいけないので、少ない金でも手元に残したかったのだ。けれど、払えと言われたら払うつもりはあったので、カリオンはポケットから財布を取り出して男に差し出した。
「俺の全財産!足りなかったらまけてほしいなー、なんて」
舌を出して可愛い子ぶってみる。男は無言で財布を受け取り、中身を確認して、銅貨を七枚取ると、残りを財布ごとカリオンに返した。
「え、そんなんでいいの? いちおう、金貨も入ってたと思うけど……」
まさか落とした?
心配になって財布の中身を確かめる。無事だった。たくさんの銅貨とやや多い銀貨に紛れて、きらきらと輝く金貨が三枚、きちんとある。
カリオンが胸を撫で下ろしている隙に、船長は踵を返し、さっさと船に戻って行った。
「あのコックの腕だとこれくらいだろ。新生活、頑張れよ」ひどくかったるそうに、それだけ言い残して。
ふつふつと、喜怒哀楽の怒と哀を抜かした感情がわき上がってくる。
いい町に来た!
そう確信する。
七日前には、こんな気持ちになれるなんて思わなかった。むしろ、命の危機すら感じていたのに。
「よっしゃ!まずは住むとこだな」
俄然やる気になる。鼻歌を口ずさみながら、人で賑わう港を抜け、カリオンはお伽噺の舞台になりそうな町を歩く。
「おや、見かけない顔だね!旅行かい? ポートネリアはきれいなとこだろ」
通りかかったパン屋の店員が、店の扉に飾られている鉢植えに水をあげる手を止め、カリオンに気さくに声をかけてきた。
海も町並みもきれいだし、どこかにビーチもあるのだろう。観光客には慣れている様子だ。
港町ポートネリアか。聞いたことないな。
さすがに海路で七日間。だいぶ遠い国に来たらしかった。
「旅行じゃないんだ。これから俺、ここに住むんだ。おばちゃん、どっかにいい空き家知らない?」
「おやま!そうだったのかい。そうだねえ……そういえばもう少し奥に行ったところに二階建てのこじんまりとした家があるって聞いたよ。住んでた人が六年前に出たっきりずーっと空き家って話さ」
「ずっと空き家? なんか曰く付きってやつ?」
女主人は声の音量を落とし、人目を気にするようにカリオンに耳打ちした。
「私もねえ、一年前に隣町から越してきたばかりだから詳しくはないんだけどさ、なんでも、住んでた人ってのが狼男だったっていう噂なんだ」
「狼男ぉ? いやいや、それはないでしょ」
思わず素っ頓狂な声が出る。どこにでもそういう噂話はあるものだが、このポートネリアに魔物の話は似合わないと思った。妖精や人魚がいるというほうが納得できる。
女性はなおも続けた。
「私もはじめは信じてなかったんだけどね、遠吠えを聞いた者や、実際に人間から狼に変身するところを見た者までいるって聞いたらねえ。そこの大家なんて、室内に獣の毛や爪の痕があったとかで大騒ぎしてたんだって!」
「へー」
「狼男騒ぎがあってからこの国の姫さんは体調を崩して最近まで引きこもってたくらいだよ。よっぽど怖かったんだねえ。兄の王子は留学してるとかで長らくずっといないし、心細かったのもあるかもしれないね」
「姫さんが住んでるところってここから近いの?」
「王都ゼロフィーネリアは北のほうだ。馬車で三時間くらい」
遠くもないが近くもない距離だ。それでも姫は安心できなかっただろう。絵本に出てくる狼男は、たいてい姫を狙うから。
可愛い姫を守る騎士。憧れるよなあ。
桃色の妄想ににやけていると、いつの間にか店内に入っていたらしい女性が、紙袋を持って戻ってきた。
「はいこれ、うちのパンだよ。残念ながら焼きたてじゃあないけどね。これから大変だろうけど、余りでよければ分けてあげるから遊びにきなさい」
じんわり染み渡る優しさに、カリオンは涙ぐみそうになった。
「ありがとう、おばちゃん!」
空き家の情報をくれたことにも礼を告げ、大家と話してみることを伝える。パン屋の女性は大家の住んでいる場所と目印をカリオンに教えると、「さて、仕事に戻るとするかね!」と伸びをしながら言い、仕事に戻っていった。
紙袋の中にはバターパンとガーリックパン、たまごを挟んだパンが入っていた。
少し固いが十分美味しい。船の中では船長のおかげで空腹に苦しむことはなかったが、満腹になることもなかった。ひと口バターパンをかじると止めることができず、夜食に残そうと考えていたのにぺろりと完食してしまった。
「あー、俺ってばけっこう腹空かせてたんだなあ」
船に乗る前と乗ったあとしばらくは、追っ手のことや船員に気付かれて海に投げ出される可能性に緊張していたし、その後は新天地がどんなところか考えて緊張していた。その間、腹の虫は一度も仕事をしなかった。
けれど、パンを三つも食べた今になって、腹の虫は本来の役目を思い出したとばかりに鳴り、カリオンは苦笑いする。
「もうちょい我慢な。とりあえず今夜寝るところくらいは確保しなきゃならないし、おまえはその後だ」
自分の腹に向かって話しかける自分自身がなんとなく悲しくなり、カリオンは咳払いをして大家の家を目指す。
ポートネリアは整然とした町並みで、迷うことはなさそうだ。目立つエメラルドグリーンの旗が目印だと教えてもらっていたので、すぐに見つかるだろう。
「そこの異国のおにいさん」
建物と建物の隙間を横切ろうとしたところで、カリオンは鈴が転がるような声に呼び止められた。路地は暗く狭い。人がいるとは思わなかったため、つい「ひえっ!」と、みっともない悲鳴をあげてしまう。
クスクスと笑い、漆黒のローブを身に纏った人物が路地裏の影から浮き出てくるようにして現れた。目深にフードを被ったその人は、カリオンを見上げる。きらりと、猫のような眼が光って見えた。
ずいぶんと小柄で華奢だ。子どものようだけれど、唇には真っ赤な口紅が塗られている。フードの影で色までは判別できないが、瞼にも目尻にも目の縁にも、化粧が施されているようだ。
濃いなあ。カリオンの率直な感想だ。
素っぴんのほうが良さそうなのにもったいないと思いながら、カリオンは年齢不詳な女性に向き直った。
「あー、ビックリした。そんなところでなにしてんの、おねえさん」
体格は少女のようだが、化粧をしていることから大人なのだろうと判断した。
「わたしは占い師のジュディよ。あなた、光を宿してるのね。それは生れつきかしら? でもそれ以上の穢れが取り巻いてるわ」
にんまりと目を細めて微笑む彼女に、カリオンの笑顔が凍り付く。
あ、幸運を招く壺とか売ってくるやつだわ、これ。
「へーソウデスカ、ソレハ困ッタナー」言いながら後ずさる。
それじゃ、と去ろうとしたが、ジュディの声が追いかけてきた。
「負の念に長年触れ続けたせい。ここで暮らすなら、そんな穢れた魂は浄化してもらわなきゃ困るわ」
思わず足を止めてしまう。心当たりがあったからだ。
「穢れた魂は穢れた存在を呼び寄せる。この国をあなたがいた国のようにするつもり?」
「……俺がいると、災いが起こるってこと?」
ジュディは思わせ振りに真っ赤な唇を指先でなぞった。
「可能性はある。それしか言えないわね。わたしは未来が視えるわけじゃないもの」
未来は視えなくても、占うことはできるということなのだろうか。素人にはよくわからない。
「俺を異国の人間だって言い当てたのは、見慣れない顔だから?」
「それもあるけど、似てたからかしら」
「似てた?」
彼女は頷く。こちらを見るアメジストのような不思議な色の瞳には、はじめに感じた胡散臭さは消え失せていた。
「誰に?」
「夢で見た人。暗黒の世界で、その人だけが唯一光を宿していた。逃げればいいのに、その世界しか知らない哀れな人」
「…………わかった、降参」
肩を竦め、カリオンは芝居がかったおおげさな仕草でジュディに跪いてみせた。正式な礼法は知らなかったので、あくまで形だけだ。
ふざけていなければやっていられない心境だった。
「では占い師ジュディ様、哀れなわたくしめの魂を浄化する方法をお教え願えますか」
せいぜい哀れに聞こえるように、情けない声を出す。
演技だと気付いてはいるだろうが、ジュディは満足げに口角を持ち上げた。占い師というよりは魔女を彷彿とさせる表情だ。
そう、どちらかといえば、ジュディは魔女のイメージに近い。
「いいわ。でもそのためにはある人物を“星降りの島”まで連れて行く必要があるの」
「ああ、魅惑のジュディ様、残念ながらわたくしめは
この土地へ今日きたばかり。“星降りの島”とやらがどこかもわかりません」
「港にいる者に訊けばすぐわかるわ。ネロ湾に入る前に島を通るはずだけれど、見なかったの?」
忍び込んだ船では、窓もない物置で過ごしていた。もっとも、窓があったとしても外を見る心の余裕はなかったが。
「船酔いで寝込んでまして」
よくぺらぺらと嘘がつけるものだな、と自分のことながらカリオンは感心した。
信じたかどうかは不明だが、ジュディは頷いた。
「そう、まあいいわ。“星降りの島”へは色ボケ商人のラドに頼めばいいから、これを渡しておくわね。彼はネロ湾にいるはずよ」
跪いたままのカリオンに、ジュディは透き通る青い石を差し出した。
手の平に載せ、見つめる。ポートネリアの海を閉じ込めたような美しい石にカリオンが魅入っていると、そんなことなど意に介した様子もなく、ジュディはやや早口になって捲し立てた。
「あの色ボケ商人は明日は嵐がくるからいやだと断るはず。そうしたらこのアクアマリンを渡して。稀少で、船乗りにとっては御守りのような石だもの、船を出してくれるはずよ」
「ふうん。で、俺は誰を連れて行けばいいわけ?」
足が痺れてきたので立ち上がり、アクアマリンをポケットにしまう。
「この国の姫よ」
「へー、この国のお姫様を………………はああああッ?」
驚くカリオンに、魔女は怪訝な顔を向ける。
「なによ」
「なによ、じゃないよねッ?無理!むりむり!姫さんの友だちでも騎士でもなんでもねえし、俺!」
「そんなこと知ってるわ」
「じゃあ、できないことくらいわかるだろ!」
「できるわ。誘拐すればいいのよ」
なんてことを言うのだ、この魔女は。
そんなことをしたら打ち首ものだ。それに、姫が暮らすような城は警備が厳重で、忍び込んで誘拐なんて不可能に近いだろう。組織的な犯行ならまだしも、単独でなんてなおさらだ。
だが、魔女は「できるわ」と繰り返した。
「明日、姫はお見合いのために隣国へ行くの。このポートネリアを通るわ。大通りには多くの人が集まるでしょうね。人混みに紛れて、隙を見て姫が乗っている馬車を襲うのよ。簡単でしょ?」
気が遠くなり、カリオンは額を押さえる。
「いや、まったく簡単じゃないんですけどー……」
「なによ、男なら腹を括りなさいよ!」
苛立ったのか、ジュディは声を荒らげる。何か急いでいるのか、彼女はさらに早口になった。
「護衛はつくけど数人よ、遠くでわたしも協力するわ!」
「……でもさあ、姫さんを怖がらせるわけでしょ?魂とかまだあんまぴんときてないけど、自分の魂を浄化するために姫さんを利用するのはなあ」
そんなことをするくらないなら、今度は逃げるためではなく、自分に相応しい場所を探すための旅に出たほうがいい。
ポートネリアは人もあたたかく町もきれいで気に入ったが、自分にはもったいない町だ。ここで暮らせたらきっと楽しいと確信がもてるほどではあるが、名残惜しいけれど、誰かに迷惑をかけるくらいなら出て行くべきだろうとカリオンは思うのだ。
目を見開いたジュディは、頬を掻くカリオンを凝視した。そして、視線を落とし、ぽつりと呟く。
「これは、姫のためでもあるのよ」
「え?」
長いローブを握りこむ、彼女の小さな手が震えていることに、カリオンは気付いた。
「姫はまだ十四歳。お見合いなんて本当はしたくないの。でもね、それ以上に、姫はなんとしてでも明日、“星降りの島”に行かなければならないのよ」
「それは、どうして?」
「“星降りの島”は星が集りまた旅立つ場所。姫は星に逢いたいのよ」
星に逢いたい。よくわからない。星なら夜になればいくらでも空に浮かんでいるだろうに。
けれどなんとなく、そういうことではないのだとカリオンは感じていた。
さて、どうしますかねえ。なんて、悩んだふりは一瞬だけで、彼はもう決意していた。
「わかった。姫さんを“星降りの島”へ連れて行く」
ぱっと顔を上げた魔女は相変わらず年齢不詳だが、もしかしたら想像よりもずっと若いのかもしれない。そう思うほど、彼女は安堵と期待の表情を隠せていなかった。
「ただし!誘拐したあとのことは便宜をはかってくれるように姫さんに伝えておけよ?俺はここで暮らしたいんだ、打ち首はごめんだからな!」
「ええ、もちろんよ!」
ほんの一瞬だけ、魔女の本当の顔が見えたような気がした。けれどそれは脳が記憶するよりもはやく、魔女の姿ごとカリオンの目の前から消えてしまった。
誰もいなくなった路地を眺め、カリオンは白昼夢でも見ていたのではないかと疑ったが、ポケットの中にはアクアマリンが入っていた。
コロコロと手の中で転がる石の感触が、魔女の存在と約束を決して忘れるなと語りかけてくるようだった。
「ハハ……マジかあ……」
魔女がいるなら狼男の噂は真実かもしれない。なんて思いながら、カリオンは色ボケ商人に会うため、港へ戻った。


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