前篇
それは確かに幸運のお守りだったんだ。
さざなむ潮騒を耳に飾り、その日は珍しく二人で外を歩いていた。太陽に照らされた海面は輝きを反射して眼を突き刺す。僅かながらに聞こえる、動物の泣き声。晒された樹々は荒々しい海風に揺られ、時折凪ぐ。目の前を軽やかな足取りで進む君の背が、酷く脆く見えた。
「アレルヤ」
嬉しそうに波打ち際で戯れる彼のその名を呼んだ。気付いたアレルヤは足を止めてこちらを振り向く。波にさらわれた砂が立ち止まった足に少しばかり積もったが、厭わずに言葉を続けた。こちらを見るモノクロの瞳にただ俺だけが映った。
「結婚しよう、アレルヤ」
「……え?」
鳥が羽ばたいた。南の島特有の鮮やかな青の羽が二人の間を舞う。アレルヤはそのモノクロの瞳を伏せて、黙り込んだ。お得意の無視作戦だろうが、今の俺にはそんな慣れた技業など通用しなかった。繰り返す鼓動で熱い手のひらを握り直し、アレルヤを見据えた。
「結婚、しよう」
もう一度言い直す。強張った声だった。いつも以上に低く、唸るようにゆっくりと、確実に発音して伝える。何故こんな事を言っているのか自分でも解らず、頭の中は半分パニック状態で、もうどうにでもなれと出たとこ勝負だと。ただ解っていたのは、今この羽根を掴まないといつか何処か遠くへ行ってしまうのでは無いかと不安になり、悲しくなってしまったのだ。子供のような、馬鹿馬鹿しい理由だった。
「……………………」
「お前が、微笑って、傍にいてくれるだけでいい」
そう言うと、アレルヤは悲しそうに笑った。ザァッと潮風が俺達を通り過ぎて樹々を揺らして逃げていく。少し長めのアレルヤの髪がふわりと流れて、普段は長い前髪に隠れている右目が微かに覗いた。その眼にぞっとしたのか、その後の言葉でか俺は固まった。
「貴方は、いつか遠くへ行ってしまうでしょう……?」
この戦いが終われば、皆別々になり個々の罪を償う。そして、帰るべき場所へ還るのだ。だから、いけないのだと。駄目なのだと、アレルヤは背を向けた。その”遠く”を教えられない事が寂しい、が、同時にアレルヤの帰るべき場所を知らない事が、じわりと脳を過る。
「出来ない約束なんて、しちゃいけません」
その背にはまるで羽根があるように見えて、思わずアレルヤを背中から抱き締めた。ドミニオンズの威光さえも超越して、メイスの羽ばたきが優しく包み込む。優しさなんて強さが無ければ非力でしかないのに。今はただ縋り付きたかった。口約束でいい。
「そんな、悲しい事、言うなよ…」
弱々しい言葉が洩れる。抱き締めて、額を肩口に押し当てた。足が海水に浸っていく。引いては返し、引いては返しを繰り返して、波はどんどん蝕んできた。冷たいなんて、微塵も感じない。ただこの両手が、この体が、触れる熱が熱くて愛しかった。
「嘘つき」
「本当に僕は、嘘つきで、弱虫で……!」
悲痛な声でアレルヤは嘆き始めた。だらだらと両目から流れる涙を拭うように、顔を隠すように両手で塞いで俯く。その姿に俺は何も出来ず、ただ抱き締めている腕を緩めるしか出来なかった。
「貴方とずっと一緒にいたい。出来るなら、死ぬまでずっと、なんて、言えないって思ってたのに、なのに」
ひくひくと嗚咽を繰り返し、アレルヤはこちらを向いて俺の両頬を両手いっぱいで包み混む。ポロポロと涙は伝い落ちて、やがて俺の手や頬にも流れた。それが自分自身の涙だと気付くのに、10秒要した。情けなさと、嬉しさと、愛しさで胸がいっぱいになって、今にも破裂しそうだった。今なら死んでも構わないと心から思える程に。
「あいしてる」
だから、大丈夫なのだと。誓えるのだと、悟った。やがて二人の涙は止まって、静かに口付ける。そこから小さな熱が伝わり、君の声で目を覚ました。羽ばたいた鳥が巣に戻り、つがいとまた閨を共に過ごす。君の手を握ってまた羽ばたくだろう。
確かにそれは幸福のお守りだったんだ。
でも、僕がそれを望んだ結果でもあったんだ。
あいしてる。死ぬまで、ずっと、死んでからも。
09/03/29 UP
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