Ailes Grises | ナノ

7:図書館 世界のはじまり 傷跡


かつて灰羽の少年が、時計塔に住む技術者に指導を請うた事があった。
あの背の高い時計塔に登ったなら、どんな世界が見えるのだろう。
あの鐘がなった時、世界はどんな風に変わってくれるのだろう。
願いを掛けるようにして、少年は何度もネジを回した。
しかしどんなにネジを回しても、歯車を取り替えても、時計塔の鐘は鳴りはしなかった。
諦めた少年は、時計塔をあとにした。

(この鐘が鳴れば、僕の病気は治ると思ったんだ)





本格的な祭りの用意が始まりつつある街並はとても賑やかで、それでいて穏やかな日常の午後の早い日没で彩られる。
既に太陽は壁の向こうへと姿を隠し、子供たちは街中へと集まって輪を作り踊った。
空はまだ明るいが薄暗い石造りの図書館には冷ややかな空気が漂う。
それとは裏腹に館内の奥の倉庫は沢山の職員でごった返していたが、どこかお祝いムードが漂っている。
そんなお祝いムード一色の図書館に、アレルヤもいた。
今日はクリスと一緒に、図書館で働くフェルトを手伝いに来たのだ。
何故お祝いムードかというと、図書館の総司書であるカティ・コーラサワーの寿退職が決まったのだ。
書類の整理と未整理の本棚のリスト分けが年末の恒例行事のようだった。
しかし今年はカティの退職もあり、例年以上に図書館の大掃除は念入りに行われていた。
普段の職員に加え、沢山の有志達によって、毎年どんなにやっても終わりが見える事の無かった古い本達がやっとの事で新しい書架へと並べられる事が出来た。
力仕事も多くカティの旦那であるパトリックを始め、男性も多く図書館を出入りする。
本棚の入れ替えも彼女の退職をきっかけとしたわけではないが、一部分的に新しいものへと取り替えする事が叶った。
彼女の大きなお腹がとても微笑ましい。
寿退職といっても、カティとパトリックが入籍したのは数年前だ。
数年前の元旦に結婚した二人に、今年の初夏に妊娠が発覚した。
奇遇な事にお腹の子供が生まれる予定も、年明けと言う事らしい。
少しずつ大きくなっていくお腹を抱えて暫く仕事には着いていたが、大事を取って冬の祭りが始まる前に退職をする事が決まった。
それでも遅い方だ――と、彼女の友人であるリーサは言う。
彼女は街の酒屋を営み、夜はバー、昼間はカフェにしている。
町のみんなの溜まり場となったその店のオーナーであるリーサ……人々は、スメラギ女史とからかうようにしてそう呼んでいる。
そのスメラギが中心となって声を掛け合い、こうして沢山の人達が集まった。
既にこれが祭りのように、はたから見れば思ってしまうが、図書館の窓の外には冬至祭を楽しみにしている子供達が何も知らない無垢な笑顔を振りまいていた。
来年になれば、これにもう一つ新しい笑顔が加わる。
そんな子供達へのプレゼントを大人達はこっそりと用意している。そんなもんだ。
有志たちの手によって図書館の整理が進んで行く。
何年も放置していた本は、書架に並んだものと、修復に回されるものと、廃棄されるものへとわけられた。

そんな折、棄てられるのをただ待つ本がアレルヤの目を引いた。
「え、こんな分厚い本、捨てちゃうんですか」
重厚な装丁の施されたそれは角の皮が剥げ落ち、中の台紙が露呈していた。紙もまだらに日焼けして、虫食いが激しい。
「なんだ?この本。見た事無いな」
埃の被ったそれを見て、職員の一人が声に出した。
随分と長い間倉庫に置き去りにされていたようで、一人がそう言い出せば周りが集まりだす。
しかしこんな本は知らないと口々に零した。
捨ててもいいのだろうか、と皆が悩んだ。
予備も新しい本も何一つ残されていない、それきりの一冊だった。
しかもよく見れば豪華な装丁で、人の顔二つ分くらいある大きなその表紙を開けると、何処の誰かは分からないがこれまた豪華な印が、直接中表紙の裏に押されていた。
「……カティさんに確認を取ろう」
しかし、職員達は手が離せない。彼らにしか出来ない仕事がある。
そこで白羽の矢が立ったのは、もちろん言い出しっぺのアレルヤとなってしまった。

埃の舞う書架を抜けて、アレルヤは本を抱えて大きな階段を登る。
最上階にある大きな扉が司書長室だ。失礼します、とノックをして扉を開けると、大きなお腹を抱えた眼鏡の女性が引き継ぎの書類に追われていた。
「……誰だ?」
声を聞いて見知らぬ誰かだと気付いたのか、書類から顔を上げまじまじと此方を見られ尋ねられた。
「アレルヤと言います。今日はお手伝いで来ました。今お時間大丈夫ですか?」
「何処の紹介で?」
「ええと、フェルトに呼ばれました」
「……灰羽か」
フェルト、その名を出したあと彼女の雰囲気が変わる。
「すまないな、ここは貴重なものがあるから他人に敏感なんだ」
「いえそう名乗れば良かったですね。……お茶でも淹れましょうか」
「ああ、ありがとう……少し休憩するとしよう」
部屋の中央にある応接用のテーブルに本を置いて、アレルヤは司書長室に備え付けてあるミニキッチンに入る。
ヤカンと茶葉とポット、来客用のティーセットにコーヒーマグという必要最低限のものしか置いてなかったので、アレルヤでも簡単に用意が出来た。
「手伝いにこんな事をさせて悪いな」
「妊婦さんですから。どうぞ座っていてください」
いつもロックオンが淹れてくれるように、茶葉を入れる前のポットに沸いたお湯を入れて、蓋をして温める。
一度湯を捨てた後に茶葉をいれて湯を注ぎ、再度ポットの中で蒸らした。
マグに注ぐと、いつもと違う茶の香りがする。
「……こんなに美味しい紅茶をここで飲むのは、二度目だ」
アレルヤの淹れた紅茶を一口くちにして、カティはまじまじと驚いたようにアレルヤと紅茶を交互に見た。
「そんなに上手では無いと思うんですが……」
アレルヤはただ、いつもロックオンが淹れてくれるようにしただけだった。
ロックオンはお茶を淹れるのが上手だ。
ハーブティーの材料のお使いの後、初めて気付かされた。
「ちゃんと湯を沸かしてるだろう。……忙しいとみんな、沸騰する前のお湯で淹れてしまうんだ。ああ、結婚するのは早かっただろうか」
「え」
「あいつと結婚したのは紅茶を淹れるのが上手かったからなんだ」
ああだから二度目なのか、とアレルヤは一瞬納得しそうになる。
「……冗談だよ。しかし、君のような物静かさが欲しかった」
「あ、ああ……びっくりしました」
「ふふっ、真面目なんだな」
眼鏡の奥で泣きぼくろのある瞳が細められて、アレルヤは恥ずかしくなった。
遠目で見た二人は、とても幸せそうだったのだから。
――沢山の書類は、後は分類し保管或いは郵送するだけのようだった。
窓の外には天日干しにされている用具が見える。
「そういえば、アレルヤ君は何の用でここに?」
「ああ……忘れてました!」
茶を淹れる事に少し気を向け過ぎて、この部屋に来た目的を一瞬忘れていた。
「これです」
「……?見ない本だな」
机に置きっ放しだった本をアレルヤは差し出す。
しかしほぼ館長を兼任しているカティですら、見た事の無い本だったらしい。
眼鏡を掛け直して、じっくりと一枚一枚そのページを捲り確認していく。
その横でアレルヤは流れるようなその動作を見ていた。
「……あ」
一枚の挿絵が、アレルヤの目に留まる。
暗闇から濃紺、濃紫へ。そして突き抜けるような、青。
キラキラと輝く瞳。いいえこれは星だ。
満点の星空だった。
「きれい」
瞳だと思ったのは、きっと、ロックオンの絵を見たせい。
「……この本、棄てちゃうんですか」
せかいのはじまり、と、この本の表紙には書かれていた。
よくよく見ればこれは豪華な装丁なのではなく、手作りで丁寧に作られた一冊もののようだった。
絵本だ。
だが、アレルヤにはその一枚に惹かれる。
まるでいつかこの景色を見た事があるような。
どこか俯瞰した構図のその絵は、まるで神様が描いた空から見た景色のようで。
「修繕に出そうか」
一番最後の後書きをカティは見詰め、そう言った。
何代か前の職員の名前が綴られている。
「えっ」
カティの言葉に、アレルヤはまるで自分が強要してしまったのではないかと頭を振り上げる。
「とても貴重な本だ。見付けてくれてありがとう」
しかしそんなアレルヤとは打って変わって、カティはもう一度、微笑みを向けてくれた。







図書館の大掃除は何日かに分けて行われた。
二日くらいは激務だったが、四日目になる今日は手伝いににも慣れて、無駄口を叩ける程には余裕が出来ていた。
「……子ども、かあ」
遠くで引継ぎの伝達をしているカティを見て、クリスがぽつり、呟いた。
「どうしたの?クリス」
フェルトがクリスの顔を覗き込む。
その顔はうっとりとしたような、恋に恋する乙女といった表情では無く、何処か諦めたような……手の届かない宝物を見るような女の目だった。
「ねぇフェルト。フェルトは結婚したいなって思う?」
「なに、急に」
「だってー!マネキンさ……コーラサワーさん、すっごく幸せそうなんだもん!結婚式も綺麗だったし!!」
「ウェディングドレスは着てみたいとは思うけど……」
「そうじゃなくって、結婚!どう思う?」
「急に言われても、わからないよ」
しかしクリスにしては珍しい暗い様子はすぐに何処かへ消え、フェルトに女子トークを持ち掛ける。
目の前に仮にも成人男性がいるのによく出来るなあ、とアレルヤは影に成りすまし素知らぬ顔をして作業に没頭する。
「……〜じゃあアレルヤ!アレルヤは?男の意見として、結婚したいって思う?」
「えっ僕?!」
影になろうとした途端、突然話題が振られた。
あまりにも唐突過ぎて、過剰に体が跳ねる。
「アレルヤ以外いないわ」
「えっ、えー…ロックオンにきいてみないと……」
けっこん。いわゆる男女の契約だ。
その契約は生涯に渡り続き、どちらかが死ぬまで、それは消滅しない。
死が二人を別つまで、なんて言うが、事実として婚姻関係を持たずに子供を作る女性もいるし、離婚して生涯の伴侶である筈の嫁を取っ替え引っ替えする男性もいる。
いるにはいるのだが、それ以前にというかそもそもこの街の、灰羽のしきたりがよくわからない、とアレルヤは言おうとした。
「ロックオンはしないって言うわ……」
「クリス?」
まただ。
クリスの陰りのある表情は、普段が突き抜けに明るいぶん分かりやすい。
嘘や隠し事が苦手なのかもしれない。
クリスの手の届かないもの。
もしかしたら、それは……
「そうじゃなくて!アレルヤの、気持ちはどうなのよ!」
「僕の、気持ち?」
思考がその答えを導き出すまでに、クリスに問い質される。
ふと、教会で頽れた夢を思い出した。
未だはっきりと思い出せない夢の続きを。
背後から訪れる恐怖。
でももしそれが結婚式のように、恐怖ではなく愛しい人が来てくれるなら……。
アレルヤの想像は意識を越える。
幸せな夢だったらよかったのに。
伸ばされた腕に優しく抱きとめられて。
振り向けば星が、瞬いた。
アレルヤの空想であるのにもかかわらず。
鷲色の髪。彗星の瞳。白い肌。
顔が赤くなる。
だってそれは……
(ロックオン?)
この世界で、初めて自分を呼び起こしてくれた人。
どうして彼の顔が浮かんだのだろう。
アレルヤの意思に反して、空想の彼は微笑んでくれた。
(ロックオンなら、いいのに)
ちくりと胸が痛む。
だってその夢はとても怖かったから。
とうてい幸せな夢じゃない。
悲しかった。
(悲しかった……?)
夢の中での自分は、悲しくて泣いていたのか。
またちくりと胸が痛む。
アレルヤの心の中の、黒い影が夢を蝕み、そして胸を痛める。
先程の思考の答えを導き出してしまいそうだった。
「――アレルヤ、どうしたの?」
クリスとフェルトが心配そうにこちらを覗き込む。
汗がこめかみを伝う。
なんだ。この気持ちは。
胸が痛い。

「……きもち、わるい」

気持ち悪い。
腹の底で何かが蠢いている。
「ごめん、体調悪かった?」
「アレルヤ汗が、」
どんどん青褪めていくアレルヤの頬をクリスは撫でた。
違う、自分の中に何かがいるんじゃない。
これは今気付いたもの、芽生えたもの。
自分自身への嫌悪。
彼を穢してしまったように思った。
ただ微笑みかけられたいと願ってしまった。
そんなの、おかしい。
夢も現実も、しあわせになれない。
「クリス……なんか、変なの。背中がいたい」
胸の痛みは肋骨を抜けて、背骨へと侵食を始めた。
じくじくと、懐かしいようで、つい最近に感じた痛みだ。
「背中ッ?刻印は?!」
アレルヤの言葉を聞いて、クリスの表情が険しくなる。
その言葉の通り、刻印から痛みが与えられているようにも、自らの内側から鞭をうたれているようにも感じた。
「わからな……いた…………」
「嘘、やだ、やめてよアレルヤまで……!」
アレルヤの意識は、そこで途切れた。




――初めて目が覚めた時みたいだ。
アレルヤはベッドの横で椅子に座るロックオンを見て、呑気にそんな事を考えた。
今度は夢は、見なかった。
「お疲れ様。お前倒れたんだよ?」
「……迷惑かけてましたよね……ごめんなさい」
優しくアレルヤを諭すように、ロックオンは言った。
アレルヤはロックオンの変わらないその様子に、少し心が落ち着くのを感じた。
微笑って欲しいなあ。そうすれば、もっと心が落ち着くのに。
そして心の中でもう一度、アレルヤは謝った。
ごめんなさい。
微笑ってなんて、僕は言える立場じゃないのに。
「体調が悪かった訳じゃ……ないんだよな」
「うん……。ここ、は?」
しかしロックオンは、アレルヤの事をわかっていてくれた。
突然具合が悪くなったのだ。
それは本当の事で、アレルヤも否定も言い訳もしなかった。
アレルヤは頷いた後、あたりを見回す。
どこか見覚えのある部屋だ。
「俺の部屋だよ。アッチだったら、チビたちがうるさくてゆっくり出来ないだろう」
まだ部屋が決まって無かったから、俺の部屋に運んだんだ、とロックオンは付け足した。
じゃあこれはロックオンが眠ってるベッド……とアレルヤが声に出す前にそれを理解してしまい、アレルヤは顔が赤くなる。
赤くなるのが恥ずかしくて顔を隠すように口元までシーツを引っ張り上げると、そこからふんわりとロックオンの香りがしてしまいさらに顔が熱くなるのが分かった。
「背中は?まだ痛むのか」
「え、あ……大丈夫、みたい」
隠れるように背中を丸める仕草をするアレルヤの様子を見てロックオンは何かを勘違いしたのか、アレルヤの体調を気に掛けてくれる。
言われてから、とうのアレルヤは背中が痛かったのを思い出した。
あの時、強烈な痛みが刻印から滲んだ。
まるで刻印が刻み込まれた夜のように。
背中に少し違和感があると思ったら、どうやら湿布が貼られているようだ。
「なんだかおじいちゃんになったみたい。あ、灰羽って年を取るのかな」
そうやって少し、何かを誤魔化そうとした。
「……刻印が痛み出したのは、今日が初めてか」
「……うん」
目線を逸らして、アレルヤは肯定する。
誤魔化そうとしたのに、ロックオンは簡単に誤魔化されてなどくれない。
「次痛みが出たら、この薬を飲むといい。湿布の場所はクリスが知ってるから……」

「これは何かの病気なの」

「ちがう」

「じゃあ一体なんなの……?」

「今はまだ言えない。痛みが続くようなら、じきに解る」

渡された薬は、いつもみんなでハーブティーにしているものの出涸らしを使ったものだった。
微かに残る、蜂蜜と紅茶の匂い。
ロックオンが飲んでいたのは、ただの紅茶じゃない。
この薬だったんだ。



13.09.10

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