世界を敵に回しても




 彼を初めて見たのは、まだ桜舞い踊る四月。部活の朝練に遅れそうだったため、通学路をダッシュしたある日のこと。
 
「何か用か」
 
 まるで野良猫のように警戒心たっぷりでこちらを見つめる冷たい瞳の彼は、突如私の目の前に降ってきた。その手には小さめの猫が抱かれており、彼が天使のごとく地面に降り立つと同時に腕から逃げ出し、すごい勢いで走り去ってしまった。
 そして残されたのは私たち二人。思わぬ出来事に彼をじっと見つめていると、そんな言葉が飛んできたのだ。
 
「あ、いや·····別に」
「そうか」
 
 彼はそれだけ言うと、何事も無かったかのように制服を手で払いながら私に背を向け歩き出した。
 私はその背中が見えなくなるまで、じっと彼を見送った。何故かうるさく騒ぐ心臓が、なかなか大人しくなってくれなかったから。

 その日から、彼のことが頭から離れなかった。
 氷帝の制服だから同じ学校のはずだが、顔に見覚えはない。他学年かな。このことは何度も友人に話したが、そんな生徒は見覚えないという。
 
「大体、あんたの説明めちゃくちゃだから分かんないよ」
 
 冷めた目をした天使。
 それが、私が彼に抱いた第一印象。あとは·····髪がサラッとしてたかな。それだけの情報を頼りに人探しをしてみるが、一つ目の手がかりを言っただけで友人は疲れた顔をする。
 
「あーあ。どこにいるのかなあ」
「よく分かんない天使様より王子様でしょ。ほら、新しいクラスなんだから! 運命の人はすぐそこにいるかも!」
「··········冴えない顔しか見当たらない」
「つれないなぁ。·····だったら、テニス部とかはどう? 天使かは知らないけど、規格外な人はいっぱいいるじゃん」
「住む世界が違いすぎる」
「まあね。あんな本物の王様、流石に近寄り難いというか·····そういえば、跡部先輩が卒業して新しい部長って誰になったんだろう」
 
 氷帝学園にいてテニス部を知らない者はいない。確かに彼らは目を引くが、そんなものに私は興味ない。むしろ間違えて関わりでも持ってしまったら、他の女子に何されるか分かったもんじゃない。背筋がぞわりと震える妄想に大きく息を吐くと、「辛気臭いからやめてよね」と文句が飛んでくる。私の勝手じゃん、と言い返そうとした瞬間、次の授業を告げる音が鳴った。
 いくら一学年進級したところで何かが劇的に変わる訳もなく、ただただ去年と同じような一日を過ごしていた。
 そんな時に(木の上から)舞い降りた天使様は、私にはぴったりすぎるほどの暇つぶしだった。




「ねえねえ、折角だからテニス部見てかない?」
 
 そんな彼女に引きづられ、貴重な放課後に私は興味もないテニスコートに来ていた。
 早めに来たためコート内にまだあまり人はいないが、私たちと同じような女子は周りに沢山いて、皆それぞれが色めきたっている。
 
「跡部先輩が卒業してかなり減ったけど、未だテニス部の人気は健在ね」
 
 ラケットに玉が当たってるのを眺めて何がそんなに楽しいんだか。まあ、皆が興味あるのはボールの行方ではなく、ラケットを握っている人間なのは明白なのだが。ますますくだらない。
 もう帰ろうとコートから視線を逸らした瞬間、周りの女子たちから黄色い声が上がった。
 
「あ! あれが新しい部長かな? 跡部先輩みたく派手ではないけど、結構かっこいいじゃん」
 
 言葉につられ、なんとなく、皆の視線が集まる先を辿った。
 
「あ」
 
 大勢いるテニス部の中心にいる男は、私がずっと探していたその人だった。




「日吉若先輩だって」
「ひよし、わかし·····」
 
 なんて素敵な音の響だろう。流れるような音のリズムは、彼のサラリと流れる髪の毛を思い出す。『若』という名前からは、あの冷たい瞳にぴったりな少し固めな印象を覚える。いいとこの出だろうなあ、氷帝だから当たり前か。
 初めて聞いた彼の名前に様々な夢想をしていると、横から友人の浮かない声がする。
 
「でもさあ·····」
「何?」
「なんか、評判良くないんだよね」
「評判?」
「そ。部活の先輩から聞いたんだけど、愛想悪いし意地悪言うし、いつも怖い本読んでるから、三年の女子はあんまり近づきたがらないらしいよ」
「なーんだ。ライバル減っていいことじゃん」
 
 そう言っても友人は心配そうにしているが、いらぬ世話だ。あんな綺麗に背筋を伸ばして歩くような人が、汚れた野良猫を助けるんだよ? いい人に決まってる。
 
 
 
「すまないが受け取れない」
「どうしてですか?」
「知らない奴から物は受け取らない主義だ」
「ちょっと日吉·····そんな言い方、可哀想だよ」
「そうですよ。それに同じ学校だし、そんな怪しい者じゃないですよ?」
 
 部活終わり、同じテニス部と思われる大きな人と歩く日吉先輩との接触に成功した私は、これでもかというほど冷やしたスポーツドリンクを差し出したが、先輩はそれを一瞥したのみで、受け取ってはくれなかった。
 
「大体、お前誰なんだ? 馴れ馴れしいぞ」
「日吉!」
「先輩に憧れる、ただの後輩です」
 
 そう言うと、日吉先輩は一層不機嫌そうに眉を顰め、大きくため息をついた。
 
「はっきり言うが迷惑だ。他を当たってくれ」
「誰でもいいわけじゃないんですよ」
「鬱陶しい」
 
 冗談などではなく、素直な侮蔑が込められた口調だ。
 
「·····俺には、そんな暇はないんだよ」
 
 私に届く前に地面に落ちるような弱々しい言葉を吐いて、先輩は私の横を通り過ぎて行ってしまった。
 
「ごめんね。悪気はない·····と思うんだけど」
 
 大柄な先輩が二人、残された私を励ましてくれる。小さくなっていく背中は、やっぱり棒が入っているかのように綺麗に伸びていて、思わず百合の花を連想してしまうような美しさだった。
 
「知ってますよ。きっと、素直じゃないんですよね」
「·····日吉と初対面なんだよね?」
「はい。ほぼ」
「どうして、そう思うの?」
「躊躇いなく泥だらけになれるんですよ。あんなに綺麗なのに。悪い人なわけないです」
 
 よく分からないと言いたげに首を傾げる大きな先輩だが、聞くだけ無駄だと思ったのか、それ以上は何も聞いてこなかった。




「日吉先輩」
「··········またお前か」
 
 次の日、学校中を探し回って図書室で先輩を見つけた。なぜ図書室か分かったかというと、以前友人が言っていた『怖い本を読んでいる』という話しを思い出したからだ。
 嫌悪感を隠そうともしない日吉先輩に、私は気にせず袋を差し出した。
 
「中身はカフェテリアで買ったカップケーキです。これなら出処もはっきりしてるので怪しくないですよ」
「昨日、迷惑だと言ったはずだが」
「あ、おから味なので甘いのが苦手でも大丈夫ですよ。心配しないでください」
「·····」
 
 無駄だと悟ったのか、先輩は私を無視して出入口の方へ向かう。もちろん私も後ろからついていく。
 
「ついてくるな」
「カップケーキ嫌いですか?」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ、何ですか?」
「お前が問題だ」
「私が? 何の変哲もありませんよ」
 
 先輩は急に立ち止まり大袈裟に私の方へ振り向くと眉間に皺を寄せ、ぐっと私へ顔を寄せた。
 
「何度も言うが迷惑だ。二度と俺に話しかけるな」
「·····先輩」
「なんだよ」
「··········近くてドキドキします」
 
 先輩はぎょっとした顔をして私から大きく距離をとる。そこまでされると傷つくなあ。言うんじゃなかった。
 
「とにかく! もう俺には近づくな。次話しかけられても無視するからな」
 
 そう言うと、昨日と同じように早足で去ってしまった。




「先輩、今日はポテチにしてみました。しょっぱいやつですよ!」
「·····」
「あ、でも、手が汚れて本が読みづらいですね。·····すみません、気が利かなくて」
「·····」
「次からは手が汚れないやつにしますね」
「おい」
「はい?」
 
 呼ばれてから気がついたが、辺りが静かだった。どうやら先輩の後を付け回して、気がつけば人気のない場所に来ていたようだ。
 目が合うと、先輩は怒っているでもなく、なんとも複雑そうな表情をしていた。
 
「何でそこまで俺に拘る? 俺たちは、ほとんど喋ったこともないだろう」
 
 そこで先輩の表情がようやく読めた。
 戸惑い。私の行動が分からなすぎて、もはや怒りを通り越して不思議なのだろう。
 
「だから言ってるじゃないですか。憧れてるんです。日吉先輩のこと」
「それが分からないと言っている。俺とお前は初対面だ。気に入られるようなことなんて何もない」
「先輩の優しさに惹かれたんです」
「俺の何を知ってる」
「少なくとも、今こうして私と話してくれてる時点で、先輩が優しいのは間違ってないです」
「それはお前がしつこいから──」
「無視するって言いながら全然無視できてないですよ」
 
 私がクスクス笑うと、先輩はバツが悪そうに舌打ちをする。
 そう、先輩は優しい。鬱陶しく付き纏う私を邪険にしながらも、最後までは突き放せない。結局、情に絆されこうして私の相手をしてくれている。
 
「お前の狙いはなんだ」
「んー··········とりあえず、もっと先輩のことを知りたいです?」
「なんで疑問形なんだよ」
 
 ここにきて油断したのか、困ったような顔をしながらも初めて口元を緩めた先輩の表情に、流石の私も言葉に詰まってしまった。
 
「急に大人しくなって、今度はなんなんだ」
「·····先輩、ずるいです」
「は?」
 
 段々と熱くなる顔を隠すために顔を逸らすと、上から「相変わらず訳の分からん奴だな」と言われた。その声音は呆れたようなのに何故か優しくて。初めて先輩の背中を見た時のように、心臓がうるさく騒ぎ出した。
 
「·····ほら」
 
 俯く私の視界に、細長くて綺麗な、でも男性のごつごつとした無骨な手が伸びてきた。
 
「仕方ないから、今日は貰ってやる。早くしろ」
 
 恐る恐る先輩の手にポテチの袋を差し出すと「ありがとう」なんて言われて。何か言わなければと絞り出した「ドウイタシマシテ」は消え入りそうな上に外国人が初めて覚えた日本語のようなたどたどしさ。先輩の「なんだそれ」という笑いを含んだ言葉に、もはや苛立ちすら感じていた。そのため、「それくらい、しおらしい方が可愛げあるぜ」とからかうように言った先輩の背中に向かって我慢できず「意地悪!」と叫んでしまうのだった。
 
 
 
 
「先輩、はいどうぞ。今日はお饅頭です」
「昨日は仕方ないから貰っただけなんだが」
「じゃあ、今日も仕方なく貰ってください」
 
 先輩は小さく息を吐くと、「ありがとよ」と私の手からお饅頭を受け取ってくれた。それを横で見ていた大きな先輩は目をまん丸くして驚いた。
 
「二人、いつの間に仲良くなったの?」
「へへ、昨日からです」
「ふざけたことを言うな。仲良くなんかなってない」
「へー! 日吉も隅に置けないな」
 
 にこにこ笑い合う私と大きな先輩の横で日吉先輩が腕を組み、イライラしたように「話を聞け!」と眉を寄せた。
 それから何度も、先輩を探しては差し入れを渡し続けた。先輩は、いちいち文句を言いながらもそれを受け取ってくれる。特に長話をする訳でもない。渡したら二、三分会話して終わり。私はそれで満足だった。それを続けるうち、日吉先輩と一緒にいる大きな先輩とも、すれ違えば挨拶するような間柄になった。
 
「はい、先輩。今日はぬれせんです。嬉しいですか?」
「·····鳳か、樺地か」
「二人ともです!」
「あいつら·····」
 
 確かに、少しずつ違和感は感じていた。話したこともないような人から視線を感じたり、明らかに私のことを話してるな、という場面に遭遇したこともある。
 
「△△、大丈夫?」
「何が?」
「あんた最近、日吉先輩とかと仲良いじゃん」
「それで?」
「それを面白く思わない人も多いってこと」
「だろうね。でも、実際に何かされたわけでもないしなあ·····」
 
 そう思って気にしていなかった。知らない人にコソコソされたところでどうすることもできないし、特に実害があるわけでもない。放置に限る、と。
 なのに──。
 
「お前、こういうのは今日で最後にしろ」
「何でですか、急に」
「急も何も、俺は最初から迷惑だと言ってるはずだが」
「··········周りから何言われても、私は別に気にしないですよ」
「何の話しだ。俺が個人的に迷惑だと言っている」
 
 こんなとこに影響が出るとは思わなかった。いや、優しい日吉先輩のことだ、少し考えれば予測できたかもしれない。思い返してみれば、最近日吉先輩を見つけるのは人気のない場所ばかりだった。
 それに気づくと、私は自分の身勝手さを一気に痛感した。

「先輩·····」
「なんだ」
「私、迷惑ですか」
「··········ああ。何度も言ってるだろう」
「·····そうですよね。すみませんでした。私のわがままで、今まで付き纏って」

 先輩の顔は見れなかった。もし米粒ほどでも寂しさを感じてくれていたとしたら、彼の気遣いを無駄にしてしまうから。

 私から会いに行かなければ他学年の一人と偶然出会うことなんかそうそうあるはずもなく、でも目線だけは忙しなく彼を探す日々を送っていた。

「今日も会いに行かないの?」
「んー」
「まあ完全に目付けられてたしね。しばらく大人しくして落ち着いたらまた会いに行けばいいじゃん」
「んー」
「それにほら、他にも目を向けるチャンスかもよ? いい人沢山いるって」
「んー」
「··········聞いてる?」
「んー」
「·····あ、日吉先輩だ」
「っ··········もう、いないじゃん、嘘つかないでよ」

 きょろきょろ辺りを見回し怒る私の横からは大きな溜息。

「そんなに好きなら、告っちゃえばいいじゃん。付き合えたら、他も文句言える筋合いなくなるし」
「こっ·····! な、何言ってんの!? 私は別に先輩のこと好きとかじゃなくて、憧れてるの! 仲良くなれればそれでいいの」
「じゃあ先輩が他の人と付き合っても素直に応援できるんだ? もうお菓子渡したりできないよ」
「それは··········」

 私が、先輩を好き?
 いやいやいや、ないって。そりゃあ嫌いじゃないしむしろ大好きだけど、それはそういう好きじゃなくて·····。

「先輩が他の人とキスしても、別に何ともないんだ?」

 キス。接吻。口付け。先輩が、他の人と。例えばあそこにいる綺麗な人と。目を瞑って、肩に手を置いたりして、ゆっくり顔を近づけあって···············。

「へ、変なこと言わないでよ!!」

 思わず椅子から立ち上がって抗議すると、友人はにんまりと楽しさでいっぱいな笑みを浮かべる。

「いいと思うよ、私は別に」
「え?」
「周りから何言われようと、△△の気持ちが一番大事。そりゃ、心配ではあるけど」
「··········」
「でも、△△が本当に先輩のことが好きなら、もちろん私は応援するよ。誰を敵に回してもね」

 いつもふざけてばかりの友人から言われた真っ直ぐな言葉が固く凍った心に刺さって、ひび割れたそこから熱い何かがドクドクと湧き出てくる。

「··········私は」

 先輩のことが──。
 その先が言葉になる前に、私は走り出していた。目的地は分からない。ただただ思いつく場所を探し回った。

「はあ、はあ··········どこにもいない·····」

 お昼休みが終わるまでもう少し。上がった息を整えるため目に入った自販機にお金を入れ商品を選んでいると、とある商品が目に入った。

「··········もしかして」

 ボタンを押して落ちてきたそれを手に取って、私は再び走った。たいして早くない足を必死に回して。
 到着した場所を見回すが、人影はない。辺りを早足で探りに行くと、奥の方から何かの音が聞こえてきた。音を頼りにそこへ近づくと、自分の中の推測が確信に変わっていく。

「··········先輩」

 ユニフォーム姿でラケットを持った先輩は、私の姿に驚いて壁から返ってきたテニスボールを返し損ねてた。

「お前·····」
「教室とか図書館とか色んなところを探したけど見当たらなかったのでここかな、と思いました」

 文句を言われる前にまくし立てる私が足を進めると先輩は一歩後ろへ下がる。

「もう俺に関わるなと言ったはずだが·····」

 全く迫力ないですよ。
 先輩の目の前に立って見上げると、心底困ったような顔をしていた。申し訳ないと思わなきゃいけないのに、先輩にこんな顔させてるのは自分だと、私は不謹慎にも高揚感を感じていた。

「これ」
「·····?」
「あげます」

 差し出したのは、初めて先輩に渡そうとして受け取ってもらえなかったスポーツドリンク。

「·····だから、俺にはもう関わるなと──」
「そんなの先輩が決めることじゃありません」
「なっ」
「どんなに迷惑がられても嫌われても、私がどうするかは私が決めます。他の人にも·····先輩にだって、私の行動を決める権利はありません」
「·····横暴だな」
「知りませんでした?」

 得意げにして見せると、先輩は諦めたようにフッと表情を緩め、私の手からドリンクを受け取った。

「人の迷惑も気にせず、どれだけ断っても諦めない奴だからな。·····とっくに知ってたよ」

 どうなっても知らないぜ、とドリンクのキャップを捻る先輩に自然と言葉がこぼれた。

「世界を敵に回しても、私は先輩のことを諦めませんよ」

 ドリンクに口を付けていた先輩は、ゲホゲホと咳き込むと私を睨みつける。

「お前··········バカだろ」
「知りませんでした?」
「ここまでとは知らなかったよ」
「おっ、意外性で高ポイントですか?」
「バカはマイナスだ」

 もうすぐお昼が終わる。先輩は転がったボールを拾い、私の横を通り抜けていく。

「先輩。·····好きですよ」

 振り向く先輩を風が撫でる。流れる髪とその横顔は、初めて先輩を見た時を思い出させた。
 でも、あの時とは違う。私に向けられた瞳の温度が。

「勝手にしろ」
 
 友人の言う通り、先輩は天使じゃなかった。白馬にも乗ってないし迎えにも来てくれないし、むしろ会いに行っても嫌な顔されて追い返されるけど。
 日吉先輩は、私の唯一の王子様だった。




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