日吉に一発ストレートを




 今の時代、箸の持ち方まで多様化してきているらしい。
 彼女の箸の持ち方は昔なら矯正されるべきものだったかもしれないが、今ではそれさえも個性の一つとして受け入れられる。
 しかし、それでも彼女には矯正しなければならない理由があった。

――日吉の好きなタイプって、箸の持ち方が綺麗な人なんだって。

 どこからか聞いたそんな噂。彼女は今まで矯正してこなかったことを大後悔した。
 なので、とりあえずは毎日必死に練習してみることにした。大人用の矯正箸を購入し、素振りならぬ素掴みを繰り返した。箸の持ち方を変えたとしても、彼が、日吉が彼女に振り向いてくれる保証なんてない。むしろ、そんな確率の方が低いだろう。彼女もそれは分かっていた。日吉のことだ、周りに聞かれて仕方なく答えた程度の情報かもしれない、と。それでも、その微かな糸に縋り付きたいほどに、彼女は日吉に惹かれていた。

 跡部先輩のファンである友人に付いて行ったあるテニスの大会。

(あ、日吉くんだ)

 控え選手にまでもつれ込んだ試合に出てきたのは、毎日見る、冷たいあの横顔だった。大して仲良くもない、むしろ、話した回数は両手で数えられるかもしれないというほど。それでも、クラスメイトという接点しかなくても、最も親近感が湧く選手である彼を、応援せずにはいられなかった。
 しかし、彼女の応援は届かなかった。いつもは凛とした表情のあの彼が。涙を流して悔しがっている様子に、彼女は胸を打たれていた。コートの真ん中で涙を拭う日吉に、自然と彼女も涙が溢れていた。

 その日から、彼女は日吉のことが気になりだしていた。話しかける勇気はなかったが、彼にピントを合わせる頻度が格段に増えた。
 そうして分かったこと。彼は意外と可愛らしくて、優しい人なんじゃないか、ということ。先輩に絡まれれば面倒そうな態度を見せながらも後輩らしい表情も見せ、困っている人がいれば悪態をつきながら後始末をしてくれる。今までは意識していなかったため冷たい表情や態度、悪態ばかりに気を取られていたが、冷静に見ていると彼への印象は変わっていくばかりだった。
 それからはあっという間だ。彼を見る度に心臓が騒ぎだし、珍しく女子と話しているところを見ればチリ、と胸が痛む。完全に恋だ。ここまで来れば、日吉が何をしても彼女にとっては好感度が上がるだけだった。
 しかし、彼女と日吉に接点はない。いくら彼女が彼に惹かれているとて、それを表現する術を彼女は持ち合わせていなかった。そんな時に聞いた「日吉の好きなタイプ」の噂。日吉に一歩でも、いや半歩でも近付けるならば。彼女は、これに賭けるしかなかった。
 しかし今まで生きてきた十数年、染み付いた癖はなかなか取り難く、最初は物を掴むことさえ出来なかった。学校では今まで通り過ごし、家ではいつもより倍近くの時間をかけ食事をとった。そして寝るまで素掴みを繰り返し、起きれば朝食に時間をかける。
 そんなことを続けた結果、人前でも自然に食事出来る程の余裕が出てきた。今では学校の昼食でも、少しゆっくりではあるが、矯正した持ち方で食事をしている。ここまでくれば、単純に日吉が振り向いてくれることよりも、日吉のために自分がここまで努力できたことへの満足感が勝っていた。

(日吉くんのおかげだね。ありがとう)

 彼の背に向かい、まるでお祈りのように心の中で毎日手を合わせ感謝する彼女。そんな彼女の感謝の祈りが通じたのか、ある転機が訪れた。

「今日の日直、お前じゃないのか」

 いつものようにゆっくり昼食をとっていた彼女のお弁当に影が差す。彼女がその影の元をゆっくり目で辿ると、腕を組み、目にかかりそうなほど長く真っ直ぐな前髪から覗く切れ長な瞳が見えた。まさしくそれは、彼女が毎日遠くから眺め続けた彼、日吉のもの。
 彼女はあまりの驚きに声が出なかった。それまで聞こえていた周りの喧騒は一切耳に入らなくなり、少しずつ高鳴っていく心臓の音だけがドクドクと頭に響いた。箸を持つ手も宙で止まり、一切の口を聞かず目だけ見開いた彼女の姿は、傍から見れば、まるで彼女だけ時が止まったかのような不自然さだった。

「おい、何ボーッとしてるんだ」

 時間停止を解く日吉の一言に、彼女はハッと意識を取り戻し、口を鯉のようにパクパクと震わせる。

『あの、その、』
「はぁ。とりあえず、日直ならとっとと黒板消しとけよ」

 あの教師は怒ったら面倒だからな、と、眉間に皺を寄せ独り言のように文句を言う日吉に気の利く言葉など彼女に浮かぶはずもなく『ごめんなさい』と絞り出すだけで精一杯だった。今の彼女に日吉と会話できた喜びなどなく、溜息をつかれた、呆れられた、そんな負の意識に心が支配されていた。

「あと、」

 まだ何かあるのか。もう彼女の心はKO寸前、ボロボロだ。彼女から出せる手なんか最初からなく、日吉の次の一手に怯え、ただただ心をガードするのみ。

「お前の箸の持ち方、前より良くなってるな」

 急なアッパーを食らい、思わず顎が上がった。日吉の顔には先程まで眉間にあった不機嫌の印はいつの間にかなくなっており、少しだけ空気の緩みを感じた。

『練習、してるの』

 ここぞとばかりに彼女も応戦する。か弱すぎるが、先程まで一方的にボコボコにされていたことを考えると、ようやく見れる会話になってきたのではないだろうか。

「良いんじゃないか。精々頑張れよ」

 ようやく暖まってきたという彼女に、ストレートを一発だけ残して早々にリングを降りていく日吉選手。これは誰が見ても日吉選手の判定勝ちだろう。その理由は、彼女の顔を見れば一目瞭然だった。

****

 あれから彼女の特訓は過激さを増した。暇さえあれば素掴みをし、技を磨いた。彼女の持ち方は最初に比べれば格段に上達し、普通ならば誰からも文句を言われないレベルになっていた。
 しかし、彼女はそれで満足しなかった。今の自分はやっとスタートラインに立てただけ。「綺麗な」という文言に、彼女は拘ったのだ。綺麗さを演出するには食事の作法も関わってくる。こぼさないことは勿論、迎え舌、頬張らない、手皿、背筋。ミッションは山積みだったが、彼女は燃えていた。

「頑張れよ」

 彼のその一言が彼女に火を付けたことは明白だった。何度もあの場面を思い出しては顔を赤面させ、口元が緩む。そんな様子を見て彼女の家族は首を捻るが、今の彼女にはそんなことを気にする暇もない。来る日も来る日も、地道な特訓が続くのだった。
 あれは、本当にたまたま訪れた幸運。いや、毎日彼の背中に向かって心の中で手を合わせていたご利益か。どちらにせよあんなイベント、もう起こるはずもないと思っていた。
 しかし、幸運はまだ続くことになる。

「背が曲がってるぞ」

 またもや目の前のお弁当に影が落ちる。目で辿ると、いつか見た絶景。目の前にいる日吉の存在よりも彼の指導の言葉にいち早く反応してしまうのも、特訓の成果と言えるのだろうか。恋心が顔を出す前に無意識に伸びた彼女の背を見て、日吉は満足そうに口角を上げてみせた。

「詰めが甘いな」

 言葉は意地悪なのに、どうしてそんな顔で言うのだろうか。今まで数える程しか話したことのない彼女にとって日吉の微笑みというのは、爆弾と同等、それ以上の威力を有する。漫画のようにぼふっと音が鳴りそうな勢いで彼女の顔には熱が集まってくる。

「また抜き打ちで見てやるから、気を抜くなよ」

 見返り美人という言葉が彼女の頭に浮かぶ。サラ、と流れる細い髪の毛、流れるような目線、薄くて綺麗な唇。本人がどう思うかは別だが、美人という言葉が一番しっくりくる。

『分かった……』

 彼女の返事を聞いて、また少しだけ彼の口角が上がる。そしてそのまま、その線の細い髪の毛を靡かせて去っていった。
 彼女の箸を持つ手にぎゅっと力が入り、腰が痛いほど背筋が伸びる。彼に言われたことを意識しながら、と箸を進めようとするが、何故だかその手は途中で止まってしまう。おかしい。先程まで感じていた空腹がどこかへ行ってしまっている。むしろ、胸の辺りが苦しくて食事がもう喉を通る気がしない。

(私、重症だなあ……)

 残す訳にはいかない、と無理やり胃に入れたからか、いつもより満腹感が強い。「日吉くんダイエット」が出来そうだなあ、なんて考えが頭を過り、思わず苦笑いがこぼれる。

 ラッキーだと、彼女は呑気に考えていた。
 しかし、そんなものがずっと続くはずもなく。彼女は日吉という男のことを、甘く見ていたのだ。

****

「脇、開きすぎだ」
「手皿をするな」
「力が入りすぎだ」

 抜き打ちで見ると確かに言ってはいたが、彼女が考えていた5倍の勢いで怒涛の指導が入ってくる。
 初めのうちは最初の時のように一言残していくだけだったが、その回数は日に日に増えていき、数日経った今ではほとんど鬼コーチのようになってきていた。

『ちょ、ちょっと待ってよ! えっと、脇締めて、手皿はやめて、あとは……』
「背筋、曲がってるぞ」
『っ!』

 彼女の背中をトン、と何かが叩く。後ろを見ると、先程までは机を挟んで彼女の前に立っていたはずの日吉が、気付けば彼女の斜め後ろに移動していた。そしてよく見ると彼の指が、人差し指だけがピンと真っ直ぐに伸びている。その指を見た瞬間、彼女は自分が何をされたかを理解した。理解した途端、全身の熱が急激に顔に集まり出す。

「何だ。どうした」
『何でもない、です』
「変なやつ」

 日吉くんに言われたくない、と思ったことは内緒だが、フッと上がった口角に免じて許そう、と彼女は思う。

『日吉くんって』

 どうして私に……

『……箸使い、上手だよね』

 彼女は一つ言葉を飲み込んだ。それを聞いて、この関係が変わってしまうことが怖かった。

「お祖父様が厳しい人だったんだ」
『日吉くんのことを想ってたんだね』

 彼女の言葉に、日吉は少しだけ目を丸くし「そうだな」と少しだけ優しい顔付きを見せた。その表情に彼の家庭環境の良さを垣間見ることができる。厳しくも暖かい家庭なのだろう。

『日吉くんのお祖父様も、日吉くんのこと大好きだと思うよ』

 彼女の言葉に、日吉は先程よりもっと目を丸くし、今度は頬を赤く染めてみせた。

「も、は余計だ!」

 好きとかそんなんじゃない、尊敬してるんだ、等と屁理屈を捏ねてはいるが、彼の焦りようと表情を見ていれば誰でも分かる。そんな彼を見て、彼女は堪えきれずクスクスと笑う。やっぱり日吉はただの冷淡な人ではない。感情表現が薄いだけで、近くにいればこうして色々な表情を見せてくれる。そう思うと、彼女の胸はきゅうっと甘く締め付けられた。

「ったく。そんなことより、手が止まってるぞ」

 まだほんのり頬を染めた顔で言われたところで迫力もない。それに加え不機嫌の印が眉間に刻まれているが、今の日吉を彼女が怖いと思える訳もなく『可愛い』と口から出てしまいそうな本音を抑えるのに精一杯だった。

『日吉くん、顔赤いよ』
「っ……お前がいきなり変なこと言うからだろ..そもそも、お前の方がいつも顔赤いくせに……」
『え!?』

 珍しく彼女が優勢だったのに、一方的なのがお気に召さなかったのか、日吉の急な反撃に彼女は素っ頓狂な声を上げる。その声に気を良くしたように、ニヤリとした日吉がグイッと彼女に顔を近づける。

「今だって」
『えっ、あ、あのっ!』
「フッ……変なやつ」

 クックッと小さく笑う日吉に、今にも顔から火が出そうな彼女は今日も完敗だ。

 今までは遠くから眺めるだけだったのに、今では隣で笑い合えるなんて。運が良かっただけかもしれないが、箸の矯正をして良かったと、彼女は心から思っていた。
 しかし、彼女は張り切って練習しすぎたのかもしれない。

****

「いいんじゃないか。よく出来てる」
『本当に?』
「ああ。もう俺が教える必要もないだろう」

 天国から地獄。褒められて嬉しかった喜びは、一瞬にして無となる。

『そっ、か……そうだよね……』
「上手くなったんだから、もっと喜べばいいだろ」
『そうだね、うん。やったー』

 あまりにも心のこもっていない彼女の喜び。
 だが、それを取り繕えるほどの余裕は今の彼女には残されていない。この細い繋がりが消えてしまう。そうすればまた、以前のように遠くから眺めるだけの日々。今までならそれで満足出来たはずなのに。一度贅沢を知ってしまった人間は、もう元には戻れない。

「……」
『……』
「……まあ、気が緩んでたらまた直してやる。気を抜かないことだな」
『うん……あの……ありがとう、日吉くん。沢山教えてくれて』
「別に、暇だっただけだ。それに、努力し上を目指す奴は嫌いじゃない」
『そっか……ありがとう』
「ああ。じゃあな」
『っ……』

 離れていく彼の背中。引き止めようにも、もう彼女にはその理由がない。これからも毎日同じクラス内にいるはずなのに、何故かもう二度と彼の近くに寄れない気がして、彼女は目頭が熱くなる。

(もっと練習サボればよかった……なんて言ったら、幻滅されちゃうよね)

「努力し上を目指す奴は嫌いじゃない」

 そう言った彼の言葉を思い出す。そもそも必死に練習したからこそ、彼が気付いてくれたのではないか。努力したからこそ得た夢。一時でも、それは十分幸せだった。零れそうになる雫をすんでのところで耐えながら、彼女は上を向く。

(ありがとう、日吉くん。振り向いてもらえるように、もっと頑張るよ、私)

****

「……」
『……』

 次の日、彼女の机を挟んだ目の前には、少しバツが悪そうな顔をした日吉が立っていた。

『どうしたの……?』

 彼女の中では感動の巣立ちを果たした昨日。もうしばらく日吉から話しかけられることはないだろうと思っていた彼女の元に、彼はやってきた。

「別に……ちゃんとやってるか見に来ただけだ」
『あ、ありがとう?』
「……」

 先程から彼女と目を合わせようとしないのに、立ち去ろうともしない日吉の眉間の皺は、いつも以上に深い。様子がおかしいのは明白だが日吉の性格上、素直に話すタイプでもないだろう。

『あ、そうだ……はい、これ』

 こんなこともあろうかと、彼女は秘策を用意していた。日吉から話しかけられることはもうないかもしれない。だったら、自分からいくまで。箸の矯正は努力して上手くいったんだ。なら次は。

 昨日、日吉の背中を見ながら立てた誓いを思い出しながら、彼女は鞄からある物を取り出した。

「これは……」

 伏せ目がちだった日吉の目が少しだけ光った。やはりこれで正解だったと、彼女は心の中でほくそ笑む。

『日吉くん、好きだって聞いたから。今までのお礼』
「……ありがとう」

 目を輝かせた日吉の手には、ぬれ煎餅。そんな目をされては、親に強請って苦労して探した甲斐があるというものだ。

『私、あんまり食べたことなかったんだけど……美味しいね、ぬれせん』
「ああ。醤油の香りがいい」

 煎餅を濡らすバカもいるが、とぬれ煎餅を見つめながらボソッと呟く日吉を見て、ようやく調子が戻ってきたなと彼女は安心する。
 日吉はしばらく手元のぬれ煎餅を無言で見つめた後、小さく舌打ちをして、やっと彼女に瞳を向けた。

「おい」
『どうしたの?』
「……お前、付き合ってる奴はいるのか」
『……えっ!?』
「どうなんだ」

 どうなんだと言われても、あまりに脈絡のない質問に彼女の脳は大混乱する。

『な、な、な、何で!?』
「いいから、どうなんだ」
『い、いない……けど』
「けど? なんだ」
『いません……』

 この時、彼女はもう日吉の顔を見ることさえ出来なかった。昨日固めた誓いを元に、これからは恥ずかしがってばかりではなく自分から話しかけようと決めたはずだったが。これはあまりにも予想外すぎた。日吉の口から「付き合ってる」なんて言葉が出てくること自体、考えたことすらなかった。

「そうか」

 いつもと変わらぬ彼の声に、彼女はちらりと上を見た。日吉と彼女が過ごすようになって少ししか経っていないが、彼女は彼の微妙な表情の変化について少しは理解してきていた。
 だから、分かった。少しだけ、ほんの少しだけだが、日吉の口の端が上がっていた。
 日吉は彼女の視線に気付くと、ふい、と目を逸らし「別になんでもない。じゃあな」と口を尖らせ、そのまま逃げるようにその場を去っていってしまった。

 残された彼女の脳内には、先程の日吉の口元が何度も浮かび、堪らなくなって机にうずくまる。本当は今すぐにでも大声を出して足をバタバタさせながら転げ回りたい欲を必死に抑えて。

(こんなのダメ……)

 狡い、と彼女は思う。どんどん都合よく膨れ上がる期待はとどまることを知らない。それが大きくなればなるほど自分が辛いだけだと知りながらも、自制は効かない。
 その後の授業も当然頭に入ることはなく、ふわふわとした余韻にいつまでも浸っていた。そのため、授業を聞いていないことが教師に見抜かれ雑用を任されたとしても、痛くも痒くもなかった。

****

 前言撤回、やはり痛かった。彼女に任せれた雑用は思った以上に膨大で、片付けるのに時間がかかってしまった。笑いながらお礼を言う教師に彼女は溜息が出そうだったが、自分のせいだと我慢した。おかげでお昼の余韻も完全に冷め、重くなった足取りで教室の扉を開けた。

「ご苦労だな」

 声がした方を見て、彼女の心臓が大きく跳ねる。何故まだ教室にいるのか等と考えるより先に、夕日に照らされた彼の美しさに見とれて。

「なんだ。人のことジロジロ見て」

 訝しげな表情をする日吉に、彼女はハッ我を取り戻す。

『まだ残ってたんだ』
「まあな」

 日吉の机の上には教科書とノート。宿題でもしていたのだろうか。ドキドキと騒ぐ心臓に耐えながら、彼女は帰るための荷造りをゆっくりとする。出来るだけゆっくりと。

 二人きり、夕方の教室。理由は分からないが、滅多にないその環境に、少しだけだが彼女はいつもより積極的になれる気がした。

『あのさ、』
「なんだ」
『日吉くんは、恋人いないの?』
「っは!?」
『日吉くんだってお昼聞いたじゃん……』
「い、いる訳ないだろ。恋愛にかまけている暇なんて、俺にはない」

 日吉のその返事に、彼女は勇気を出したことを後悔した。

『そ、そうだよね。テニス部、忙しいもんね』

 なるべく動揺を悟られないように返すが、荷造りをする手は震えだしていた。早くここから立ち去らなければ。そう考える彼女は、先程まではゆっくりと行っていた荷造りのスピードを上げ、鞄の中にどんどん物を詰め込んでいく。

「ああ。余所見する暇なんてない。俺は誰よりも強くなるからな」
『はは、かっこいいね』

 ここで取り乱す訳にはいかない、と感情を無にしている彼女の空返事に、日吉も様子がおかしいことに気付いた。

「おい。どうした」
『何でもない! じゃあ私、そろそろ帰るね』

 日吉の顔を見ないように、顔を伏せたまま教室の扉に手をかけ、横に引いた。が、扉は何かに突っかかり開かなかった。

「待て」

 後ろから声がして彼女が振り返ると、いつの間にか真後ろに日吉が立っており、彼の手が扉を開かないよう固定していた。所謂壁ドンと言われる体勢。あまりの距離の近さ、真上から見下げてくる日吉の瞳に、彼女の心は限界だった。
 我慢していた雫が、彼女の目から滝のように溢れ出す。

「お、おい……どうしたんだ……」
『日吉くんがっ……』
「俺?」
『期待させるからっ……』
「何を言って……」

 そう言ったきり、彼女は日吉に返事することなく、嗚咽を漏らしながらしゃがみこんでしまった。日吉はどうしていいか分からず、とりあえずはそっと背中を摩ってみる。
 しかし止まるどころか、より一層彼女の涙はボロボロと零れる。

「とりあえず落ち着け」

 日吉に女子の涙を止める術なんか持ち合わせている訳もなく、ただ困惑しながら様子を見ることしか出来ない。
 彼女の涙を止めることができるのは、日吉だけだというのが皮肉な話しだ。

『……き』

 その時、彼女が小さく何かを呟いた。

「何だ?聞こえない。もう一回言え」

 今度は聞き逃さないよう耳を近付け、神経を集中させる。

『ひよしくんがすき』

 はっきりと聞こえた言葉に、日吉は固まった。

『すきなの……』

 彼女がうわ言のように呟く好きという言葉の意味を日吉は考えた。友達か、仲間か。はたまた……
 その先を想像した途端、日吉の顔が急激に熱くなる。鈍感な日吉だが、この状況の『好き』が何を意味するのか分からない程ではない。そしてそれを理解すると、今まで自分が彼女へ言った言葉の残酷さも同時に理解した。

「……クソッ」

 目の前で悲痛な声を上げ続ける彼女。これが自分のせいだなんて、日吉は自分に腹が立った。
 日吉は一度小さく深呼吸をした。そして、彼女の背をゆっくりとさすりながら「聞いてくれ」と始めた。

「お前の気持ちは分かった。その……ありがとう」
「俺には遠回しな返事なんて出来ない。だから、思ってることを正直に言う。いいか?」

 日吉は、出来るだけ優しい声色で問いかけたつもりだった。それが通じたのか、彼女も少し落ち着いたようで、まだ肩を震わせながらも何度かこくこくと頷いた。そんな彼女を見て、日吉も覚悟を決める。もう一度大きく息を吸い、吐いた。

「正直……お前に恋愛感情があるか、自分でもまだ分からない」

 彼女の喉がひゅっと閉まる。覚悟はしていた。しかし、心のどこかでは期待していた。その希望が打ち砕かれた今、逆に涙は止まり、思考は急速に冷えていく。

「ただ……」

 まだ何かあるのか。もう彼女の心は完全にKO状態だ。出せる手はもう全て出し尽くした。日吉の次の一手に怯える必要なんて、どこにもない。

「……お前が他の奴と付き合うのは……嫌だと思ってる」

 急なアッパーを食らい、思わず顎が上がった。日吉の顔には不機嫌の印などどこにもなく、真剣な顔で真っ直ぐ彼女のことを見据えていた。張り詰めた空気だが、不思議と嫌な感じはしなかった。

『どういう、意味?』

 ここぞとばかりに彼女も応戦する。これ以上ない、渾身のストレート。

「そのまんまの意味だが」

 しかし日吉は、その渾身のストレートを無意識にひらりとかわしていく。

『好きじゃないのに、他の人と付き合うのは嫌なの?』

 これには彼女も猛反撃。もうストレート一発でリングは降ろさせない。判定勝ちなんて許さない。

「……好きじゃないとは言ってないだろ」
『じゃあ好きなの?』
「だから……分からないと言っている」

 こんなに自分の気持ちがはっきりしないことに、日吉自身も困惑していた。そして、彼女の刺さるような視線を受けながら、日吉はあることを思い出していた。

****

 ある日、日吉が祖父と話していた時だった。学校について聞かれ、部活以外では特段答えることがなかった日吉は、ふと思いついた彼女と箸の矯正をする日々について答えた。祖父は、きちんと最後まで面倒を見てやりなさいと日吉に伝えた後、間を置いてあることを問うた。

――その人物のことを好いているのか。

 日吉はその質問に思わずぎょっとしてしまい、慌てて否定した。
 しかし祖父は日吉のそんな様子に動じることなく、どっしりと構えて一言。

――もし大切ならば、男として守り通せよ。

 それを最後にその話題は終わってしまったが、日吉は祖父とその会話をしてから、ずっと頭を悩ませていた。

 彼女に恋愛感情なんて抱いていない。自分には、そんな時間などありはしないのだから。
 だが、なんだ? この胸に引っかかる何かは。

 日吉はそんな胸の引っかかりを抱えたまま、日々を過ごした。そんな時、ある話しが耳に入った。それは、よくある誰と誰が付き合っている等というくだらない噂話。いつもなら1秒で忘れてしまうようなくだらない話しが、その時は何故か、頭にこびりついて離れなかった。

 もし、〇〇が誰かと付き合っていたら?

 そんな疑問が頭をよぎった瞬間、日吉の胸には刺すような痛みが走った。その痛みの正体は何か分からなかったが、胸の引っかかりは増すばかり、苛立ちさえも感じる。そんなモヤモヤとした日々を過ごしながらも、難しい顔をしながら努力する彼女を見ていると、気にしても仕方ないと思っていた。
 しかし、そんな彼女との時間も終わりがきてしまう。彼女と過ごす日々がなくなれば、モヤモヤだけが残った。そして、それを見て見ぬふりをしてられるほど、日吉は器用ではなかった。

****

「この気持ちが恋愛かどうか、俺には分からない」

 初めて抱いた感情。これが恋か、どう判別すればいいか日吉には分からなかった。
 しかし、中途半端な気持ちで彼女の気持ちに応えるようなことも出来ない。八方塞がりだった。

『……日吉くんは狡いよ』
「……悪い」

 それは日吉が一番よく分かっていた。張り裂けそうな胸の痛みに、日吉の表情は苦しく歪んでいく。

『ねえ、日吉くん』

 日吉の手が何かに包まれる。視線を向けると、彼女の手が、日吉の手をきゅっと握りしめていた。

「っ、何を……」
『これ。嫌?』

 真っ赤な顔で上目遣いで聞いてくる彼女に、胸の締め付けが強くなる。心臓の異常な騒ぎ方に酸素を奪われ呼吸が苦しいが、必死に喉から言葉を絞り出した。

「嫌じゃ、ない……」
『……なら良かった。あのね。私はやっぱり、日吉くんが好き。諦めきれない』
「……」

『だから決めたの。昨日立てた目標、最後まで頑張ろうって』

 彼女が日吉を真っ直ぐ見据える。もう、先程まで涙を流して落ち込んでいた彼女の瞳ではない。

『日吉くんに振り向いてもらえるように、ちゃんと好きだと思ってもらえるように、頑張る』

 日吉の心臓が、また一段と大きく跳ねる。

『それはね、すぐじゃなくてもいいの。今はテニスに集中したいなら、それでいいの。そんな日吉くんが好きだから』
『でも、いつか……日吉くんに恋をする余裕が出来たら..私のことを思い出してもらえるように』

 頑張るね。
 ぎゅっと握られた彼女の手が熱くて、笑顔なのに潤んだ瞳があまりにも綺麗で。

「……好きにしろ」

 彼女の顔を直視出来なかった。

「お前も物好きだな」
『ふふ、知ってる』

 じろりと横目で睨むと、楽しそうに彼女はクスクスと笑う。からかわれているようでなんだか悔しい日吉は、赤くなった顔を彼女と反対方向に向けながら、未だ握られている彼女の手をきゅっと握り返した。笑っていた彼女は驚きで固まり、その手はどんどん熱を帯びていく。

「お前、いつも顔赤くしてるよな」
『……今は日吉くんだって赤いくせに』

 引き分けに終わったこの試合。お互い顔は合わせなくても、どんな表情をしているかなんて、その手の熱で分かってしまう。言葉に込めた精一杯の嫌味なんて意味をなさない。それでもお互い、特に日吉は、強がりを崩す訳にはいかなかった。

 この握った手を少しでも長く離したくないなんて。
 そんな本音が、溢れてしまいそうだから。

 日吉から彼女へのリベンジマッチも、そう遠くないかもしれない。





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