N.W.D -稲妻11別館-


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プレシャス・タイム 6


 時計の針が重なる。
 壁に掛けられたシンプルだが趣のあるそれは、鬼道の好みだ。豪炎寺はどちらかというとインテリアに対する拘りなんてほとんどないに等しかったから、二人で住むマンションの中には、至る所に鬼道の嗜好が溢れている。拘りはなかったが、一緒に購入に行ったショールームで熱心に店員と相談する鬼道の横顔を見ているのも楽しかったことを豪炎寺は思い出した。
 そんな些細なことにも二人で住んでいることを実感して幸せになれるなんて、直接口に出して言ったことはなかったが、時折ぼんやりしているときに視線を感じてそちらを向くと、同じように穏やかに口許を綻ばせていたりするから、きっとそんな自分の感情は、鬼道にはだだ漏れなのかもしれないと思って、けれどもそれさえもちっとも嫌ではないのだから、もうどうしようもない、と豪炎寺は柔らかく目を細める。
 そんな気持ちとは裏腹に、時計の頂端で重なった長針と短針が、日付が変わったことを無情にも豪炎寺に告げていた。
 鬼道が、持ち帰ってきた仕事が残っている、と久々に二人揃った夕食の席もそこそこに慌ただしく仕事部屋として使っている書斎に籠ってしまったのはかれこれ三時間程前。
 正直に言えば同じ家の中にいるのに寂しいと思わなくもなかったが、忙しいのはお互い様だ。グラスを軽く揺らすとからんと氷のぶつかる音がする。残り少なくなっていた中身を煽るように飲み干すと、豪炎寺は諦めたように立ち上がった。
 日付が変わったら相手を待たない。
 どちらが先に言い出したかは既に記憶も曖昧だったが、一緒に住み出してしばらくした頃にいつの間にか生まれたルール。
 互いに環境は異なれども、労働の対価として給与を貰う身であれば、体調管理を含めた自己管理は社会人としての最低限の務めと言える。好きだから一緒にいたい、とそう思う気持ちが昔に比べて目減りしたなんてことはちっとも思わなかったが、それでも互いが互いに迷惑をかけないための線引きは必要だったから、翌日に支障をきたすようなことは自然と減っていった。
 開く気配のない書斎の扉に一度だけちらりと視線を向けてから、豪炎寺はキッチンに足を向ける。夕食に使った食器は既に片付け終えてしまっている。互いに忙しい身だからと鬼道が付けた食洗機もあったが、豪炎寺はなんとなく横着するのが躊躇われて、どうしても手が回らないときにしか使っていなかった。
 グラスを大きく傾けると、中に残っていた氷がかつんとシンクに当たって軽い音を立てる。空になったグラスに泡立てたスポンジを当て、手早く洗い終える。
 勢い良く流れた水が冷たかった。
 もう一度、諦め悪く書斎に視線を向けて、ぴったりと閉ざされたままの扉に一つ溜息を零すと、豪炎寺は照明のスイッチに手をかけた。オフにした途端、ぱっと辺りが暗闇に閉ざされたが、慣れ親しんだ自宅であったから、不便はない。ほどなく足下を照らす常夜灯が灯る。
 ぼんやりとした明かりの中、もう一度書斎に目を向けた豪炎寺は、そっと口唇を動かした。
「無理するなよ」
 おやすみ、鬼道。
 寝室の扉をゆっくり押し開けるともう振り返ることはしない。せめて鬼道が眠るときに寒くないように、とひやりとしたベッドに潜りこんだ。


「ん……」
 ずっとパソコンと向き合っていたせいで、窮屈に固まってしまった全身を解すように大きく伸びをして、鬼道はディスプレイの隅に表示されている時刻表時に目を留め、やれやれと小さく息を吐いた。
「豪炎寺はもう寝たか……」
 返る答えがあるはずはなかったが、それは確信を籠めた呟き。明日が休日であったならばもしかしたらという可能性もあったが、一週間は始まったばかりで、当然明日も、試合はなくともチーム練習を控えた身である豪炎寺は恐らくもう熟睡しているに違いない。かくいう鬼道も明日も普通に仕事のある身であったから、そろそろ休まないと明日に響いてしまう。持ち帰った分の仕事も粗方、目処がついた。
 これなら予定には間に合いそうだ。
 無意識のうちに鬼道の口から安堵の息が漏れる。
 折角、夕飯時に顔を合わせたというのに、この仕事のせいでのんびりと会話することもままならなかったが、その分の成果は十分に上げられそうで、寧ろ、折角の恋人との一時までも犠牲にしたのだから、成果を得られない、ではやってられないな、とそんな甘えた思考さえしてしまう自分に、鬼道は自重気味に笑う。このまま終わりにして、豪炎寺の待つベッドに潜り込むという選択肢は酷く魅力的な誘惑ではあったが、どうせなら最後まで片付けてしまってもいいかもしれないと思い直し、仕切り代わりに珈琲でも淹れることにしよう、と立ち上がった。
 カップから立ち上る湯気が、薄暗いままのリビングにゆらりと揺れる。
 一緒に住み始めたとき、大半の家具は鬼道の好みで揃えてしまったが、ソファは豪炎寺の希望で買い求めた。勿論、本人は主張したつもりは微塵もないだろうが、ショールームで座り心地を試していたときに随分満足そうな表情をしていたのに気づかない鬼道ではない。これにしよう、と鬼道が口にしたときのほっとした嬉しそうな表情も、ソファに身を預けて正面に据えた大型の液晶テレビを見ているときの寛いだ様も、どの豪炎寺の姿も鬼道にとってかけがえないもので、そのソファに腰を下ろし、革張りの背に体重を預けるとゆっくりと鬼道の身体が沈む。
 鼻腔を擽る珈琲の薫り。
 脳にカフェインの効果が届くより先に押し寄せる睡魔に負けそうで、鬼道は拙いと思いつつ、僅かに残った意識でどうにかカップだけはローテーブルに置く。
 かつん、と硬質な響きがしたが、鬼道の意識はすでに夢現といった様子で、音を音として認識しているかは怪しかった。
 ゆるゆると眠りを誘う心地好い感触に、立ち上がらなければ、と僅かに残った鬼道の理性が警鐘を鳴らすものの、身体はここ数日で蓄積していた疲労感をここぞとばかりに訴える。寝るならベッドで寝ろ、と豪炎寺の声が聞こえたような気がしたが、霞がかった意識では夢か現実か区別できず、五分と経たずに鬼道は意識を手放した。


 豪炎寺は、試合を伴わない取材などの仕事での外泊のときは別として、基本的には起きたら朝まで目が覚めないタイプの人間だったが、それは主に腕の中に鬼道がいれば、という前提であることを本人だけが知っていた。
 夜中に目が覚めた豪炎寺は鬼道がいないことに小さく嘆息し、携帯電話に手を伸ばして時刻を確認する。暗がりに慣れた目に画面の光が少し目に痛かったが、軽く瞬きを繰り返すうちに馴染んでくる。味気ないデジタル時計が、深夜を示しているのにもう一度、溜息を吐き出すと身を起こし、寝室の扉に手を掛けた。
 リビングから漏れる光に、鬼道、と名を呼んだが返事はない。消し忘れたのか、と僅かに首を傾げた次の瞬間、ソファに身を預けて瞼を伏せた鬼道の姿に、まったく、とやや苦々しい口調で呟きながらも、鬼道に向ける声は柔らかい。
「寝るならベッドで寝ろ」
「ん……」
 豪炎寺の声に一瞬、ぴくりと瞼が動いたが、それ以上、覚醒する様子はなかった。
「まったく」
 独り言同然の苦言は、鬼道の意識に届くことなく、宙に溶けるように霧散する。
「無理しすぎだ……」
 起きているときには面と向かっては口にしない言葉を思わず洩らしてしまい、はっと様子を伺ったが、鬼道に起きる気配はなかった。
 豪炎寺の言葉に、すっかり夢の世界に落ちたらしい鬼道の口許が緩む。
 成長した今も寝顔は何処か幼さを残しているようで、あどけないその表情に愛おしさが増す。
 豪炎寺は起こさないように慎重に鬼道の身体を抱き上げた。
「鬼道、手」
 首に回して、という豪炎寺の声が聞こえているのかは分からなかったが、事実、鬼道の腕は豪炎寺を探すようにゆるゆると持ち上げられる。
 しがみつきやすいように首を傾けて、ちゃんと掴まってろよ、と落とされた囁きに応えるように胸許に押しつけられた頬に、だらしなく口許が緩むのを抑えられない。
 鬼道が寝ていて本当に良かったと思いながら、豪炎寺は寝室に足を向けた。

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