N.W.D -稲妻11別館-


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プレシャス・タイム 2


 ベランダに面した大きな窓から見える世界が、薄いラベンダー色に包まれていた。
 陽が暮れるのが本当に早くなった。
 気温も日毎に下がっていくのが肌で感じられるようになっていたが、気密性の高いマンションの構造は、今の鬼道に外の空気の冷たさを伝えてはくれない。
 折角の休日があと僅かで終わってしまうと思うと少し寂しい気持ちを覚えながら、片手に広げていた読みかけの本も残り数ページとなったところで、鬼道は掌中のグラスを揺らす。
 ちゃぷんと深いワインレッドが波打った。
 夕暮時とはいえ、こんな時間からアルコールを口にできる贅沢を香りとともにじっくりと味わう。叶うことならば一人よりも横に温もりがあればと思わずにいられなかったが、それこそ贅沢が過ぎるな、と鬼道は苦笑気味に頬を歪めた。
 ゆらゆらと揺れる液体を鬼道がガラス越しに眺めると、豪炎寺が自分の瞳のようだと言った深みのある赤のさらに向こうに広がる外界の景色は一刻事にその様を変えていく。
 ステムを傾け、口づけようとしたところで玄関から聞こえた物音に鬼道は耳を傾けた。テレビも何もつけていない室内は酷く静かだったから、普通だったら聞き洩らしてしまいそうな小さな音も鬼道の耳にしっかりと届く。
 早いな。
 壁に掛けられた時計に目をやり、鬼道は呟いた。
 今日は久しぶりに実家に寄ると言っていたので、てっきり夕飯も食べて帰ってくるのだと思っていたのに、何かあったのだろうか、とまもなく開かれるであろうリビングの扉にちらりと視線を向ける。
「ただいま」
 ほぼ同時にドアが音もなく開き、浮かない顔をした豪炎寺が帰宅の言葉を告げた。
「おかえり」
 ワイングラスをローテーブルに置き、顔を向けた鬼道の上に静かに影が落ちる。
「んんっ……」
 珍しく乱暴に重ねられた口唇。
 けれども、少しかさつきの感じられる表面をなぞり返そうと鬼道が応える前に、キスはそれ以上深まることなく、豪炎寺はあっさりと身体を起こす。
「渋い……」
 どさりと身を投げ出すように、鬼道の横に腰を下ろした豪炎寺が僅かに顔を顰めて、口許を拭う。薄らとワインに濡れた口唇が、てらりと照明の光を受けて煌めいた。
 普段は見せない乱雑な振る舞いが、そのまま内心の苛立ちを表しているのは分かったが、そんな仕草にさえ色気を感じると言ったら、呆れられそうだな、と鬼道は胸中でひそりと苦笑する。豪炎寺の体重を受けてマットが沈むのに任せて身体を斜めにした。
「貰い物だったんだが、気に召さなかったか?」
 そのまま、鬼道はくすりと目許を綻ばせると、豪炎寺の頬に指を滑らせる。出逢った頃よりも精悍さを増した相貌は、はっきりと陰りを帯びていて、鬼道は少し困ったように眉根を寄せて、掌をぺたりと押し当てた。
「それともワインどころではないか?」
 そのまま顔を寄せて耳朶を擽るように落とされた囁きに豪炎寺は小さく肩を竦めると、ふるりと首を振った。表情は冴えないまま、鬼道の身体をぐいと引き寄せ、その肩口に無言で顔を押しつける。
 その甘える仕草に、鬼道はぽんぽんと後頭部を柔らかく撫でた。何かあったか、とは敢えて聞かない。言いたくなったら勝手に言うだろうから、もう一方の手も背に回すと、無言で抱きしめるだけに止める。
 試合中は別として、普段はクールな面ばかりが目につく男の見せる珍しい一面を知っている人間はきっとそう多くはない。
 こんな風な豪炎寺を見るのは随分久しぶりで、鬼道の口許が自然と緩む。
「夕香が……」
「うん?」
 どのくらいそうしていただろうか。漸く気が紛れたのか、豪炎寺がぽつりぽつりと躊躇いがちに言葉を溢し始めたのを鬼道は気づかれない程度に安堵の息を吐き出しながら耳を傾けた。
「今日は友だちと約束あるから、夕飯はお家で食べてねって」
 前までは、オレが帰ったらお兄ちゃんって飛びついてくれたのに、と心の底からせつなそうに声を絞り出す様子に、まあ夕香ちゃんもそろそろそういう歳でも仕方ないだろう、と鬼道は胸中で思ってはみたものの、いたく傷ついているらしい豪炎寺の心に塩を塗りこむような真似をしては可哀想かと口には出さない。
 鬼道自身、数年前に春奈に似たようなことを言われたときは酷く落ち込んだものだったが、別々の家で暮らしていた自分たちと違い、夕飯を一緒に食べるという家族ならばごく当たり前のことを久々に立ち寄った実家で断られた豪炎寺のショックは余計に大きいのだろうと、慰めの意を籠めてもう一度、ぽんと静かに頭を撫でた。
「夕香に振られる日が来るなんて……」
 いつか来ると頭では分かっていても実際に直面すると感情がついてこないのだろう。鬼道は仕方ないと言うように、一度ぐいと豪炎寺の身体を押し返し、上体を起こさせた。
「……鬼道?」
 心此処に在らずといった状態で顔を上げた豪炎寺はぼんやりと鬼道を見る。
「オレがいるからいいだろう?」
 夕香ちゃんのような可愛げはないがな、とニヤリと口許を歪めると、そのまま豪炎寺の反応を待たずにぺろりと舌先で豪炎寺の口唇を擽るようになぞる。
「鬼、道……」
 呆然とした豪炎寺の珍しい反応に鬼道はくすりと笑みを深めると、今度はゆっくりと顔を傾けた。押し当てられた柔らかな感触に湧き上がる疼きに流されるように、豪炎寺は鬼道の後頭部に手を当て、自分からも強く重ね合せる。薄く開かれた隙間に誘われるように舌を捻じ入れ、鬼道のそれに絡ませた。
「ふっ……」
 逃がしきれなかった吐息が口唇の端から零れるのにも構わず、互いの舌を強く絡ませあう。
 くちゅりと唾液の溢れる音が聴覚を刺激した。
 もう随分と薄くなってしまっていたが、舌先に葡萄の甘みを感じて、アルコール分なんてもう微塵も残っていないのに眩暈のような痺れを感じる。
「少しは、」
 名残惜しげに離された口唇の間に透明な唾液が糸を引いて落ちた。
 鬼道が無雑作に手の甲で零れた唾液を拭う。
「気が紛れたか?」
 先刻までの艶めかしい空気など微塵も感じさせることなく、頬にぺたりと掌を当てた鬼道が、豪炎寺、と柔らかく微笑む。
「ああ、」
 豪炎寺は憑物が落ちたような気分で、すまないと力なく呟いた。
「気にするな」
 お互い様だろう。
 こつんと額を合わせて、鬼道がくすりと目を細める。
 すっかり暮色に染まった窓の外に視線をちらりと向けてから、鬼道は半分近く空けてしまったボトルに手を伸ばした。
「飲むか?」
 しかし、最初のキスを思い出したのか僅かに顔を顰めた豪炎寺に気づいた鬼道が、他のにするか、と苦笑する。
「いや、それでいい」
 その言葉にふるりと頭を振ると、時期物だしな、と豪炎寺は付け加えた。
 ラベルをちらりと見ただけなのに良く気づいたな、と鬼道は少しだけ驚きを覚える。ワインにはほとんど興味がなかったくせに、と思いながらも自分の趣味に馴染もうとしてくれているのが分かって嬉しくなった。
「グラス取ってくる」
「いい」
 弾む気持ちのままに立ち上がろうとした鬼道をけれども豪炎寺が制したことで、きょとんと不思議そうな視線が豪炎寺を見つめる。
「それでいい」
 許可の言葉を待つことなく、豪炎寺は飲みかけのグラスに手を伸ばした。そのまま濃いワインレッドの液体に口を付けると先程よりもはっきりと葡萄の香りと甘みが口中に広がる。
 行儀が悪い、と言葉とは裏腹に穏やかな眼差しで豪炎寺を見つめていた鬼道は、グラスの離れた口唇に滲んだ深紅に誘われるようにもう一度、自分のそれを押し当てた。

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