N.W.D -稲妻11別館-


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傍らにある一瞬と永遠


「っ……!」
 豪炎寺の掌がするりと首筋を滑っていく。
 耳朶に触れるか触れないか、ギリギリを掠め、後頭部に触れようとしたとき、鬼道の口から小さく息を詰めるような音が漏れた。
「?」
 僅かに顰められた表情は、けれども、その直後には、しまった、というように豪炎寺の視線から逃れるように背けられる。
「鬼道……?」
「……んでも、な、い」
 躊躇いがちに紡がれた言葉は、鬼道らしくなく曖昧で、当然、豪炎寺がそれで納得するはずもなく、下ろした髪に挿しこまれた指はそのままに、深みのある黒がひたりと鬼道の瞳を見据えた。
 外では決して外されることのない分厚いレンズは、今は影も形もない。
「鬼道」
 響きは優しいのに誤魔化されてくれる気は微塵もないらしい豪炎寺に、鬼道は、眉を僅かに下げた。
「本当に、なんでもないんだ」
 そのまま表情を豪炎寺の目から隠すように、ぽふんと胸許に額を押しつけると、鼻腔を覚えのある匂いが擽る。
 昔から無香の制汗剤程度しか使っていなかった豪炎寺に、気にいらなかったら使わなくてもいいから、と小さな小瓶を半ば一方的に押しつけたのも、もう随分昔の話だ。
 それは二人が少年と呼ばれる歳から青年へと変わり、メディアへの露出が増えたこともあって、女性ファンから贈られる品にもバリエーションが広がった頃。贈られた物への礼儀として一通り目を通していた最中に、応援してくれるのはありがたいが、こういうのは贈られても扱いに困るな、と困惑を隠さずに言った豪炎寺の手に乗せられたのは、当時、流行していたオーデコロン。
 柄ではないな、と照れたように言った割に、それ以降、時々、身に着けてくれていたのは、一緒にいるときにふわりと漂う香りで丸わかりで、鬼道がプレゼントしたのは最初のその一瓶だけだったから、あれから結構な年数が経っていることを考えると、自分で同じ物を買ったのだろうか、と思えば、胸の内にじわじわと穏やかな熱が広がっていく。
 何処の誰とも知れない女性に対抗意識を燃やすなんて我ながら女々しいと呆れつつも行動に移さずにはいられなかった当時の自分が懐かしく思われて、鬼道は小さく口許を綻ばせた。
「気にしなくていい」
 顔を上げた鬼道は、豪炎寺の眉間に寄せられた皺を解すように指先でぐいと押すと、それよりも、と続きを要求するように自ら顔を近づける。
 ぺろり、と口唇の表面を擽るようになぞられた豪炎寺は、諦めたように、ふぅ、と一つ小さく息を吐き出した。
 大人になって、こんな風に誤魔化すことばかり上手くなった気がする、と互いに口には出さずに胸中で密やかに溜息を零す。
 それは本当に些細なことだったり、口に出すことのできない仕事上のことだったり、様々ではあったけれど、相手の全てを知って独占していなければ気が済まなかった子ども時代とはもう違う、と物分かりのいい振りをしながらも、時折、ちりりと胸に微かな痛みを覚えては目を逸らしていた。
「豪炎寺……」
 キスを強請るように、首許に回した手を鬼道が引き寄せると、豪炎寺にもそれに抵抗する必要性は微塵もなかったから、逆らうことなく、嘘ばかり上手になった口唇を塞ぐように自身のそれを押し当てる。
 ソファーの背凭れに二人分の体重を預けるように全身の力を抜きながら、ゆっくり鬼道の身体を押し倒した。
「ん……」
 ちゅ、と軽いリップ音を立てて表皮を啄むように豪炎寺が口唇を重ねると、もっと、と鬼道が離れようとするタイミングで追いかける。
 上手くなったのは嘘だけではなかったな、と胸中で苦笑しながら、豪炎寺は誘われるがままに舌を挿し入れた。
 鼻から抜ける甘い声が互いの劣情を煽る。
 真昼間とは言わないにしても、カーテンを閉めていない窓の向こうはまだ夕闇には程遠く、秋の穏やかな陽射しが世界を照らしていた。
 大人になって、互いに社会的責任を抱えるとともに、自分の都合だけではどうにもできないことも増えたスケジュール。すれ違いを嫌って一緒に住み始めたものの、それでも朝におはよう、と夜におかえり、おやすみを言うだけの日も少なくはなかった。
 そんな最中に重なった二人の時間。
 傍にいられれば、それだけで満足できるなんて、そんな青い付き合いは疾うの昔に卒業していた二人が互いを欲するのは当然の流れで、まだ陽が高いなんてそんなことは意識の片隅にも上らない。
 ぬるりと歯茎の裏を舐められ、鬼道が音にならない息を漏らす。
 ぴちゃり。
 ぴちゃ、と触れては離れ、そして絡める所作の合間に濡れた音が零れる。
 分厚い緑色のレンズは外されていたが、瞼を閉じているせいで豪炎寺の好きな赤が見えないのが少し残念だった。
「ふぁっ……」
 だらしなく半開きになっている口唇の端から、たらりとどちらのものとも知れない唾液が伝い落ちていく。
 肌を伝う濡れた感触に不快そうに顰められた眉間の皺を、さっきの御返しとばかりにゆるりと撫でてから、豪炎寺は零れた唾液を舐めとるように舌を這わせた。
 後頭部に回した指先で柔らかな髪を弄りながら、豪炎寺はゆっくりと頭を下にずらしていく。
 首筋に感じる生温かい舌の感触は、快感とも不快感とも判断つかない。ただ、急所を差し出しているという事実からか、鬼道の心臓がどくりと跳ねた。
 無意識の内に漏れたらしい声に、豪炎寺が微かに口許を歪める。
「んん……」
 肌の上で零れる吐息が擽ったくて、鬼道は意識をそこから逸らす意も籠めて、眼前の頭部に指を絡ませた。
 さらさらと指の隙間から、色の薄い髪の毛が零れ落ちていく。
 家族を除けば、昔はきっと自分しか知らなかったであろうこの髪の柔らかさが、今は多くの人間の知るところになってしまったのが少しだけ残念に思われてならなかったが、こんな風に触れることが許されているのは、きっと自分を除けば妹の夕香ちゃんぐらいだろう、とそう思って鬼道は目を細めた。
 下ろされた前髪を掻き上げて、昔よりもすっかり色の濃くなった額に口唇を寄せる。
 髪の生え際を指先でなぞりながら、慈しむように触れていくと、擽ったいのか豪炎寺の眉間の皺が再び深まっていくのを見て、鬼道の表情が更に和らいでいく。
 整った相貌は昔から変わることなく、それどころか歳を重ねるに従って、ますます人目を惹きつけて止まなくなっている気さえしてならない。グラウンドの中で見せる熱さが嘘のように、普段は落ち着き払ったクールな天才ストライカー。それが昔から豪炎寺を評する言葉だったが、そんな男が自分の指先一つで感情を露わにするのを見るのが、鬼道は堪らなく好きだった。
「……っ!」
 積極的な鬼道に自分も負けじと、豪炎寺が目前に晒された肌に噛みつくように口唇を強く押しつける。
 鬼道が身に着けている上質のコットンよりも手触りの良い肌の上を、やわやわと口唇を這わせていく。
 普段、下ろした長い髪ときっちりと首許まで留められたシャツに隠された白い肌は、少しの刺激でじわりと赤い華を浮かび上がらせた。
 痕は付けるな、と煩いぐらいに言われたのは昔の話で、最近は諦めたのか、翌朝、鏡の前で僅かに口唇を尖らせる程度だったから、特に明日が休日の今日のような日ならば、何も言われはしないだろうと、豪炎寺は胸の内で算段して更にもう一つ、小さな華を散らす。
 その途端、鬼道が小さく息を詰めた。
「鬼、道……?」
 口唇の表皮に覚えた引っかかるような感覚と合わせて顔を上げた豪炎寺は、そこで初めて薄らと浮かび上がる淡いのいラインに気づいて息を飲む。
 先刻までは気づかなかった、というよりも存在しなかった一筋の傷。
 じわりと滲み出す赤い血に目を奪われた。
「多分、これだろう」
 ごくりと唾を呑みこんだ豪炎寺の心中に気づいていながら、身体を起こした鬼道の声には一切の乱れがない。
 先刻までの甘い空気が、一瞬で霧散したように消え去っていた。
「え……」
「何かに引っかかれたような気がしたのは分かっていたんだが……」
 これ、と鬼道が示したのは豪炎寺の左腕に填められた腕時計。
「どうやら、穴が広がってしまったようだな」
 鬼道に指摘されるまでもない。
 プレゼントされた当初はぴたりと合っていたベルト穴の位置が、気づけば微妙に合わなくなってしまい、けれども緩いと落ち着かなかったから、そのまま若干の無理を押して使っていたのだが、そんな使い方をすれば、当然、穴が広がってしまうのは自明で、留め具が外れかかっていることが最近は頻繁にあった。
「すまない」
 不注意とはいえ、自分のせいで鬼道の綺麗な肌に傷をつけてしまったことに、豪炎寺は小さく項垂れる。
「全く……」
 顔の脇にかかる髪の毛を掻き上げながら、鬼道はふいと顔を逸らした。
「なんでもない、と言っただろう」
「しかし」
 そう言われてあっさりと割り切れるような性格をしていないのは百も承知で、鬼道だってこれが逆の立場であったなら、今の豪炎寺以上に落ち込んでいただろうから、こんなところばかり似ていなくても良いものを、と一つ、小さく溜息を吐き出した。
 肝心なことは分からないことの方が多いのに、こんなときばかり理解できても何の有難みも感じられない。
 案の定、豪炎寺の表情は険しそうに歪められたままで、けれども、視線だけは傷口から貼りついたように離れない。
 違和感はあっても、豪炎寺が心配する程には痛みなんてほとんど感じていなかったのに、寧ろ、今の方がちりちりと焦がすような視線が痛みを引き起こしそうな錯覚さえ覚えた。
 代名詞とも呼べる必殺技そのままの焼けつくような熱さに鬼道は息を詰まらせる。
「こんな傷、すぐ消えるから」
 見て確認したわけではなかったが、小さな傷なんて、それこそサッカーの練習やら試合で、数えられないくらい重ねてきたのを知らないはずがないのに、心配ない、と眉を垂らした鬼道の言葉にも心浮かない様子の豪炎寺は、ぎり、と口唇を噛みしめた。
 綺麗な口唇が不格好に歪む様に、そっちの方がよっぽど痛々しい、と鬼道がそっと人差し指を押しつけると、柔らかな弾力が指の腹を押し返す。
「まだ使っていたんだな……」
 不意に、鬼道の視線が下方にずれたのを追いかけて、豪炎寺も自分の手許に目を向けた。
「ああ……」
 シャツの袖から覗く腕時計に指を添わせると、鬼道は丁寧な手つきで外して目の高さに掲げるように持ち上げた。
「幾つも時計を使い分けるような洒落た趣味は持ち合わせていないし」
 それに、と宙に揺れる時計にすっと指を添わせた豪炎寺が、少しだけ嬉しそうに口許を綻ばせる。
「鬼道がくれた物だしな」
「そう思うなら、もう少し大事に使え」
 けれども、ほんの少し口唇を尖らせて不満気に口にした鬼道に、豪炎寺は見る間にしゅんと肩を落とした。
 飼い主に叱られた大型犬のようなその佇まいに、鬼道は意地悪が過ぎたか、と苦笑する。
 冗談だ、と宥めるように付け加えられた言葉に、豪炎寺は顔を上げると、いや、と力なく首を振った。
「鬼道の言う通りだ……」
 忙しさを言い訳にして、時計屋に持っていくのを怠ったのは紛れもなく自分で、挙句、そのせいで鬼道に怪我を負わせてしまったなんて、何も言い返しようがない。
「すまない」
「気にしなくていい……それに、その時計は今のおまえには似つかわしくはないだろう」
 生まれて初めてアルバイトをしたのは高校生のとき。
 当時、小遣いは過分すぎる程の金額を養父からは与えられていたし、不動には金持ちの道楽と皮肉られもしたが、あのときはどうしても自分で得たお金でプレゼントを買いたくて、少し意地になっていた。中学のときと変わらず、毎日のようにあるサッカーの練習の合間を縫って、時間の遣り繰りをしたせいで、肝心の豪炎寺と喧嘩になったのもそのときが初めてで、鬼道にとっても思い出深い物ではあったが、所詮は高校生に買える程度の代物に過ぎない。
 どうして、それ以降、別の時計を一度も贈らなかったのだろうか、と今更ながらに後悔が湧き起こる。
「時間が分かれば十分だからな」
 ビジネスの世界では時計一つで交渉の成否が変わることもあったが、幸いにして豪炎寺はそんな世界とは無関係だったから、鬼道の手からするりと時計を奪い返すと、大事そうにその文字盤を指で撫でた。
「悪かったな。折角くれた物なのに雑な使い方をしてしまって……明日、時計屋に持っていって直してもらってくる」
「しかし……」
 納得がいかない様子の鬼道に、お互い、こうと決めたら我を曲げないのは悪い癖だな、と苦笑しながらも、豪炎寺も頑固と言われようと引くつもりはない。
「鬼道の初めてが詰まった大切なプレゼントだ。身に着ける着けないは別として、そのままにはしておけない」
 強い意志を内に湛えた漆黒の瞳が、じっと鬼道を見つめる。
 息の詰まりそうな沈黙を先に破ったのは鬼道の方で、分かった、とそれでもほんの少しだけ、むすりと頬を膨らませて渋々、頷いてみせた。
「だったら、オレが修理に出すから」
「鬼道?」
「もう一度……改めて、オレに贈らせてくれ」
 それは、と豪炎寺が言い淀んだところに畳みかけるように、鬼道が、頼む、と強い口調で言葉を重ねる。
「豪炎寺」
 一つ折れたのだから、此処は譲らないとばかりに宝石のような赤が鋭さを増す。
 天才司令塔と謳われた男の鮮やかな駆け引きを前にして、豪炎寺は、仕方ないか、と胸中で苦笑した。
「……分かった」
 ふぅ、と小さく息を吐きながら紡がれた豪炎寺の言葉に、鬼道の表情がパッと輝く。
 子どもの頃より余程素直な感情表現に、すっかり丸くなったな、と豪炎寺も密やかに口許を綻ばせた。
 鬼道も自覚はあるのか、少しだけ気恥ずかしそうに目許を赤らめると、そっと視線を外すように豪炎寺の手に握られた時計にもう一度、目を向ける。
 文字盤の上を秒針が滑るように進んでいく。
 細い秒針が十二の文字にかかると同時に、かちりと長針が一つその位置を移す。
 忙しない日常ではこんな風に時計を見ることもなくて、普段よりも時の進みが緩やかにさえ感じられてならなかった。
「そんなはずないのにな……」
「鬼道……?」
 怪訝そうな豪炎寺の声に、ん、と鬼道は笑みを返す。
「何でもない……それよりも」
 どれだけゆっくりに感じられたとしても、時間の長さは絶対の基準の下で定められているのだから、今こうしている時間も有限を消費しているのだから、無為に過ごすなんて勿体ない、と鬼道は豪炎寺の耳朶に口唇を寄せた。
「続きが」
 したい、と砂糖菓子よりも甘い囁きが鼓膜を震わせる。
 元々そのつもりだった身体は簡単に熱が灯り、下腹部に覚えのある疼きが広がっていく。
「っ……」
 けれども、眼下に晒された一筋の紅を引いたような首筋に豪炎寺は躊躇うように息を飲んだ。
「気になるなら、上から別の痕をつけたらいい」
 先刻のキスを思い出させるように、鬼道がぺろりと舌で己の口唇を舐める。濡れた表皮が、てらりと照明の光を反射して、豪炎寺を誘うように艶めく。
 鬼道に乗せられていると分かっていても、此処まで言われてしまっては据え膳食わぬは男の恥ではないが、可愛い恋人からの誘いを断る道理はなかった。
「そんな煽るようなことを言って、後で後悔しても知らないぞ」
「構わない」
 剥き出しの紅玉が、ゆらりと揺れて細められる。
「それぐらい、おまえが足りてない」
 にたりと歪められた口許に、豪炎寺は理性の糸がぶつりと切れた音を聞いた気がした。
 何年経とうともこんな簡単に煽られてしまうのが少し悔しくて、せめてとばかりに、同じくらい鬼道が自分に夢中であってくれることを願いながら、豪炎寺はその手に握っていた腕時計を静かにローテーブルに置くと、もう一度、鬼道の身体をソファーの背に押しつけるように体重を預けていく。
 重ねた口唇から二人分の甘い吐息が零れる中、文字盤の針は変わらないリズムで時を刻み続けていた。

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