私とあなたの罪と罰T
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 似ているな、と思った。

 決して、恐ろしくはなかった。
 ただ赤い目だけが、恐ろしいほどにあの人と重なって見えた。

「由香」

 ああ、いつもと同じ。
 何も変わらない。
 私があげられるものなんて、これくらいのものだから。

 ただ、気まぐれに手を伸ばされ食われるだけ。
 許してなんて言わない。
 謝罪の言葉を述べたところで届きはしないのは分かっている。
 体の一部が抜き取られていく感覚を感じながら、黙って瞳を閉ざす。
 私は黙って貪られていよう。

 だって私には、それ以外に何の価値もないのだから。

 *  *  *  *  *  *

「彼女は、強がっているだけなんだよ」

 由香の横を歩きながら、キースはおもむろに空を仰いで見せた。
 ロザリアにああ言われてしまえば、ただ屋敷を去る他に、由香に出来ることなど何もありはしない。
 あの後屋敷を去ろうとした由香に、山道は危ないだろうからとキースは由香に家まで送ることを申し出てくれた。
 日の光の中を二人してゆっくりと下っていく。
 木漏れ日だけが少女と鬼を柔らかく照らし出していた。

「……そんな風には、思えません」

 少女の歳の割にはしっかりとした言葉遣いだった。
 目を覚ました直後に見上げたあの目。
 穏やかではあったが、ロザリアは確かに由香を拒絶していた。

「少し不器用なだけなんだよ。このまま殻に閉じ込もっているだけでは駄目なことは、彼女自身分かっているはずだからね」

 空へと向けられた鋭い瞳の言外の意味など知らずに、純粋に並びたてられた言葉を受け取った少女は小さく俯くしかなかった。

「でも、わたし……。迷惑を掛けたんじゃ」

「そんなことはない。少なくとも、私は君と話が出来て楽しかったよ」

 由香は見上げた先の微笑みに強く手を握りしめた。

「由香」

 見上げれば、人の良さそうな赤い目にぶつかった。

「君さえよければで構わないのだけれど、あの子の、友達になってやってはくれないかい? 」

******

「あんたは馬鹿よ。大馬鹿だわ。私はここには近寄るなって言ったの。私のことなんて忘れてね。そもそも、なんでそこまで私のことを気にかけるのよ。意味分かんないのよ。普通ああまでされたら警戒するでしょう!? 馬鹿なの!? ええ、そうね。馬鹿に決まってる」

 後日再び屋敷を訪れた由香に対して、ロザリアは畳み掛けるようにしてそんな言葉を投げつけてきた。
 キースに通されたロザリアの部屋だという場所は、少女の部屋というには酷く大人びているという印象を受けた。
 二階の隅に位置する部屋の中は、屋敷の外見から想像される通り由香の部屋よりも遥かに広々としていた。
 中でも目を引くのが、天井まで伸びた巨大な本棚だった。
 重厚な背表紙には、小学校低学年の由香には読むことが出来ない、平仮名交じりの金文字が並んでいる。

「なんでって言われても……」

 天蓋付きのベッドに足を組み腰掛けているロザリアから、鋭い視線が飛んでくる。
 この部屋に入ってから、ロザリアは由香との距離を必要以上に詰めようとしない。
 手を伸ばしても届きはしない。
 近付こうと由香が足を一歩でも前に伸ばそうとした日には、一層視線が鋭くなるだけだ。

「わたしは、その……お姉さんと、お、お友達になりたくて」

 キースに頼まれたから、というのも理由ではあったが、由香にも少し思うところがあった。
 訪れたのは、長すぎる沈黙。

「キースに何を吹き込まれたのか知らないけど、私たちに近寄らないで」

 空で頬杖をつきながら、ロザリアの視線が一瞬窓の外へと向けられた。

「そんな目をして同情を誘おうとしても無駄よ。私の気持ちは変わらない。帰って。私は、あんたみたいな小娘とお近付きになる気は更々ない」

 下を向き黙り込んだ由香に、ロザリアは溜息を吐きながら視線を戻した。

「あんたこそ、こんな時間にうろついててもいいわけ? 」

 見たところ、由香は小学校低学年といったところだろう。
 外では太陽が燦々(さんさん)と輝いており、普通の子供なら学校に行っている時間のはずだ。
 少なくとも、こんなところで油を売っている場合ではないだろう。

「学校」

 由香が呆気にとられたように、ゆっくりと顔を上げる。

「今は、夏休みだから」

「……そう」

 妙に最近暑いとは思っていた。
 いつの間にか、そんな時期になっていたのか。
 どうりで堂々と上がり込んでくるわけだ。

「お姉さんは、夏休みじゃないの? 」

 純粋な眼差しが痛い。
 由香を責めるつもりが、墓穴を掘ってしまった。

 外見からすれば、ロザリアは中学生にしか見えない。
 ロザリアはあの頃に囚われたまま。
 前にも後ろにも進めずに、ぐだぐだと停滞を続けてしまっている。

 確かに、夏休みといえばそうなのかもしれない。
 長い休みに入ったまま、ずっと抜け出せずにいる。

「私のことはどうだっていいじゃない。……それよりあんた、家族は? 真昼間からこんなところに遊びに来て、親が心配するわよ」

 ふてくされた横顔を見せたロザリアに、由香は想定外の反応を返した。

「大丈夫だよ」

 最初に感じたのは、妙な違和感。

「私のことなんて、誰も気にしないから」

 やけに自分を卑下するな、と思った。
 イライラする。
 彼女のヘラヘラとした笑い方に、不意に何かが重なって見えた。
 鏡越しに何度も見てきた、かつての自分の顔。

 ああ、そうだ。
 似ているのだ。
 だからこそ、こんなにも癪にさわる。

「――不愉快なのよ」

 似ている。葵の背中に隠れてばかりいた、あの頃の自分に。
 けれど、彼女は宮裏華とは違う。紛れもない人間だ。

 震える深い青色の瞳を持った、平々凡々な少女。

 こんなことを由香にぶつけたところでどうなるというのか。
 身勝手なこちらの事情を、怒りとして吐き出していく。

「あんたは十分恵まれてる。私には決して手に入らないものを持っている。それなのに何よ、その言い方。……自分を大事にしなさい。あんたみたいなガキが、そんな言葉を使うのは間違ってる」

「えっと……、ありがとう? 」

 呆れた子供だ。
 知らず溜息がこぼれ出る。

「今の流れでどうしてそういう……」

 額に片手を当て目を閉じた瞬間、部屋の扉が開く音がした。

「おや、お邪魔だったかな」

 事件の元凶が、呑気にも顔を覗かせていた。

「今日は天気もいいし、せっかくだからお茶にでもしようかと思ったのだけれど」

 わざとらしく首をかしげて見せる男に、更に苛立ちが募っていく。

「あんたねぇ」

「君には聞いていない」

 笑顔で言い切ってから、再び由香に対して視線を向けた。
 ご丁寧に身をかがめ、由香に視線を合わせてやったキースに、あんたの方がよっぽどロリコンなんじゃないの、と背を向けながら心の中で毒を吐く。

「どうかな? 」

 不意に、伺うような視線を感じた。恐る恐る振り向くと、由香が困惑した様子でこちらとキースを交互に見ているところだった。
 睨みつけてやれば、びくりと由香の肩が小さく震えた。
 それをたしなめてやりながらも、キースはロザリアに鋭い視線を飛ばす。
 それでも由香に対してはひたむきに獣の牙を押し隠し、あくまで紳士を演じようとする男はロザリアには酷く滑稽に思えた。

「ああ、彼女のことは気にしなくていいんだよ。私は、君の意見を聞かせて欲しい」

 彼曰く、「ただの餌」に対しては行き過ぎた振る舞いだ。
 そもそも、キースの守備範囲から由香はあからさまにずれている。
 自分が楽しいならなんでもいいのだろうか。
 そうだとするならば、呆れた男だ。
 なかなか由香は答えを返さない。

「人の好意は素直に受け取っておくものだよ。……ケーキは好きかい? 」

 由香の瞳が輝いた一瞬を、キースは目ざとく捉えていた。

「なら決まりだね。……隣の部屋のバルコニーに用意してあるから、先に行っていなさい」

「キースさんは……? 」

「ああ、私は少し彼女と話したいことがあるから」

 立ち上がり、キースは由香の背を軽く押した。
 一瞬キースから向けられた赤い目に、ロザリアは鋭い視線を返す。
 扉の隙間から小さく手を振り、隣の部屋に由香が入ったことを確認すると、キースは後手に扉を閉めながら意味深な笑みを浮かべた。

「再度確認するけれど、君はあの子に手を出す気は微塵もないと。……そういう風に認識して構わないんだね? 」

 妙に含みのある言い方をするキースに、嫌な予感がした。

「あの子はまだ――」

「さすがに私も、子供に手を出す趣味はないよ」

 ロザリアの危惧を鼻で笑い、キースは再度口を開く。

「そうだな。彼女が大人になるまで……タイムリミットは10年といったところだろう。なに、簡単な話だ。 私にとられたくなければ、先に君が手を出せばいい。血をもらって、それでさよならだ。あとはもう関わらなければいい。記憶を消して、それで終わりだよ」

 歌うように口ずさんでいく男に、ロザリアは下を向いた。
 お前が彼女が大人になるまでに血を飲まないならば、こちらがもらう。
 由香を守りたければ、お前が先に牙にかけてみせろ。
 そうキースは宣言してみせたのだ。
 珍しいことを言うものだ。

「随分気が長いことを言うのね。……あんた、タイプじゃないでしょうに」

「勿体ないと思っただけだよ」

 ドアノブに手をかけ、ロザリアに背を向けた男はぼやく。
 彼曰く妹からは見えないとわかっていて、キースはゆっくりと瞼を下ろしていく。

「ただ、それだけだ」

――君さえよければで構わないのだけれど、あの子の、友達になってやってはくれないかい?

 水曜日の午後。緑の中は静寂に満ちている。
 時折聞こえる蝉の鳴き声と、鼻をかすめる夏の匂い。
 木漏れ日の中わざとらしく微笑んだ鬼を、由香は濁りない目で捉えていた。

「キースさんは、いいの? 」

「いいって……何のこと? 」

「キースさんは、お友達になってくれないの? 」

 変なことを言う子供だ。小さく目を見開く。

「私と君は、もう友達だよ」

「そっか……」

 平然と返しながら、どこか冷ややかに由香の静かな笑みを眺めている自分がいた。
 聞けば彼女は今年で七歳になるのだという。
 歳の割に、少女は酷く静かだった。
 邪魔にならないようにただ静かに、黙って部屋の隅に座っている。
 そんな様子が易々と想像できる。
 だからこそ、好都合だと思った。
 最初の食事は、扱いやすい人間に限る。

 彼女は内緒の友達の存在を、心のうちに秘め続けてくれるだろう。
 純粋で、疑うことを知らない。まっすぐな目をした藍色の少女。

 不意に、自分が酷く汚れた生き物のように思えた。
 何を今更、実際汚れた生き物じゃないか。
 こうして今も、由香の機嫌を伺いながらも、同胞の餌にしようとしている。
 柄にもない紳士の皮を被り、平然と世間話に興じている今だって、どうすれば再び屋敷を訪れてくれるだろうかとそればかりを考えている。

 とうの昔に消え失せたと思っていた微かな罪悪感が、きりきりとキースの胃を締め上げていた。

「こんなおじさんと友達なんて、君は嫌かもしれないが」

「おじさんなんかじゃないよ。……キースさんは、とっても綺麗だと思う」

 曇りのない青い目に、初めて、自分の顔を疎ましいと思った。

 * * * * * *

 キースの思惑通り、由香は屋敷を定期的に訪れるようになった。
 ロザリアは血を吸わず、キースもただ見守るだけ。
 三人の奇妙なお友達ごっこが始まってから、今日でちょうど二週間になっていた。

「あんた、少しは罪悪感とか感じたりしないの」

 戯れにぶつけた言葉に、キースは肩をすくめるだけだ。

「全く? 君こそ、そんなつまらない感情は捨て去ってしえばいいものを」

「……それが出来れば、苦労しないのよ」

 慣れた様子で屋敷へ向かってくる由香に、キースは二階のテラスから戯れに手を振っている。
 その横で腕を組み、ロザリアは頑なに由香から目を逸らし続けていた。
 そろそろ限界が近い。目に由香の姿を映してるだけで鼓動は早くなっていく。
 それはキースとて感じ取っているはずだ。
 理性では拒んでいても、体は血液を求めている。

「――殺したくないのなら」

 キースの視線は由香に向けられたままだ。

「自我のあるうちに、早めに彼女から血をもらっておくことだな。君が彼女以外の人間から自力で血を奪ってこれる、というのなら話は別だけれど」

「……分かってるわよ」

 分かっている。十分すぎるほどに分かっている。

「あなたこそ、最近『お友達』を連れ込んでないみたいだけど」

「生憎、君と違って私は外食している」

 じゃあ最初から外食にしろ。
 内心毒を吐いていると、背後から軽やかな靴音が響いてきた。
 バルコニーの柵に肘をつきながら、億劫なさまを装って視線だけを後ろに向ける。

「よく来たね」

 背後では、キースと由香が楽しげに談笑している。

「お茶の用意をしてこよう。それまで、頼んだよ」

 キースの気配が遠ざかっていく。
 今のうちに血をもらっておけ、言外にそんな意味を感じ、ロザリアは深く溜め息を吐いた。

「……大丈夫? 」

「大丈夫じゃない」

 柵に両腕を乗せ、その間に顔を埋めながら考える。
 どうして、こんな小娘に翻弄されているのだろうか。

「よく飽きないわよね、あんたも」

 何が楽しいのか分からない。こんな引きこもりと話していて何が楽しいのか。

「飽きたりしないよ。だって、キースさんもロザリアちゃんも、ちゃんと話を聞いてくれるから」

 まただ。時折感じる違和感。
 ヘラヘラとした軽い笑顔の裏に、計り知れない闇のようなものを感じる時がある。

「……ふーん」

「それに、二人ともとっても綺麗だから」

 由香の言葉は、聞いていてイライラする。
 綺麗。
 その言葉をこの数日で何度由香から聞いたことか。

 綺麗なんかじゃない。
 正体を知った時、由香は何を思うのだろうか。

 きっと、酷く軽蔑される。
 ああ、由香のことだ。怯えて泣くかもしれない。

 血が飲みたい。
 けれど、きっと殺してしまう。
 殺したくない。
 でも、体が疼く。

 ずっとその繰り返し。
 ああ、頭がクラクラする。

「ロザリアちゃん」

 耳元で声が聞こえた。
 ゆっくりと顔を上げていく。
 由香の顔が、目と鼻の先にあった。
 それを最後に、一瞬意識が飛んだ。

 一瞬、自分でも何をしているのか分からなかった。

 最初に感じたのは、今まで味わったことのない充足感。
 石鹸に混じり香ってくる、色鮮やかな血の芳香。
 久しぶりに味わうきちんとした食事に、全身の細胞が活性化していくのを感じた。
 全身に電流が走る。
 苦し紛れに口にした自身の血とは比べ物にならない。
 苦味はなく、ただ甘い。心地よい甘味に、ただ酔いしれる。

「……ん」

 声を漏らし、胸元までしかない小さな体を抱き寄せ、さらに首の奥深くまで牙を食い込ませていく。
 わずかに由香が身を震わせた時になってようやく、ロザリアは自分のしでかしたことの重大さに気が付いた。
 咄嗟に牙を引き抜き、由香の体を突き飛ばす。

 意識がはっきりとしていくにつれ、足元から血の気が引いていった。

 まだ状況が把握しきれていないのか、それとも血を抜かれすぎたからか、由香の焦点は定まっていない。
 ロザリアに噛まれた首筋を抑えながら、考え込むようなそぶりを見せる。
 生きている。殺さずに済んだ。そのことに安堵する。――けれど

「帰って」

 口元の血を必死に拭いながら、ロザリアは吐き捨てた。
 早く視界から消えて欲しい。
 合わせる顔などないのだ。
 呼吸は荒く、全身の震えが止まらない。
 由香は、ロザリアを軽蔑するだろう。化け物だと罵るだろう。

「私は、最初に、もう近寄らないでって言った」

 由香が何事かを口にするのを防ぐように、考えなしに口を開いていく。
 早く立ち去ればいい。あとはキースが何とかしてくれる。
 忘れて欲しい。そして、二度と姿を現さないで欲しい。

「それなのにあんたは、馬鹿みたいに尻尾を振って、……自業自得なのよ」

 歯を食いしばりながら、血を這うような声で告げる。

「ほら、軽蔑しなさいよ」

 心が、軋む。

「これで分かったでしょう? 私は綺麗なんかじゃない。だから――」

 だから、そんなにもまっすぐな目で私を見ないで。

「大丈夫」

 鼓膜を刺激する穏やかな声、先ほど自ら引き剥がした体。
 拒絶したはずの少女は、自らロザリアの腕の中に飛び込んできていた。
 ロザリアの体に頬を寄せ、小さな腕で慰めるように背を撫でる。
 行き場をなくしたロザリアの腕が、空を切る。
 息が詰まった。
 罵りの言葉も、呆れの言葉も、一切口をついて出ない。
 何が大丈夫なのか。
 大丈夫なんかじゃない。
 全然、大丈夫なんかじゃない。

「知ってたよ」

 由香の声は静かなものだ。
 慌てることもなく、純然たる事実として現状を受け止めている。

「最初から、分かってた」

 初めて出会ったあの時から、薄々は勘付いていた。
 キースとロザリアの目は、由香の身近にいる人間とあまりにも似過ぎていた。

 そうとは知らないロザリアは、体を硬くし、大きく見開いた目で黙って由香を凝視していた。

 似ているけれど、ロザリアとキースは、あの人とは違う。
 利用されていても構わなかった。束の間の優しさでも十分だった。

 初めて出会ったあの瞬間、ただ綺麗だと思った。
 眼下に広がるなんてことはない景色を眺める、憂いを帯びた横顔が。
 絶対的な強者にもなり得るのに、それを拒み続けている葛藤が。
 戸惑いを浮かべた赤い目が。こちらを睨みつける怯え混じりの風貌が。

「……馬鹿じゃないの」

 異常だ。
 気付いていたのなら逃げればよかったのに。
 関わらなければよかったのに。
 そんな言葉をかけられると、許されたような気になる。
 違う。決して許されてはいけないのに。
 償えるはずがない。死んだ人間が蘇ることは二度とないのに。

「……ロザリアちゃん」

 イライラする。

「うるさい」

 気にかけないで。

「泣かないで」

 優しく、しないで欲しい。

「黙りな、さい、よ」

 嗚咽混じりの声が漏れ出る。
 外は呆れるほどの快晴だというのに、ロザリアの視界だけが酷くぼやけていた。
 キースが戻ってきたら笑われてしまう。
 彼曰く、ただの餌であるはずの少女の言葉なんかに慰められている。

「いいから行きなさいよ! 」

 空を泳いでいた腕で由香の肩を掴み、引き剥がす。

「私は」

「いいから帰って! 」

 悲しくなんてない。
 傷付いてなんかいない。

 嬉しくなんか、ない。

 ロザリアの叫びに、由香は立ち去ることしか出来なかった。

 廊下に出て、背中で部屋の扉を閉めたところで、タイミングを計っていたかのようにキースが姿を現した。
 手に茶器は持っていない。
 神妙な顔で由香の前に立ちふさがった男は、まっすぐに見上げてくる少女に応えるように身をかがめて見せた。

「……知っていたのか」

「私の知り合いに、キースさんたちとよく似た目をした人がいるから」

 男は一瞬考え込むようなそぶりを見せる。

「キースさんは」

 呼びかければ、キースの視線はすぐさま由香へと戻された。

「私の記憶を、消す? 」

 苦虫を噛み潰したような顔をした後で、キースはどこか安堵するかのように息を吐いた。

「そうだね。……そのつもりだったけれど、由香はどうしたい? 」

 疑問に疑問で返した男は、由香の眼差しに応えるかのように彼女の瞳から目を逸らすことはなかった。
 いくら穏やかな気性をしていると言っても、流石に怯えぐらいはすると思っていた。
 だが、由香は逃げなかった。叫びもせず、泣きもせず、それどころか、ロザリアを気遣う余裕まで見せている。

「私は、忘れたくない」

 返された答えには、一瞬の迷いもない。

「そうか。では、私は友人の意見を尊重するとしよう」

 餌ではなく、対等な存在として。
 キラキラと輝く瞳でこちらを見上げてくる少女が、狂おしいほどに眩しかった。


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