愛の亡骸
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時は少し遡る。
真夜中の十二時。机に向かい、黙々と読書に勤しんでいた依織は、突如身体を襲った悪寒に、思わず本から手を離していた。
今丁度犯人が明らかになるという所だったのに、ページか分からなくなってしまったではないかと、無情にも閉じられ床に落ちた本を、眉根を寄せて睨みつけた。

椅子から降り、しゃがみこんで本を手に取ったところで、依織はおもむろに左胸に手を当てた。
心臓の鼓動が妙に早まっている気がした。
今夜は、空気が歪んでいる。
こんな夜は胸がズキズキと痛む。依織に警鐘を鳴らすかのように。
実家を出て、早二年。
久方ぶりに感じ取る、実家にいた頃には頻繁に嗅いでいた澱んだ臭気が鼻を突き刺していた。
この匂いは好かない。
だからこそ、依織はあの家を捨てたのだ。
立ち上がり本を机の上に置くと、窓の外を眺める。
欠けた月が嘲り笑うかのように依織を見下していた。

自室から出て、リビングを覗けば、叔母がいつもの様に能天気にテレビを見ながら晩酌を始めていた。
サバサバした男勝りの叔母が、依織には時々おっさんに見える。
見目はそんなに悪くない筈なのに、如何せん中身が問題ありだ。

「依織ー、ちょっと頼まれて」

間延びした声で、叔母は依織を呼びつけた。
一升瓶片手にダサいスウェットをまとった叔母こと倉橋蓮花(くらはしれんか)は、今年で確か28の筈だ。
もう少し綺麗にすれば嫁の貰い手もいるだろうに、彼女には結婚する気は全くもってないらしい。

「何?」

依織の無表情から何か不穏なものを感じ取ったのか、蓮花は訝しげに一瞬眉を顰めた。
そのまま近くにあった、ぼろぼろになった黒の長財布を引き寄せ、中身を確認するとちょいちょいと依織を手招く。
依織が億劫ながらも叔母のもとに近寄ると、彼女はおもむろに五千円札を取り出し依織へと差し出した。
嫌な予感に眉根を寄せ無言で五千円を睨めば、誤魔化すかのように蓮花は笑みを浮かべる。

「酒の肴が切れちゃってさー、ちょっとそこまで買ってきてよ」

「……なんで私が」

「居候なんだから、それくらいしてくれてもいいでしょー?」

拗ねたように頬を膨らませても誤魔化されないぞと、依織は無言の抵抗を続けた。
こんな田舎でも、都会の人は何を考えたか、依織の暮らすこの家から徒歩二十分程の場所に、数年前一軒だけコンビニエンスストアが出来た。
依織としては呑兵衛の蓮花の近くにコンビニを作るなんて馬鹿じゃないのかと思っているが、確かに便利なことは便利だ。実際何度か今回のように切れたつまみを買いに行かされたが、夜中だというのに案外にぎわっていたりするため、皆考えることは同じという事のようだ。

「おつりはお小遣いとしてあげるからぁー!」

とうとう子供返りまで始まった。これはいよいよ面倒になってきた。

「いおりーん、頼みますよぉー!」

「誰がいおりんよ誰が。……もう今日は飲むのやめたら?」

「飲まなきゃやってらんないのよー!」

涙声で盛大に叫んだかと思えば、ばったりと机の上に突っ伏したきり動かなくなってしまった。
もしや寝たか。これでお使いに行かなくて済むぞと内心喜んでいると、依織の期待を裏切った蓮花はのそり、と体を起こした。

「だってさ」

途端声を低くして無表情に呟いた蓮花に、依織は無意識にごくりと生唾を飲んでいた。

「……なーんか、今日は胸騒ぎがするのよ」

鋭利な眼差しを窓の外へ向けること数秒。
零された言葉に、依織はどきりとした。
そうか。この叔母にも確かにあの腐った家の血は流れていると言う事か。
目を伏せ、一人溜息を吐くと、依織は伯母から五千円を奪取した。

「……お釣りは貰うから」

「はいはい」

そう言って、再び蓮花は酒を飲み始めた。
叔母の気持ちは分からないでもない。こんな澱んだ空気では確かに嫌な事も思い出すだろう。飲まねばやってられないというのも一理ある。
飲めるものなら依織も飲みたいくらいだ。
とにかく面倒な事は早く済ませてしまおうと、依織は乱雑にポケットに五千円札を突っ込んだ。

「行ってきます」

「んー」

玄関から声を掛ければ間延びした声が返ってくる。この声を聞いていると、どうにも気が抜けてしまう。靴を履き、玄関を開ければ生暖かい空気が肌を包む。
依織は駆け足でコンビニへと向かった。

暗い夜道を駆け足気味で通り過ぎる。
もうすぐ梅雨の季節がやってくる、五月の下旬。気持ちの悪い湿気を持った空気が依織の肌を撫でる。
早く着け。早く。早く早く。
何度か暗い路地を曲がり、コンビニから漏れでる光を捉えた瞬間、依織はほっと胸を撫で下ろしていた。

(……何も起こる筈がない)

何を不安に思っていたのか。
自分でも呆れてしまう。
勢い良く拍動を続ける心臓に手を当て何度か深呼吸を繰り返す。
依織は素早く店内に入ると適当につまみを選び、迅速に店を出た。

外に出ると、再び気色の悪い悪寒が背を伝う。心臓が締め付けられるように痛む。

早く帰ろう。
明日からまた学校だ。

(青桐さんは上手くやったかしら)

彼女は今日がデートの日だと言っていた。
明日、事の次第を聞くのが楽しみだと、依織はうっすらと笑みを浮かべる。
最後にもう一度だけ深く息を吸い込み、依織は一歩踏み出した。
何事もなく依織の帰路は続く。
歩く度「地球を大切に!」という言葉とともにデフォルメされた猫のイラストが描かれたレジ袋がガサガサと音を立てて揺れる。
相変わらず胸を締め付ける痛みは続いている。むしろ歩く度に強くなっているような気さえする。

(結局、何もなかったじゃない)

杞憂で終わったようで安堵する。
あとふとつ角を曲がれば愛しい我が家が待っている。正確に言えば居候先か。
だがそんなことは今はどうでもいい。
とにかく早く伯母の元に帰りたかった。
そうして暖かい布団で眠ろう。

そんな事を考えながら慣れた動作で角を曲がった時、嫌な予感が現実のものとなった。

ああ、まただ。

初めに思ったのはそれだった。
呆然とするあまり、気付かぬうちにレジ袋から手を離してしまう。
ばさっという音を立てて、袋の中身がぶちまけられる。
目に入ってきたのは、かつて嫌という程見てきた色。
漂ってくる嗅ぎなれた死の匂い。
金輪際TVの中以外では見ることがないと思っていたもの。

外灯の灯りに照らされた、地面に広がっている赤黒いもの。
それは、間違いなく血痕だった。
しかも鼻血や切り傷では到底済みそうもない、間違いなく警察沙汰になるであろう多量の血痕。

呆然とした頭の中に浮かんだのは、逃げる、という行動だった。
確実に、ここにいるのは危険だ。逃げよう。逃げなければ。
ああ、それよりも警察を呼ぶのが先か。
しかしこんな時に限って携帯を家に置いてきた。なんてヘマをしたんだ。
だがしかし、警察を呼んだところで何の役にも立たないのか。

だってこれは、この独特の匂いはーー

ああ、そんな事より逃げなければ。何をしているんだ。

落ちた買い物袋をダッシュで拾い上げ、来た道を逆戻りしていく。
あの道を通らないで帰るのだとすれば、かなり遠回りになる。それでも構わない。今は早くこの場から離れなければ。
走りながら考える。あんなもの、初めに通った時にはなかった。なのにどうして。

(勘弁してよ……!)

逃げなければ。とにかく逃げなければ。
それだけを考えて全速力で走り続けた。
時間が時間だからだろうか、誰ともすれ違わない。誰でもいい、誰でもいいから、頼むから。
そして、体力の限界から息を整えるために一瞬立ち止まった瞬間。

「そんなに急いで、どこへ行く気?」

場違いなまでにゆったりとした声音が聞こえた。
焦る依織など露知らず、こつ、こつと、緩やかな足取りで背後から誰かが近寄ってくる。
誰でもいいとは言った。だが、背後から近寄ってくる気配は、明らかに常人のそれではなかった。
濃厚な死の香り。その根源。
死臭と、獰猛な野生の本性。
それに恐ろしいまでによく似た気配を依織は知っていた。
知っていたからこそ、動けなかった。
血と、それから、赤。嫌気がさすほどの赤色。
本当に、どうして、こんな事に。

「ねぇ?倉橋依織さん?」

覚悟を決めて、恐る恐る振り返る。
鈍く輝く赤い瞳を目にした瞬間、依織の意識はショートしていた。

* * *

「まァーだ懲りねェか、嬢ちゃん」

カッカッカッと、豪快に口を開けて男は笑った。深く刻まれた皺、歳の功は四十程。ボサボサの黒い長髪と伸ばしっぱなしの髭からは男のだらしなさが伺える。
それでもなお、男は美しかった。
服の隙間から僅かに覗く肉体は適度に引き締まっており、無骨ながら、洋画の中のスターにも勝るとも劣らない。
少なくとも思わず見とれ、立ち止まってしまう程には。それこそ、幼い依織が、何度もこの場所を訪れてしまう程には。

「あァ糞ッ!……そうだな、お前はそういう女だった」

ぐしゃりと自身の髪を何度か掻きむしり、男は実に面倒だといった様子を隠そうとはせず依織を赤い瞳で睨む。

「もういい、好きにしろ!……俺の負けだ」

両手を挙げて、降参を示すかのようにおどけて笑って見せる。
男が動く度にじゃらり、じゃらりと銀の鎖が擦れる音がする。
男は倉橋という家に捕らわれていたが、依織も捕らえられていたのだ。

「言われなくても」

美しく獰猛な黒い獣に。

* * *


それからどれほどの時間が流れたのか、耳を劈く轟音で依織は無理矢理意識を覚醒させられた。
痛む頭を無理やり動かし、辺りを見れば真っ暗だ。腕が動かないのを見ると縛られているのか。とすれば、箱の中にでも入れられているのか。何が目的か分からないが、意外な事にまだ生きているらしい。
死んでいないだけましなのか、はたまたそれより面倒な事に巻き込まれたか。
視線を幾らか動かしていると、一筋の光を見つける。
そこからなんとか外の様子を伺い見る。
最初に飛び込んできたのは目を見張る程に美しい金髪の少女だった。
間違いない。数週間前までクラスメイトであった少女、ロザリアだった。
どうなっているのか理解出来ず急いで彼女が睨みつけている方向を見れば、雨のように降り注ぐ硝子の破片により痛め付けられている青桐叶夜が目に入る。

(どうなってるの……?)

目が覚めたばかりだからか、頭があまり働かない。
ロザリアが依織を助けに来たとは到底考えにくい。だとすれば、彼女は純粋に青桐叶夜を殺しに掛かっているのか?
そもそもここは何処なんだと更に視線を巡らせる。
かなり散らかっているが、依織の正面前方には黒板らしきものが、ロザリアと叶夜の回りにはそこらじゅうが凹んだ机と椅子が。
それらを全て囲む形で存在する両サイドの窓は、正しくは窓であったものは粉々に粉砕されている。

まさかとは思うが、ここはもしや学校なのか。
そしてこの視線の位置。
ロッカーの中に閉じ込められていると考えるのが妥当か。

仮にそうだとして、どうして学校で吸血鬼同士が乱闘を繰り広げているのか。
何がなんだかさっぱりだと考えている間に、二人の対決にも終わりが近づいているようだった。

ロザリアが叶夜に止めを刺そうと馬乗りになりナイフを突き刺そうとした瞬間、ロザリアの動きが不自然に止まった。
そして、小刻みに体が震え始める。
下に組み敷かれている叶夜は余裕の笑みで何事かロザリアに投げ掛けている。

「ロザリアちゃんになら、殺されてもいいよ」

その話し方に違和感を覚える。
しばらく考えて、一つの考えに思い至る。

(幻覚……)

青桐叶夜はロザリアに幻覚を掛けているらしい。普通なら吸血鬼同士では幻覚等の精神干渉は効かないはずだ。
相手の吸血鬼が弱っている、もしくはよっぽどの格下相手だのするなら別の話だが。
それ程までにロザリアは憔悴しているという事か。

そうこうするうちに、叶夜はロザリアを確実に追い詰めていく。

「本当に、馬鹿だなぁ」

そう叶夜が発するのとほぼ同時に、背後から一人の少女がロザリアに対して金属バットを振りかざしていた。

セミロングの髪、おろしたての初々しい制服。可愛らしく、整った目鼻立ちのおかげか、彼女は兄共々日暮町ではちょっとした有名人だ。
無愛想な兄貴と違って、誰にでも平等で優しい可奈ちゃん、として有名な彼女が、無表情でロザリアを殴り付ける様は、普段の彼女からは想像がつかない。

「それに、こんなに面白そうな玩具を、簡単に潰す訳ないだろう?……君も、そう思わない?」

とことん下衆な所業に舌打ちすれば、叶夜の視線がこちらに向けられていた。

「ねぇ?倉橋依織さん?」

その言葉に動かされるように、ロザリアを無感動に睨みつけていた可奈が、依織の潜むロッカーの傍に近寄ってきた。
そうして、勢い良くロッカーの扉を開けると同時に、依織は前のめりに床に倒れ込んだ。
全身が痛い。痛みに顔をしかめていると、先程まで遠くにいた筈の叶夜がの靴が目に入った。

「ご感想は?」

叶夜はしゃがみこみ、床に倒れている依織の短髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。

「……悪趣味極まりない」

無表情で吐き捨てれば、さも愉快だと言わんばかりに男は口の端を上げる。

「それで?貴方は私をどうしたい訳?」

「簡単な事だよ。君はただ死んでくれればいい」

明確な怒りを込めて叶夜を睨み付ける。
やはりそう来たか。
男は少々依織の反応に不満そうだったが、それでも依然として余裕綽々とした態度を保ったままだった。髪の毛を掴む腕に力を込め、依織に顔を近づけて。

「でも君を殺す前に、少し確かめたい事がある」

そう告げて、叶夜は無情にも依織の服の胸元を躊躇いなく破ってみせた。
そうして、見たものにその目に歪な悦びを秘め、欲望のままに微笑んだ。

「元花嫁」

叶夜の愉悦混じりの言葉に、依織の眉間に深々とした皺が刻み込まれる。
叶夜が目にした場所にあったものは、色褪せた吸血鬼の花嫁であった証だった。
本来ならば赤色の花の形をしている筈のそれが、時が過ぎ酸化した血液のような黒いアイレンの花に変化している。

伴侶に先立たれた吸血鬼の花嫁は、元花嫁と呼ばれるようになる。
吸血鬼の花嫁の刻印を刻まれた時点で、その身に伴侶以外の男を受け止める事が不可能になる。

花嫁が吸血鬼を置いて死ぬという事は起こりえない。
吸血鬼の花嫁の刻印を刻み込んだ時点で、吸血鬼の命は花嫁のもの。
花嫁が死ぬと同時に吸血鬼の命も尽きる。
しかしその逆、何らかの事情で花嫁を置き去りにして吸血鬼の方が先に逝く、という事態は稀にではあるが起こり得る。

花嫁とは、通常銀の武器で心臓を貫かなければ死なない吸血鬼を、穏やかな死へと導く唯一道標。
この人の為なら死んでも構わない、そう思えた時初めて吸血鬼は愛したものに刻印を与える。

刻印は、吸血鬼が死んだ後も花嫁の身を他の吸血鬼から守り、その身が吸血鬼により侵される事はない。危険が迫れば刻印が痛みにより花嫁に危機を知らせ、どんな危険からも守り続ける。
守護のようで呪いのように深く刻み込まれた愛の残骸は、プラスにもマイナスにも働く。

今の依織にとって刻印の存在はプラスなのか、マイナスなのか。
少なくとも、叶夜にとっては「元花嫁」である依織の存在は格好の玩具らしい。

ニタニタと下卑た笑いを浮かべたまま、叶夜はおもむろにロザリアが落とした銀のナイフを手繰り寄せると、勢い良く依織に対して振りかぶってみせた。

刃が依織の肌を切り裂く直前、それは現れた。依織が目を閉じるのと同時に黒い閃光が胸元から迸り、叶夜を勢い良く吹っ飛ばし、壁に叩き付けていた。
依織自身、本当に身を守られるのは初めてだった。思わず目を見開くと、呆然として壁にめり込んだ叶夜を眺めていた。

一方叶夜は痛め付けられた筈だが、一向に気分を損ねた様子を見せず、むしろ気味が悪い程の上機嫌に悪寒が走る。

「不可侵、か。成程?元花嫁についての噂は本当だった訳だ」

ペッ、と血を吐き出して尚、叶夜は不敵な笑みを崩さない。つくづく、青桐叶夜という男の異端さを思い知らされる。
それどころか格好の実験動物に出会った研究者そのものの瞳で依織を射貫く。

「残念だったわね、私を殺せなくて」

切りつけられた右腕をだらんと伸ばしたまま、左手で額に押し当てながら、叶夜はゆらりと立ち上がった。
なんとか背に回され、縛られた腕のロープを解こうと身をよじるがなかなか解けそうにない。

「貴方の目的は何?私を殺す事が出来たとして、それで?……貴方は何がしたいの?」

ぴたり、と依織に近付こうとゆっくり歩を進めていた叶夜の動きが止まった。

「僕が何をしたいか、だって?」

依織の言葉を復唱し、叶夜はその顔に恍惚とした笑みを浮かべる。

「僕はただ、由香を僕の花嫁にしたいだけだよ」

暗い悦びを秘めた目で、何でもないことのように笑って見せる。
瞬間、ぞわっと依織の背に鳥肌が走った。
今この男はとんでもない事を言わなかったか。
いや、依織とて薄々勘づいてはいたのだ。
あの日、初めて校舎の窓から叶夜を見た時から、明らかに叶夜の目付きはおかしかった。
あれは単なる兄が妹に向ける眼差しではなかった。
もっとドロドロとした、体を這う様にまとわりつく、邪な視線。

「由香に、僕以外の選択肢なんて必要ない」

銀のナイフを手持ち無沙汰に弄んだかと思えば、叶夜は依織に向けて再び銀のナイフの切っ先を指示棒のようにして向けた。

この男は本気で血の繋がった実の妹を花嫁にしようと言うのか。
その為に、邪魔な存在である依織もロザリアも殺すというのか。

「君は邪魔なんだよ、倉橋依織さん」

狂っている。
正にその一言に尽きる。
この男は狂っている。
もうどうしようもないほどに、狂っている。

怒り、あるいは呆れ。
依織は青桐叶夜を間抜けに口を開けて見ているしか出来なかった。

「さて、君と話をするのもそろそろ飽きた」

ロザリアを術中に嵌めた時と同じく、叶夜は赤い目を鈍く輝かせた。

「確かに、僕には君を殺せない」

青桐叶夜の声が遠くに聞こえる。

「だから、君を殺すのは、彼女に任せることにするよ」

ゆらりゆらりと虚ろな目をして近付いて来るのは、人間関係に疎い依織でも知っている顔だった。
港可奈。この田舎町では有名なかわいらしい少女。誰からも愛されるアイドル。
その彼女が、叶夜から虚ろな眼差しで銀のナイフを受け取り、依織に歩み寄っていた。
彼女が青桐叶夜にお熱らしい、というのもここ最近では有名な話だ。

「貴方は……人の好意を何だと……!」

ゆっくりと近付いてくる少女から目を逸らし、床に横たわったまま噛み付くように叶夜に怒りの眼差しをぶつける。

「利用出来るものは、全て利用する主義なんだ」

子供のいたずらをたしなめるようなそんな顔で、下衆な言葉を吐き出す。

「むしろ、可奈には感謝して欲しいくらいだよ。……好いた男に尽くせているんだ。これ以上の幸福はないんじゃないかな」

感謝して欲しいくらい?
屈託の無い男の笑顔に反吐が出る。
持ち前の無表情をらしくなく嫌悪に歪め、依織はなんとか手首を縛っているロープを外そうと奮闘する
その間も叶夜は御託を並べ立てていた。

「ほんの少し笑いかけるだけで、すぐにぎゃーぎゃーぴーぴー喚き出す。好きだの愛してるだの、毎度毎度鬱陶しい。愛だの恋だの反吐が出る」

「愛だの恋だの反吐が出る!?汚らわしい!?貴方は青桐さんを花嫁にしたいんでしょう!?それは、貴方が青桐さんを愛しているからじゃないの!?」

だったら貴方の今言った言葉は矛盾している。
そう言おうとして、向けられたぞっとするほどの無表情に依織は言葉を失った。

「愛してない」

淡々と冷えきった眼差しで叶夜は語った。

「 愛していないよ。……心の底から愛し愛され、その身の純潔を捧げる? 馬鹿馬鹿しい。そんな物ただのおとぎ話だ。『子孫を残す為の行い』を『何の生産性も持たない、花嫁という歪んだ存在を生み出すための儀式』に昇華した吸血鬼達の綺麗事、とでもいえばいいのか。……まあ、そんな事、僕にはどうだっていい。……ともかく君だってその身を持って知った筈だろう?花嫁と吸血鬼の関係なんていうのは、所詮そんな物だ。……それとも何?君を花嫁にした吸血鬼は、本当に心の底から君を愛していたと言い切れるとでも?もしそうなら、君を残して先に逝く、何て事はしなかったんじゃないのかな?」


叶夜の言葉を聞き終わった時、依織は元の冷静さを取り戻していた。無表情を再び貼り付け、憐みの眼差しで叶夜と対峙する。

「可哀想な人」

少しずつ、しかし着実に。可奈は依織に近付いてくる。
依織は笑みすら浮かべ、そっと目を閉じた。

「貴方には一生、分からないでしょうね」

再び目を開いたのと同時に、心臓に鈍い痛みが走った。
可奈は虚ろな眼差しのまま、躊躇うことなく刃物を依織の心臓を突き刺していた。
ナイフを抜くと同時に、依織の胸から血が零れた。
横向きに寝そべり、意味もなく手を前に伸ばし何かを掴もうとする。
口からは血がしたたり落ち、間もなく視界も霞み出す。
それはきっと一瞬の事だったのだろう。しかし依織にはとてつもなく長いもの、それこそ今まで生きてきた十六年分の年月以上に感じられた。

今までの思い出が濁流のように脳裏を過る。

(友達になれたと思ったのに……なぁ……)

友達の兄に殺されるとは、笑うに笑えないじゃないか。
きっと罰が当たったのだろうな、と依織は薄れていく意識の中で思った。
のうのうと生きてきた罰が当たったのだ。

ざまぁみろ。

きっと『アイツ』だって嘲笑っているに違いない。
今に見ていろ、あの世に行ったらぶん殴ってやる。

ああ、もう、何も見えない。
何も、聞こえない。

前に伸ばした手が、力なく床に落ちた。



「僕には一生分からない……か」

教室は、途端にがらりと静かになった。
依織だったものの姿を視界の端に収め、再び窓の外を無表情で見詰める。

ただ叶夜は待っていた。
愛していないと断言した、かつて最愛、と称していた筈の少女の訪れを。


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