1.生起
目が覚めると、そこはどこかの宮殿の廊下のような場所だった。
天井にはステンドグラスで繊細な天使の彫刻が施されており、少女はぱちぱちと無言で廊下に大の字で横たわったまま目を数回瞬いた。
(どこかしら、ここ)
それが、少女が最初に抱いた感想だった。
天井の見事な細工など眼中にはない。自分が置かれているのがどういう状況なのか、少女はそれだけが知りたかった。
間違いなく、寝る前に自分はこんな場所にはいなかった。
少女は、ごく普通な学生だった。友達もおり、程々に勉学に励み、遊ぶ。そんな平凡な女子高校生。それが少女の現実だった。
その筈なのに、今少女が置かれているのは奇特な状況だった。
神聖な空気溢れる不思議な廊下で一人寝転がっている。
(ありえないわ……)
少女は、とりあえず起き上がることにした。いつまでもこんな変な場所で寝ている訳にもいかない。
立ち上がってみると寝ているだけでは分からなかった色々な事態が把握出来た。
先程は天井の状態しか把握できなかったが、天井以外の壁は、全面鏡張りになっていた。
永遠と続く廊下に自身の姿だけが写っていて、少女は薄気味の悪さを感じた。
それ以前に、少女は自身の服装に驚愕することになった。
(なにこれ……)
僅かにウェーブの掛かったブラウンの髪に、澄んだ海のような色をした目、そこまではまだ良かった。
少女驚かされたのは、纏っていた服に対してだった。少女が纏っていたのは、所謂ゴスロリといった類のレースが付いた膝丈程度のフリフリの黒いワンピースだった。
(私、こういう種類の服ってあまり着ないのだけれど)
少女は、今まで一度もこういった類の服は
日常生活では着たことがなかった。七五三や親戚の結婚式は除くが、こんなにフリフリした服はなかなか着る機会がなかった。
(夢ね、きっとこれは夢だわ)
少女はあまりに非現実的すぎる状況に、 これを夢だと思い込む事にした。
現代日本にこんな宮殿のような場所はないだろうし、誘拐にしても雑い。
誘拐してきた女をこんなに無造作に廊下に寝そべらせておくなんてありえない。
夢だと思えば、変に冷静なのにも納得がいく。
少女は、このままここにつったていても何も始まらないと、夢の世界を楽しむことにした。
こういう時こそ、ポジティブにいかなくては。
夢なのだから、醒める時にならなければ醒めないだろう。
そうと決まれば、まずは他人を探そうと少女は意を固めた。いくら夢とはいえ、一人で見知らぬ場所にいるというのは案外怖い。
カツカツと、履いているブーツが床を踏み鳴らす音だけが辺りに響き渡る。
キョロキョロと周りを見渡してみても、鏡に映る自分が見えるだけ。
道に分かれ道はなく、只々真っ直ぐな廊下がひたすらに続いている。
孤独だった。
無心に廊下を歩き続けた。
夢なのだから、そこまで必死に他人を探さなくてもいいような気もするが、何故か妙に不安だった。
怖くて怖くて堪らなかった。
そんな時、ふと背後に気配を感じた。
「っ……!?」
咄嗟に風を切って振り返ると、見覚えのない赤毛の男が、十指を開き胸の位置まで上げて、立っていた。
スラッとした長身に整った鼻筋。少女はあまり男性に興味というものを持ったことがなかったが、そんな彼女にも男は整った容姿に見えた。
かっこいい、素直にそう形容出来た。唯一の欠点といえば、その整った顔が不機嫌そうな仏頂面ということだけだろう。
男は、はじめヒラヒラとなにも持っていない事を表すように軽く両手を振っていたが、少女の容姿を確認すると、驚いた様に軽く目を見開いた。
「どちら様?」
「……緋人(アカヒト)」
睨むように少女が男を睨みつけると、彼は
ぼそりと辛うじて聞こえるほどの音量で、
そう、名のようなものを零した。
「緋人……?」
確認するように再度名を呼ぶと、彼はこくこくと肯定を表すように何も言わず静かに頷いた。
どうやら悪意はなさそうだ。
無口な上に、よくわからない男だが、誰もいないよりは幾分マシに思えた。
「……お前は?」
「え?」
黙ってこれからの事を思案していると、緋人と名乗った男が、その仏頂面を崩さずに少女の方をじっと見つめていた。
「名前」
「あ……」
そこまで言われてようやく、少女は問われている内容を理解した。
相手に名を聞いておきながら、自分は名乗らないというのも失礼な話だ。
だが、今回の場合、名乗らないのではなく名乗れない。
自分の名前どころか記憶すら分からないのだ。
「なにか事情でも?」
黙りこくってしまった少女に、緋人は恐る恐る尋ねた。
少女は、緋人の言葉に申し訳なさそうに目線を逸らしたが、何も語ろうとはしなかった。
「……そうか」
少女がだんまりを決め込んでいると、緋人は諦めたのか、それだけ言うと有無を言わさず少女の手を握りしめた。
そして、そのまま少女の腕を繋いだまま、ゆっくりと歩きだした。
「ちょっ……!?」
男の行動に咄嗟に声を上げてしまった。
意味が分からなかった。
どうして、緋人は見ず知らずの名乗りもしない女の手を、無言で引いているのか。
どうして、その足取りが少し、楽しそうなのか。
「……なんだ」
少女の困惑が伝わったのか、緋人はその歩みを止めて後ろを歩く少女を振り返った。
「どうして、手を引くの?」
「……さぁ?」
「さぁって……」
戸惑っているのは少女だけではないようだった。むしろ、手を引いている男の方が驚いている風に見えた。
「俺にもわからない。……ただ」
そうしなければいけない気がした。
そう言って、緋人は静かにその仏頂面を微かに緩め、笑った。
ただ、少女を落ち着かせたかったのかもしれないし、その真意はよく分からない。
だが、少女にとって、その腕から伝わる温もりは、只々、心地の良い響きを伝えていた。
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