『小さな聖堂と何も持たない男』後編
男は金貸しの言うことに従うことにしました。
そうしないと男だけでなく少年も幼子たちも路頭に迷うことになったでしょう。
男はひとりで逃げることなど、ちっとも考えませんでした。
この世界で、少年と幼子たちは男の家族です。
「兄さん、ごめんなさい。ごめんなさい」
少年は男に何度も泣いて謝りました。男は少年の頭を何度も撫でました。
仕方ないのです。自分で選んだのです。家族を守るために金貸しの言いなりになったのは、自分で選んだことなのです。
でも。
金貸しの言うことを聞くようになってしばらくしてからのことでした。
いつものように丘を下りて食堂へ行くと、食堂の主人に頭を下げられました。
「悪いけど、もう雇えないよ。金貸しの愛人になったんだろう?」
男は皿洗いの仕事を失いました。
少年が作っていたアクセサリーも誰も買ってくれなくなりました。
この町で力を持ち、より恐れられているのは、町長より神官で、神官よりも金貸しだったのです。
誰も金貸しの愛人となった男とはつながりを持ちたくないようでした。
男は金貸しの部下が呼びに来ると、丘を下ります。
金貸しの機嫌のいいときはいくらかのお金を投げつけられ、機嫌の悪いときには拳が振り上げられます。
金貸しのせいでますます苦しい生活になっているのに、金貸しが気まぐれに投げつけるお金にすがらないと生きていけない。
矛盾した、つらい毎日でした。
それでも少年や幼子たちがいるから、ぐっと唇をかみしめて耐えることができました。
日々は過ぎて行きました。
寝室の窓はガタガタ鳴ります。隙間風を防ぐことはできません。
食事を摂るだけで精一杯の毎日です。
そうした日々を送っている、ある日のこと。
身なりのよい紳士が訪ねてきたのは、初雪が降った日でした。紳士は男たち四人を不憫そうな目で見つめ、そして少年に問いました。
「君は間違いなく私の息子だ」
この紳士は少年の母親が巡礼の先で恋に落ちたという相手でした。
なんでも、結婚の約束をしたものの、紳士は家の都合で遠くへ行かねばならなくなったそうです。
手紙を送っても返事は来ず、振られてしまったのかと思っていましたが、何年経っても忘れられずにもう一度会いたいと少年の母親を探していたそうです。
「こんなところにいてはいけない。すぐに家に帰ろう」
「待ってください。ぼくは…。ぼくひとりでは行けません。みんな一緒じゃないと」
紳士はもう一度男たちを眺めました。
「町でここの話を聞いた。君たちはつらい生活をしてきたんだね。
だが…小さなふたりはともかく、そちらの男は一緒には行けない。この町の金貸しの愛人なんだろう?」
「そんな。兄さんはぼくたちのために仕方なく…」
男は思いました。神が少年を救ってくれる。
―いいんだ。気にするな。
幼子たちは旅行などしたことありません。
遠くへ行くから準備をしようと声をかけても、キョトンとしていました。
男が幼子たちのために、服や下着、ふたりが大切にしている積み木、それらを小さな鞄に詰め込みます。
そして。
―もし、困ったことがあれば使うんだ。
男は少年にお金を渡しました。苦しい生活の中で少しずつ貯めたお金です。
少年の父親は善人であるだろうけど、もし、万が一、少年と幼子たちに何かあったときのために。わずかなお金でもないよりあるほうがいいだろう。男はそう考えました。
「兄さん、これは兄さんが使ってください」
少年は受け取りを固辞しましたが、男はお金をぐっと押し付けました。
―いいんだ。これくらいしかできないから。
荷造りが済んだあと。
用意された馬車に幼子たちは目を輝かせましたが、男が鞄を持っていないことに気付きました。
「にいちゃ?」「にいちゃは?」
―兄さんはあとで行くから。いい子にしてるんだぞ。
「はあい」「はーい!」
少年も幼子たちも、きっとよい暮らしができるだろう。
仕立てのいい服を着た紳士が、少年と幼子たちをしっかりとした造りの馬車に乗せました。
丘を下りて行く馬車を、男はいつまでも見守っていました。
少年たちがいなくなって、小さな聖堂は寒くて暗い場所になりました。
だけど、男の帰る場所はここだけだし、ここから離れる気にもなりませんでした。
「お前は逃げるなよ。あいつらがどこに住んでるかは知ってるんだからな」
金貸しの男の元から逃げたら、少年たちに累が及ぶ。
男は金貸しに脅されましたが、たとえ脅されなくても聖堂から離れなかったでしょう。
幼子たちが手伝ってくれた小さな畑。少年が磨いていた祭壇。
それらを置いて、どこへ行けばいいのでしょう。
ある雪の夜。
男は祭壇の前に跪きました。
そして、この世界に来てからのことを思い返します。
なぜ、自分はこんな目に遭っているのか。
少年と幼子たちは、暖かいベッドで眠っているだろうか。
金貸しのことは恨むけれど、憎んではいません。
無体を強いられているけれども、この聖堂から追い出すことはしませんでした。
じゃあ、誰が悪い?
自分がこんな目に遭ったのは、誰のせい?
神のせい?
そう考えて、男は笑いました。大声で笑いました。
「悪いことを神のせいにするのは簡単だ。違う、神のせいじゃない。誰のせいでもない」
少年が救われたのは、父親が母親を愛していたからでしょう。そして少年自身が信仰を持ち、正しく生きていたからでしょう。
もし少年が不真面目で、怠け者だったら、あの父親がすんなりと少年を受け入れるのは難しかったでしょう。
「なんで、何もないんだろう。…何も持ってないんだろう」
小さく呟き、男はその場に倒れ込みました。
雪が降り積もる、凍える夜のことでした。
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