気まぐれ部屋 | ナノ




――なんの因果だろうか。

かつて母が罹ったものと同じ病にかかることになろうとは、思いもしなかった。健康な身で生まれ、とんと病に無縁だった。風邪すら数回ほどしか引いたことがない。その内の一回はインフルエンザだ。
病に伏せた俺に最も悲しげな顔を浮かべたのは、兄だった。
幼い頃に見た母の姿と俺の姿を重ねたんだろう。兄はまだ小さかった、たった10歳の子供だった。俺と違い、物心がつく年齢だった。父と違い、人の別れに慣れない年齢だった。

「今、大丈夫か」

こちらを気遣う声に薄らと遠ざかっていた意識が浮上し、重い瞼を持ち上げる。窓から入り込む光はカーテンによって遮られていて、俺にとって丁度いい明るさだ。

「うん、兄さん。おはよう」

俺を見下ろす兄の姿。しっかりと目が合うと安心したように息を吐き、袋を掲げてくる。

「夕方におはようはねえだろ、寝坊助。ほら、お前が気に入ってるシリーズの本、新刊が今日発売だっていうから」
「ありがとう。嬉しいよ、大切に読むね」

週に一回、定期的に見舞いに来てくれる兄のプレゼントを受け取って微笑み、背表紙を撫でた。

「最近は調子が良いんだ。お医者さんたちのお蔭だねえ」
「そうか、雨が続いてたから不安だったんだが……」
「ちょっと頭痛はあったかな?でも調子が良いからちょっとで済んだんだと思う」

ここ連日は雨で天候不良だったけれど、天気頭痛はあんまりなかった。その代わり身体が重くてずっと眠りっぱなしではあった、この事を言うつもりはない。

「そりゃよかった。……ん、中庭の花、咲いたんだな」
「うん!すっごい綺麗に育ったから見に行ってみて」
「ああ」

用意された個室部屋からよく見える中庭の景色。色々な花が植えてあるのに、日本でもポピュラーで育てるのも簡単な撫子の花がなかったから許可をとって種を植えさせてもらったのだ。ここのところ雨が続いたので心配だったが、今朝方元気に咲いた。

「二人の花があればもっと嬉しいんだけどね」
「もうスペースがないんだっけか」
「そうなんだ」

とても残念だ。だけど、撫子がある。大好きな母さんの花。これ以上の我儘は言うまい。

「ねえ、兄さん」

視線を撫子から兄に向けて、身体を向き直す。

「なんだ?」

あのね、お願いがあるんだ――――





「相変わらず美しいね。サクラ、で合っているかな」
「エルキドゥくん」

幹に当てていた耳を離し、瞼を開けて振り返る。エルキドゥくんがやってきてこの桜の木も喜んでいた。開花の時期を迎えて満開の花弁を咲かせる桜を見上げながら頷く。

「一つ一つがこんなにも小さい花なのに、重なるように沢山咲いて――うん、この可憐さに惑わされるものが出るのも、無理はない」

エルキドゥくんがそっと差し出した掌の上にひらひらと舞い散る桜の花。無垢純粋なその褒め言葉に、目尻が下がる。『花』が聞けば喜ぶだろう。今この場にいないのが残念でならない。

「この子たちは私の子供のようなものだからね、大切にしている」

だから厳重に保護魔術をかけている。心無きものに傷つかれないように、とまではいかないが、酒に酔った人がうっかり燃やしちゃったなんてことが起きたら不味いし。

「子供?君の半身だと聞いていたけれど」
「その意味でも間違いじゃない。私の気分、いや心構えの問題かな?もし花の形で顕れなかったら、桜という姿でなかったら、もう少しばかり異なる関わり方を選んだろうな」

そうだ。桜だったから、私はまるで親のように慈しんだ。もし、これが藤だったら。撫子だったら。

――桃だったら。

「思い入れがあるんだね」
「そうだね。必要も無いのに、つい世話を焼いてしまう。鬱陶しく思われていないかな?」
「大丈夫だよ、皆君のことを好いている」

この子たちは私によく言ってくれるけれども、面と向かって言えないこともあるのではないかと不安が過る時がある。エルキドゥくんが嫋やかな笑みと共に言ってくれたのも後押しして、桜の木々ににっこりと笑った。


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