大菊

 大石の部屋の少し古い時計の秒針の音が一秒一秒、やけにゆっくりと聞こえる気がする。あと、一秒だ。土曜日の深夜、日曜日に変わる瞬間。菊丸はごくりと喉を鳴らして、身を固くした。
 また、始まるのだろうか。いいや、あれは夢だったかもしれない。そんな葛藤をする間に、隣にいた大石が口を開く。
「おいで、英二」
 事もなげに、当然の振る舞いと言わんばかりに、大石が菊丸に向って手を広げる。さあ、おいで、と。その手のひらを振り払ったとして、もはや無駄なことだと菊丸は知っている。

 ◆
 
 事の始まりは、些細なことだった。
 元を辿れば、それは菊丸家の夕飯時に流れていた大石は見ないようなバラエティ番組だった。ふと、泊まりに来ていた大石の部屋で思い出したそれを、あれってホントなんかな? と零した菊丸は、財布をごそごそと探るなり、すぐに行動に移したのだ。
「あなたはだんだん、眠くなぁる」
「なあ、英二。そんなのプロじゃないんだし、中々かからないんじゃないかなあ……」
 糸に括り付けた五円玉をプラプラと目の前に揺らす菊丸に、大石は一応律儀にそれを目で追ってやりながら眉尻を下げていた。
「コラ、大石。真剣にやってよ! そんなのやってみなきゃ、わっかんないだろ?」
 だんだん眠くなぁる、とまだ当分終わらせるつもりも無いらしい相棒に、大石は小さく息を吐く。そもそも今日も日中は一日テニス漬けで、そのまま家に泊まりに来た菊丸と遊んで、すっかり夜も更けている。こんなちゃちな催眠術師が居なくたって、とうに眠気は大石を飲み込み始めていた。
 あくびを噛み殺して、大石はぼんやりと左右に揺れる五円玉を目で追いかける。
 今日、結構フォーメーション上手く行ったなあ、次の練習ではまた新しいのも試してみようかなあ、英二……まだ言ってるのか。だんだん眠くなぁるって。うん、もう眠いけどさ、寝ちゃって……いいのかなあ。
 そんなことを思ううちに瞼は自然に重たくなって、もう開けなくなってしまう寸前まで来ていた。
 ふと、壁に掛かる時計が大石の目に入る。秒針がもうすぐ、真上を指すところだ。
「だんだん眠くなぁる……あ、大石、おぉ……わっ、寝てるじゃん」
 目の前で座ったまま器用に微睡んだ大石を、菊丸は喜色を滲ませながら覗き込む。起こしたりしないように、いつも元気過ぎると言われる声は少しボリュームを落とした。
 画面の中にいた催眠術師を菊丸は必死に思い出す。五円玉をプラプラさせて、眠らせて、その後はなんだったっけ。
「あ、えーと……あなたは…この…オレが肩を叩いたら、目が覚めて…?あー、何にしよ?」
 うーん、と悩むうちに、大石は起きてしまうかあるいは本格的に眠りこけてしまいそうな気がする。
「そーだ、ねこ! 猫にしよ。猫になっちゃう! 良ーい?」
 ううん、と今度は微睡んでいる大石が眉を震わせる。えいじ……ねこ……ねこ……。
「そ、そ、猫になっちゃう! フフッ」
 猫みたいに鳴くのかな? ゴロゴロ喉をならすのかも? そんな大石を想像して、菊丸は喉の奥で笑った。カチ、カチ…と秒針の音が重なる。ちょうど時間はそろそろ土曜日と日曜日の境目の零時を迎える頃だった。
「ん、えいじ……」
「大石ぃ、だいじょうぶ?」
 いつになくぼんやりとした大石の瞳と目が合う。どうかなあ、かかってるんだろうか。にゃあん、なんて言うんだろうか。菊丸の期待の眼差しを一身に受け、大石はゆっくりと口を開いた。
「……おいで、英二」
「はい?」
 手を広げた相棒に、目を丸くしたのは催眠術師だったはずの菊丸だった。
 固まっていると、大石は不思議そうに首を傾げた。
「どうした、英二? ほら、膝に乗って良いぞ〜」
 にこにこと人好きのする笑顔を浮かべている大石は、おそらく催眠術には掛かっているのだと菊丸は理解した。
 だって、いくら何でも黄金ペアだと言われても、こんなふうに相棒から膝に乗れと言われたことは過去にない。
 しかし、どうやら菊丸の催眠術のとおりに大石が猫になったわけでもないようだ。
 一歩も動けないまま大石をじっと見ていると、今度はチッチッチッ…と舌を細かく鳴らされた。これは、海堂がやっていたのをこっそり見たことがある。誰にも見られていないと思っていた海堂は、こうして道端で猫を呼んでいた。つまり。
「もしかして……オレが、猫に見えてる?」
「英二ぃ、なんか体調でも悪いのか?」
 いつも以上に柔らかい口調になっている大石には、どうやら話も通じないようだった。きっと大石の目には、目の前に居るのは小さな猫で、にゃあにゃあ言っているようにでも聞こえているのだろう。
「ちょーっと、違うんだけどにゃあ……」
 でも、正直大石が催眠術に掛かったこと自体が面白い。
 菊丸は元々猫のような瞳を輝かせて、その夜、初めて、えいや! と相棒の膝に飛び込んだ。その勢いに、うわっと大石は小さく叫んで、こりゃ大変と呟きながらも、満足げに微笑んだ。
 その表情を、菊丸は大石の顔のすぐ下から見上げていた。やっぱ動物好きなんだよな、大石。ペットショップではしゃぐ自分に付き合うような形で付き添っていた大石が、子猫に頬を緩めていたことも菊丸は知っている。
「英二」
 優しく呼ばれて、思わず、にゃあに、なんて返事しそうになる。
 今日は大石と同じシャンプーを使った髪に、大石の手が伸びてきていた。大石の指の隙間を、さらさらと菊丸の髪がすり抜けていく。優しい未知の感触に、思わず小さく声が漏れてしまった。
「ひ、わっ……大石、」
「んー、どうした英二、きもちいーか?」
 ええ、はい……と返事すべきか? ……あるいはにゃあん、とか?
 こしょこしょと耳の裏まで優しく擽られて、完全に、どうかしてしまいそうだ。このまま絆されて猫にされちゃう、とすら危機感を覚える。
 菊丸は奇妙な心地良さの水底にまで沈められ、溺れてしまう前に、理性を呼び戻す。
 無理無理、無理。中止だ中止! 慌てて逆方向に菊丸は舵を切り出す。戻れ戻れ! と叫び出したいのは、大石になのか、自分自身に対してだったのか。
「おお、いし……大石! 大石……起きて!」
 ぐらぐらと乱暴に両肩を掴んで揺さぶると、微睡んでいた大石の瞳が弾かれたように開かれた。
「わっ、英二……? あー……俺、寝てたか?」
 ごめんな、とまだ少しぼんやりした様子で謝る大石に、菊丸はちょっと胸が痛んだ。
「いや、全然いいよ! ね、寝よ寝よー! オレももう眠いねむーい!」
 それにしては大きな声で宣言して菊丸は頭から布団を被った。心臓の音がやけにうるさくて、本当はなかなか眠れなかったけれども、翌朝に顔を合わせた大石はいつもどおりで、こっそり安堵の息を吐いた。
 いつもよりさらに柔らかだった大石の声の甘さも、耳の裏を擽られて、身体の内側までひっくり返りそうな心地よさだったことも、きっと全部夢みたいなものだった。
 そんな夢なら、忘れてしまえば、なかったことになると菊丸はそう思っていた。

 ◆

  いつもどおりの一週間を過ごすうちに、すっかり忘れてしまうほどに現実味のない数分間。
 おいで、と優しくかけられた声は脳を痺れさせる麻薬かまたたびか何かだったのか。
 今の今まで、あれは夢のように思っていたし、もしも思い起こそうものなら、自身の内の深く沈んだところにある触れてはいけないものを呼び起こしてしまいそうな気もして、あえて忘れようとすら思っていた。
 だから、ちょうど一週間が経ったそのときになって、菊丸は思い出した。
 どうして、先週と全く同じように、大石の部屋に泊まってしまったのだろうか、と後悔するには少し遅すぎた。
「英二」
「うん? なに大石……」
「おいで」
 耳朶を甘く擽るような柔らかい声が、菊丸の理性を溶かそうとした。

 ◆

 もう何度目かのそれを経験して、菊丸にはわかったことがある。
 土曜日と日曜日のちょうど境目の午前零時、そのときに大石は菊丸を猫にしてしまう。そして翌朝には、すっかりそれを忘れている。
 おそらく、菊丸の見よう見まねの下手な催眠術のせいで。
 へんてこなことになってしまって、大石に悪いような気持ちと、その奇妙な様子を面白がっている気持ちとが、半々くらいだった。そして、それを除いてしまうと、残りは目をそらしたい自分の内にある欲なのだろうか。 
 菊丸は、決まって毎週土曜日に泊まっていいかと大石に尋ねる。何も知らない大石は、勿論疑いもなくそれを受け入れる。
 きっと今夜もまた、菊丸は大石の小さな猫になる。

 ◆
 
「あ、また泊まってもいいよね。大石?」
 もちろん。そう答えた声が少しも緊張していないように見せることができていただろうか。やりい、と何でもないように笑みをこぼした相棒を見ながら、大石は眉尻を下げた。
 今日は土曜日で、日曜日に変わる頃には、決まってそうなることも大石はわかっていた。
 ちょうどひと月くらい前だろうか。 菊丸が五円玉を目の前でぷらぷらを揺らしていたことを、大石は覚えている。たしかに、あの日とその翌週くらいは、頭がぼんやりしていて、記憶があやふやだった。
 しかし、先々週の土曜日から日曜日に変わる頃、大石は目を覚ました。
 頭に靄がかかったような奇妙な気だるさがある。やけに重たい瞼を持ち上げると、ベッドに腰掛けた姿勢の自分の膝の上に、不自然な重みがあることに気がついた。
「英、二……?」
 夢だろうか、ととっさに考えた。膝の上に猫のようにくつろぐ見慣れた相棒の姿がある。甘えるにしても、友達に対してであれば少し行き過ぎだ。
 頭をはっきりさせようとする大石の指は一方で、菊丸の柔らかい髪の間をすり抜けて、触れたこともないはずだった耳の裏を擽っていた。ううん、と菊丸が軽く身を捩ったので、大石の心臓が跳ねる。何、してるんだ俺は。
 英二だってそうだけど、俺だってどうしてこんなことをしているのか。さっぱり身に覚えがない。
 こんなの、イヤじゃないのか、英二?
 膝の上から、身を捩った菊丸の大きな瞳と目が合う。心臓を掴んで捻られるような思いがした。
「大石……ん」
 すりすりと頭を手のひらにすり付けられる。まるで、よく懐いた猫のように。
 このとき、やめてしまえれば良かったのだと思う。けれども、結局大石は何も言い出せないまま、それがあるのは土曜日と日曜日の境目であることまでわかってしまった。
  別に、何があるわけでもない。その限られた時間だけ、猫のような菊丸を撫でて、甘やかして、囁いているだけで。
 ただ、自分の内側にあった知らない振りをしていたものが、揺り起こされていくのも感じられた。このまま、続けてどうなる? 
「俺、もう催眠術なんてかかってないんだよ」
 ただ、英二がかわいくて、触れていたくて、その時を待っていた。俺だけの猫になってくれるのを楽しみにしていた。そう言ってやれたら、良 かったのだろうか。
 土曜日と日曜日の狭間になるとき、大石はゆっくりと身を起こす。いつか、ばれてしまうのかな。それでも、まだきっぱりとやめるには、あまりにも心地よく頭が痺れている。
「おいで、英二」
 布団を被っていたはずの菊丸が、そろりと大石を見上げる。その大きな瞳は戸惑いを湛えたようで、どこか期待してたようにも見えるのは、あまりにも都合の良い見方だろうか。
 
 


7th.Nov.2021

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