はじまりは、ほんの些細な出来事。



『───だれ?』

霞が掛かったように朧げな意識の片隅に、そんな声が引っかかった。

『だれか……そこにいるんですか?』

まだ少し舌足らずな幼子の声が戸惑いの色を含んで発せられる。
長い間散漫になっていた注意をそちらに向けたのは、ほんの気まぐれだったのかもしれない。ともあれ、声と気配に焦点を合わせてみると、その幼子はどこかほっとしたように笑ったようだった。
ああ、やっぱり。と幼子は呟く。

『よかった。きのせいかとおもいました』

柔らかいその声を、今でもよく覚えている。



*  *  *




屋上の自販機の前で、熾苑は小さく息を吐いた。
時刻は午前0時を回ったところだ。そう遅くない時間にベッドに入ったがなかなか寝付けず、気が紛れるかと思って屋上まで上がってきたのだ。
ペットボトルのお茶を買って椅子に座る。適当に喉を潤すと、膝を抱えて窓越しの夜空を見上げた。寝間着で外に出るにはまだ肌寒い時期かもしれない、などということをぼんやり考えていると不意に頭の中心が鈍く痛んだ。

「……っ…」

波のように強弱のある頭痛に顔を顰める。学校で濡れ女に襲われて以来、普段通りに振る舞える程度には回復したが、まだ少し調子が悪い。……原因は、恐らくそれだけではないのだろうが。

「…しょうきいん、かげろう……」

昨日の朝、嵐のように姿を現した青年はそう名乗った。
双熾が御狐神家から解放されたのも、青鬼院という先祖返りの家から介入があったためだと聞いている。

「蜻蛉……ね」

思うままに彼方まで飛んでいく、その名に相応しい自由奔放な男だ。

『貴様は掴みどころがないな。曖昧で不確かな感じがする』

ふと甦った声に俯いて唇を噛む。淡い月光にぼんやりと浮かび上がる自分の白い肌が、まるで幽霊のように見えた。

「……間違って、ないのかも」

鏡に映った自分の姿を見るのが嫌いだった。同じ色の髪、同じ色の瞳。同じくらいの年格好に変化すれば、恐らく全く同一の形になるであろう顔。まるで出来の良い複製だ。
けれど、それも今更。
溜息をついて、そろそろ戻ろうか、と床に足を着いたとき、エレベーターの到着音が屋上の静寂を破った。

「あれ?」

いつものスーツ姿ではない、部屋着姿で屋上に足を踏み入れた残夏は熾苑の姿を見留めて首を傾げる。

「夏目…さん」
「こんばんはーしおたん。こんな夜中に何してんの〜?」

微かに身を硬くした熾苑に「そんな警戒しないでよ〜」と残夏は苦笑した。カルタや卍里より敬遠され気味なのは知っていたが、さすがに少し傷つく。

「警戒なんてしてません」
「いやいやしてるでしょ〜。しおたんボクの顔見るといつも一瞬表情消えるもん」
「……」
「その辺の鉄壁っぷりは、そーたんの方が上だねぇ」

顔に掛かった髪を背中に払って、残夏は熾苑の隣に腰を下ろす。さも当然という顔の残夏をちらりと横目で見るが、何も言わずに視線を窓の外に戻した。
しばらくお互いに何も言わずに外を眺めていたが、そのうち熾苑が躊躇いがちに口を開く。

「夏目さんは、」
「?」
「その…付き合い、長いんですか、やっぱり。幼馴染…だと、聞きましたけど」
「そうだねぇ……。昔から蜻たんの家にはよく遊びに行ってたし、かれこれ10年弱くらいにはなるのかな?」

10年だって。ビックリだよ。あっという間だね〜。
「誰と」と熾苑は明言しなかったので、残夏もただ笑みを含んだ声で答えた。
あの時はまだ少年だった自分達も、いつの間にかあと数年で二十代の半ばを迎えようかという年だ。

「やっぱり気になるんだ? お兄さんのコト」
「別に、気にしては、」
「興味ないフリしちゃって〜。隠さなくて良いんだよ〜?」
「違いますよ。そんな、私が気にしたって何にもならないでしょう」
「そうかな〜? 一度話してみれば良いじゃない。歩み寄りは大事だよ〜? 特にそーたんは人一倍あっさりしてるからなおのこと、ね☆」
「……『おせっかい』って、夏目さんのためにあるような言葉ですね…」
「残夏おにーさんのモットーは『みんな仲良く♥』だから☆」

にっこりと笑う残夏に、熾苑は深い溜息をつく。やはりこの青年と会話していると調子が狂う。ぽんぽん話を引っ張っていかれるから、追いかけるのも引き止めるのも一苦労だ。要するに疲れる。

「しおたんが一歩引いてるのはそーたんに限った話じゃないし。ちよたんとか渡狸とか、妖館の中じゃ一番一緒にいる時間長いんだから、もっと仲良くすれば良いのに〜」
「要りませんよ。『仲良く』とか、そういうの」

こんなところ、来たくて来たわけじゃないのに。
口をついて出そうになった言葉を呑み込んで、熾苑は小さく唇を噛んだ。
いけない。意思なんて、そんなものは必要ない。ただ言われた通りに、波風を立てずに過ごせば良い。私がやるべきなのは、それだけだ。


「───帰りたい?」


意識してゆっくりと呼吸をしていると、不意に残夏がそう問うた。はっとして見上げれば、残夏の銀の瞳と目が合う。綺麗だな、と。どこか悲しげな色が浮かぶそれを見て、熾苑は頭の片隅でそう思った。
そのせいだろうか。引き結ばれていた薄い唇がふっと緩んだのは。

「……帰る場所なんて、ない」

囁くような声に瞠目する残夏を他所に、でも、と感情の抜け落ちた少女の声は続く。

「でも、私はあそこにいないと……」

───だって、そうしないと気づいてしまうから…

熾苑の青緑と金の瞳がどろりと溶けて濁ったかのように残夏には見えた。その奇妙な感覚に息を呑む。

「…しおたん…?」
「───夏目さん、」

ゆっくりと立ち上がり、窓から射し込む月光を背に受けて、微笑を浮かべた少女は言った。

「お気遣いありがとうございます。でもどうぞお構いなく。私は今のままで充分ですから。……これ以上は、必要ありません」

お先に失礼しますね、と言い置いて、熾苑は自室へと戻っていった。それを見送ったまましばらく微動だにしなかった残夏だったが、やがてゆるゆると息を吐いて前髪に隠れた右目を片手で覆う。
踵を返した熾苑と擦れ違った瞬間に、刹那の間だけ視えた、あれは。

「……桜…」

風に舞い、音もなく地面へと落ちていく薄紅色の花弁が、まるで降り積もる雪のようだった。



*  *  *




約束がある。
きっともう、遠い過去になってしまった約束が。
あなたは忘れてしまっているかもしれない。

けれど、それでも。

あの日のささやかな願いを叶えるために、私はここで待っている。






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