SUMMER VACATION!−7

遊作が目を覚ました時、隣には既にわらしの姿はなかった。シーツはまだ温かく、そう時間は経っていないはずである。耳を澄ませば隣のバスルームから物音がするので、大方シャワーでも使ったのだろう。のんびりと体を起こして寝ぼけた頭を覚醒させていると、しばらくしてバスルームの扉が開いた。中からわらしが出てくる。

「あ、おはよう遊作くん」
「おはよう。先に起きてたのか」
「うん。……なんか、目が冴えちゃって」

そう言うわらしの顔色はいつもより少し陰りがある。昨日の疲れが抜けきれなかったようだ。

「今日も歩き回ることになるが…平気か?」

心配した遊作が尋ねると、わらしは首を振った。

「大丈夫。いつまでもここにいることの方が嫌だからね」

それはそうだが。と、遊作は強がるわらしのことが気がかりだった。




夜のカーテンはすっかり解け、雲ひとつない空からは太陽光線が直接船に降り注ぐ。風はなく、気温はそれなりに高い。深い青に染まった海は終始穏やかである。
探索の準備が整った二人は船長室を出たところでマップを広げた。

「今日は、昨日行けなかった連絡通路の地下扉に行くんだよね?」
「あぁ。だがその前に、行ってみたいところがある」
「え? でももう他は全部見たんじゃ…」
「…天文台であの男に会う」

遊作の言葉に、わらしの瞳が大きくなる。

「それって……あの紫色の球体をあの人に渡すってこと?」

尋ねれば、遊作は神妙な顔をして頷いた。

「今のところ俺たちに球体をどうこうすることはできない。あの男は球体と引き換えに何かくれると言っていた。それが何かを確かめる為にも、一度取引に応じてみようと思う」
「うーん…。まぁ、遊作くんがそう言うのなら」

わらしは元々球体をどうするかは考えていなかったので、遊作の提案に否定する理由もなく同意する。

「それじゃぁ、最初は天文台だね」

このような会話があって、二人は昨夜訪れた天文台へと再びやってきた。操舵室にあった太陽のレリーフに彗星の本を掲げれば、あっという間に例の男がいる部屋へと飛ばされる。男は昨夜と同じく椅子に座って机の上で腕を組んでいた。

「やぁ、また来てくれたね…」

相変わらず不気味な笑顔を貼り付けている。男は二人の訪問を歓迎した。

「どうだね、旅は楽しいかい? フフフフ…」
「昨日言っていた球体を交換したい」

男の言葉には耳を貸さず、必要なことだけを伝える。男は機嫌良さそうに反応した。

「助かるよ。では、これを持って行き給え」

わらしから紫色の球体を受け取った男が差し出したのは、透明な小瓶に入った液体である。見た目にはただの水が入っているようにしか見えない。手を伸ばす前に、これは?と遊作が目で尋ねた。

「これは私が作り上げた特別な薬だ。微弱だが人についた魔の力を払いのける力がある」
「人についた…って、幽霊に取り憑かれることもあるってこと?」
「元々そういう輩じゃないか? 幽霊というものはね」
「そんな…」
「…使い方は?」
「取り憑かれている状態で小瓶の中身をかけてやれば良い。多少だが傷も治せる」
「そうか」
「どうだい、今の君たちには必要だろう? フフフフ…」

得意気に笑う声がする。遊作は無言で机の上に並べられたそれを受け取った。

「行こう」

遊作がわらしを連れてエレベータに乗り込もうとした時、背後から男の声が掛かった。

「その本を持っている限りここへはいつでも来られる。また来るといい。待っているよ…」

良い旅を…
その声を最後に、景色が一変する。




「……あの人、良い人なのか悪い人なのか判断がつかない」

戻ってきた操舵室でわらしがぽつりと呟いた。

「大方ロクなやつじゃない」
「でも何で球を私たちに集めさせるんだろう。自分でやればいいのに」
「目が見えない以上に理由がありそうだ。簡単には信用できないな」

遊作はそこで男についての議論を打ち切った。

「球体を交換したし、次に行くぞ」
「うん。あ、さっき貰った聖水っぽいのはお互い持ってようね。一応どっちが取り憑かれても良いように」

遊作とわらしは聖水の入った小瓶を分け合った。
それから下階の連絡通路まで行き、配電盤のある壁沿いに両サイドに伸びる階段を下り、昨日通れなかった地下扉を調べる。片側は海図室で拾った鍵で開いたが、もう片側はそもそも鍵が閉まっていなかった。どうやら扉の向こうで何かがつっかえているせいで開かないらしい。
仕方ないので、今日も行けるところから順番に調べて行く。鍵を解除した扉を開ける前に、マップで扉の向こうの構造を確認する。

「この先は乗客用連絡通路か」
「正面と左側に伸びてるね。どっちも途中に扉があって、更に通路が続いてる。どっちから行ってみる?」
「…扉の数が少ないのは正面の方か。まずはそっちを調べよう」
「わかった」

わらしはマップをしまい、扉を見据えた。

「行くぞ。最初に…」
「明かりのスイッチ、だね」

遊作の言葉を先取りして言う。にこ、と微笑んで拳を握る。

「昨日散々思い知らされたからね。大丈夫だよ。今日はちゃんとできる」
「…そうだな。期待してる」

わらしの言葉に頷いて扉を開けた。

開けた視界の先には予想通りの光景が広がっており、照明のスイッチは扉をくぐってすぐ横の壁に三つ付いていた。スイッチを押すと正常に機能する。光の入ってこない船の中は照明によって明るく照らし出された。

「特に問題はないな」

辺りを見回して警戒心を解く。予定通りに通路を真っ直ぐ進むと正面に扉があった。その左側には下に降りる階段があり、通路はさらに続いている。
二人が最初の扉を開けると、中に続いていた大食堂前通路の照明は既に付いていた。先ほど押した三つのスイッチのうちどれかがここの照明だったのだろう。さらに先に進むと、分岐点の手前でこちらを見据えて仁王立ちしている男の影があった。話しかけると、思ったより丁寧な言葉で対応される。この男は執事か何かか。

『あぁ、お客様…本日は正式なパーティーですので……』
「パーティー?」
『そのようなお召し物では困ります』

言われて、遊作とわらしは互いの姿を見つめ合った。二人の格好はハートランドで遊んでいた時のままである。Tシャツにジーンズ。バカンスなのでカジュアル仕様だし、歩き疲れないよう足元はスニーカーで固めてある。わらしも大方そのような格好で下はキュロットスカートだ。
機能的で動きやす服装だが、男の言う正式なパーティーでは場違いにも程がある。断られるのは当然だ。

「そうは言っても、パーティードレスなんて持って来てないし…」

呟いたわらしの声に反応して首を振られる。

『ウィリアム様は特に礼儀に厳しい方です…。申し訳ありません。どうか…お引き取りください』
「!」

ウィリアム、という名前に二人の顔色が変わる。

「ウィリアムって……まさか…ウィリアム・ロックウェル?」

思わず口をついて出た言葉を拾って執事の男が答える。

『えぇ、ウィリアム・ロックウェル様で間違いはございませんが…』
「…わかった。出直してくる」

遊作はわらしの手を引いて今しがた通ってきたばかりの扉をくぐり、元の通路に戻った。その場で話し合う。

「ウィリアム・ロックウェル……この船に乗ってたんだね…。クレアちゃんは乗ってると思ったけど、あのおじいちゃんも一緒だなんて…」
「今回もウィリアムがクレアを連れ出したのかもしれない。またあの男が絡んでくるとなると一筋縄じゃいかないな…」
「私、あの人怖いよ……平気で自分の孫を人質にしたりして…ヘンリーさんのことも…」

列車での出来事を思い出してその時の恐怖が蘇る。あんなことができるのは普通ではない。

「……魔に飲み込まれる、か…」

ヘンリーが最後に残した言葉を呟き、遊作は頭を振った。

「最終的にこの先には行かなければならないだろうが、問題はどうやってあの執事を突破するかだ」
「正装って言っても、ドレス類は全部スーツケースの中だよ? ハートランドのコインロッカーに預けてある…」

二人はハートランドで一日遊んだ後に最終便で帰国する予定だったので、手荷物以外は全て預けてきてしまっている。当然、この世界に他に着替えられるものはない。あったとしても、あの執事のお眼鏡に適うのは最初の夜に着たドレスとタキシードくらいだろう。遊作の場合、タキシードはレンタルだったのでそもそもスーツケースの中には入っていないのだが。

「何か他に方法がないか考えるしかないな。あるいは、どこかの部屋で調達するか…」
「まぁ、パーティーに参加する為に乗っていた人もいるだろうし。もしかしたら借りられるものがあるかもしれないね」

サイズが合うかはまた別の問題だが。

「とにかく先に他を回ってみよう」

遊作に促されて二人は再び船の中を歩き始めた。まずは扉を出て右手に伸びる階段――最初に入ってきた通路から見れば大食堂前通路へと続く扉の直前で左手に曲がった所――を降りてその先を確認する。ぐるりと時計回りに移動し、さらに下に向かう。突き当りには一枚の扉があり、開けることはできなかった。扉には非常用通路のプレートが提げられ、‘緊急時以外の使用を禁ずる’と書かれていた。

「向こうから開けるしかないってことかな」
「そうだな…ここが開けられれば船内を行き来しやすくなるから、できれば使いたかったんだが」

諦めてマップを確認する。
その後二人は最初の位置まで戻り、先程後回しにした左手に伸びる通路を歩いて行った。通路の途中で左手にある扉に入ると、再び長く真っ直ぐ伸びる通路がある。マップにはゲスト用通路とあり、どうやらこの通路から各客室へと繋がっているようである。照明は付いていた。

「左右に三部屋ずつ、奥に一部屋…」
「奥の部屋は少し特殊だな。手前から調べていこう」
「そうだね。……あれ?」

通路で歩き出した二人だったが、真ん中で壁に背をもたれながら座り込んでいる男の影を見つけた。近くにワイングラスが落ちており、どう考えても飲んだくれそのものの様子である。関わりたくない。
遊作は一瞬掛ける言葉を失ったが、気を取り直して話しかけてみれば男は酩酊した状態で『誰だよ…あんた…』とのたまった後、勝手に喋り出した。

『みんな死んだ……きっと、エルの野郎も…』
「エル…?」
『あいつ…奥の部屋に入ってから……急におかしくなって…。三人で閉じ込めたんだ……棚の向こうの…』
「閉じ込めただと?」
『あぁそうだ……閉じ込めたんだよ…。エルは俺の親友だった…。ヘッ、あの船員…鍵なんかしやがって……恨んじゃいないけどさ……俺だってそうしたかもしれない…』

後悔しているのか、男は項垂れた様子で俯いた。

『エル…また、お前の酒が飲みたい…』

それだけ言って黙ってしまう。遊作は落ちていたワイングラスを拾い、割れないよう手に持って歩いた。男から離れて話し合う。

「どこかにエルという奴が閉じ込められている。それと、話を聞く限り奥の部屋は何か意味がありそうだ」
「戸棚の向こうって、どこのことを指しているのかな。普通、棚の奥って何もないよね。あるとしたら…壁?」
「考えられるのは隠し部屋だな。ヘンリーの家にあったような」
「やっぱりあんな感じかな。閉じ込めたってことは、開けるのにもまた手順がありそうだよね」
「あぁ。まずはその棚を探さないといけないが…」

言いながら、ちらりと奥の部屋を見る。その視線に気付いたわらしが表情を曇らせて言った。

「あの部屋…。急におかしくなるって、尋常じゃないよね。もしかして、エルっていう人は憑り付かれちゃったのかも…」
「有り得ない話ではないな」

天文台で会った男の言葉が思い出される。幽霊に憑り付かれるなど普通では考えられないことだが、この船の上では何が起きても不思議ではない。

「万が一の場合に備えて、俺たちには聖水がある。かと言って、これが本当に効くかどうかは不明だ。リスクを避けるには越したことはない。奥の部屋は後回しだ」
「うん」

遊作の言葉に一も二もなく同意した。それから頭を切り替えてわらしが質問する。

「それで、あの酔っぱらってる人にはエルさんが作ったお酒を飲ませてあげればいいのかな。今回はどこかに飛ばされることもなかったし」
「恐らくな。だが酒自体、一体どこで手に入るのか」
「うーん……やっぱり厨房かな?」
「それはもっと先だ。ただ、見付けたところで作り方がわからなければお手上げだが」
「それもそうだよね」

言いながら通路を戻り、最初の部屋に入る。まずは左側だ。
暗い部屋の中を照明を付ければそこは狭い部屋だった。マップでは図書室とあるが、実のところ本は一冊もない。
入ってすぐの右手にある本棚には四つのスペースがあるが、本の代わりにそれぞれ一体ずつ状態の違う人形が置いてある。海兵を模した人形だろうか。白いセーラー服の真ん中に窪みがあり、何かを嵌め込める構造になっている。両手には旗を持っていた。
右上の人形は右手を斜めに下げ左腕を上げている。左上の人形は右手だけを上げ、左腕は下げたまま。右下は両手を水平に保ち、左下は右手を斜め下に下げながら左手を水平に保っていた。

「これ、手旗信号だよね。海兵が使うような」
「それぞれに意味があるはずだがわからない。暗号表でもあれば別だが…」

特別な訓練を受けている訳でもない二人には、人形の手旗信号の意味は理解できない。
部屋の中には他に、読書用のソファ、ローテーブ、踏み台がそれぞれ一つずつあり、奥に木製のチェストとやはり空の本棚があった。本棚の上の壁には鉄の金網がある。空調設備だろうか。

「気になるのはこの人形くらいか」
「なんだろう、ちょっとだけへこんでるよね。何か入れられるのかな」
「………これが何かの仕掛けだとすると」
「もしかして、ここ? エルさんを閉じ込めたっていう棚」

わらしは目を見開いて遊作を見る。

「他に候補が無ければ可能性は高い」
「それでこの人形…」

遊作は試しに棚を動かそうとしてみたが、中がスカスカの割にびくともしなかった。ネジなどで固定されている訳でもない。増々以て推測が確信に近付く。

「直接動かすのは無理だな。やっぱり仕掛けを解かなきゃいけない」
「んー、残念。正攻法でってことだね。さっきの人からもうちょっと話が聞けたら良かったんだけど…」

棚についてそれ以上思考することは諦め、二人は図書室を出て今度は向かいの部屋に入った。
図書室より数倍広いその部屋は喫煙室とあり、照明を付けると全貌が映し出される。テーブルと椅子の他、奥にはグランドピアノ、手前のコーナーにはバーカウンター。壁には幾つかの絵画が飾られており、全体的に豪華な造りとなっていた。

「あ、お酒ってここで手に入るんじゃない?」

遊作は頷くとワイングラスをカウンターに置いて中に入って調べた。カウンターの下は棚になっている。その間わらしは他を見て回った。
遊作が奥の棚から順番に引き戸を開けていくと、引換券と書かれた小さなチケットを発見した。

「何の引換券だ…?」

わからないままとりあえずポケットに突っ込んでおく。さらに手前の戸を引けば、酒の入ったボトルが逆さまに掛けられていて、レバーを捻れば少量のアルコールが出てくる仕組みになっていた。これで酒を入手することはできる。しかしここで問題が一つ。酒の入ったボトルは全部で四本あった。それぞれ斧と人物、蛇、剣のラベルが貼られている。これではどれがエルの酒かはわからない。

「…そっちは何か見つかったか?」

カウンターの中から声をかけると、わらしは遊作の方を振り向いた。

「絵がね、何枚かあるんだけど」

わらしの前に掛かっている絵画は大きく、遊作の位置からも見える。ちょうどピアノの後ろに掛けられた絵には大蛇に襲われた二人の人物が描かれていた。

「この絵には蛇と人物が二人、それぞれ剣と斧を持ってる。でもあっちの絵だと、斧を持った人が二匹の蛇と戦ってて、そっちの絵には剣を二本持った人が蛇に挑んでる。ただ、斧はあるけど、人はいなくて…」
「蛇に人……」

遊作はカウンターを出ながら顎に手を当てて考える。一番近くに掛かっている絵画を前にしてそれを眺めた。わらしが横に来る。

「最初は一つの物語なのかなって思ったんだけど、これじゃ整合性がなくて、どれが始まりでどれが終わりなのかわからないの。いっそ別物だと思った方が良いのかもしれない」
「…この絵はヒントなのかもな。酒のボトルにも蛇や人物が描かれていた」
「そうなの? でも、これじゃ解読なんてできないよ。一体何を表してるのかもわからないんだから」
「情報が足りないか。作者は……、全部違うな」
「そういえば…」

同じタッチで同じテーマに沿った絵だったのでてっきり同一作者による作品とばかり思い込んでいた二人だったが、実際に描かれたサインは異なる。それぞれE.MとK.S、それから少し読みにくいAから始まるイニシャルだ。

「本当に同じ人が描いたんじゃないのかな。みんな同じように見えるけど…」
「オリジナルを真似て描いたのかもしれない」

大きな絵画はもう一枚あったが、そこにはワインボトルが三本描かれているだけだったので、あまり意味はないように感じられた。他は立派なグランドピアノを調べても何も見つからず、二人は揃って部屋を出た。どこかでまた何かがわかったら戻ってくる必要がありそうだ。

次に入った部屋は普通のゲストルームだった。照明を付けて中を調べる。


この時遊作とわらしは一つミスを犯した。照明のスイッチが二ヵ所あるのに気付かず探索を続けたせいで、暗がりの方から少女の霊が現れてしまったのだ。



『フフフフフ…』

唐突に聞こえてきた笑い声に反応して振り向いた瞬間、体の自由が奪われ壁に叩きつけられる。激しい音を立てて振動する壁。背中に走った激痛に耐えながら二度目の襲撃を受ける前に急いで照明スイッチを探し連打すれば、パッと明るくなった部屋から少女の霊は姿を消した。

「わらし、」
「い、っ……つぅ…」
「大丈夫か?」
「うん…。でも、びっくりした……こんな部屋まで追いかけてくるなんて…」

背中を擦られながら立ち上がったわらしは涙目で訴えた。元凶である少女の霊は既にこの部屋にはいないのだが。不意討ちを食らった心臓が五月蝿いくらいに脈打っていた。

結局その部屋では何も見つからず早々に退室することになったが、二人は慣れから生じていた警戒心を再び強めると気を引き締め直した。続けて向かいの部屋に入る。こちらも同じ様な造りのゲストルームになっていたが、先程の部屋と違うのは誰かが使用した痕跡が残っていたということだ。
6号サイズのキャンパスの前に絵の具を散らかしたパレットが置いてある。隣にあるローテーブルには、白い絵の具で直接文字が描かれていた。
ちなみに今度は間違いなく照明のスイッチは二つとも入れた。

「これって…。子供の落書きじゃないんだから、勝手に描いたらダメだよね…。絵描きの人ってみんなそうなのかな…?」
「さぁな。そういえばヘンリーも絵描きだったな」
「うーん」

二人の画家が一般常識について些か解離があることは否定できない。
ローテーブルに書かれた文字は所々かすれて読みにくかったが、かろうじて幾つかの文節が読み取れた。

この船は…駄目だ…
みんな……化け物に…
……殺される……

ロブとの……はできない…
……俺の絵の…意味に…
……あいつももう……

どうやら…あの酒は…
……向こうで……

    エル・ムアリング


「エル・ムアリング……この人…この人がエルさんなのかな?」
「ロブ……絵……酒…、! そうか、」

遊作は鞄の中から昨夜手に入れた人物ノートを取り出すと、急いでページをめくっていく。最新の記事に目を通すと予想通り、ロブという人物について書かれれていた。あの酔っ払いだ。

「……絵の暗号が解けたかもしれない」
「え?」

遊作はわらしを連れ出すと再び喫煙室に入った。件の三枚の絵の中から、斧を持ち二匹の大蛇と戦う人物が描かれている絵の前に立つ。端に描かれたサインを確認して口を開いた。

「E.M……エルが描いた絵はこれだ」
「エル・ムアリング……あ、そうだね。ということは、残りの二枚は…」
「ダミーだろうな。…あの文面から、この絵がエドの酒の作り方を示している」
「?」
「つまり…」

遊作はカウンターバーの内側に入ると、わらしを酒の入ったボトルの前まで連れてくる。ラベルを一つずつ見せながら説明した。

「絵に描かれていたのは斧、人物、蛇だ。これらはそれぞれ対応するボトルを表し、その数が成分比率を表している」
「斧と人物が1に、蛇が2…」
「そうだ。だからその通りに混ぜてやれば…」

空のグラスにアルコールを注いでいけば、カラフルな液体はグラスの中で混じり合って最終的に一色に染まる。綺麗な黄色だ。ふわりと香った酒の匂いにわらしの鼻が反応した。

「これをあの男…ロブに渡す」

遊作の言葉に頷いてついて行った。

ロブは相変わらず壁にもたれながら泥酔している様子で、二人が近付いても全く気付きもしない。グラスに入った酒を差し出しながら遊作が声を掛ける。

「おい」
『……? 何だい、こいつは…?』

言いながら、受け取ったのが酒の入ったグラスだとわかると、それをジッと眺める。やがてそれが何なのかを理解すると、驚いたような声を上げた。

『この色……エルの酒と同じ…』

ロブは一気にグラスの中身を呷った。黄色い液体が勢いよく減って行く。一思いに飲み切ったロブは空になったグラスを見つめると、しばし無言になる。

『…………』

どうだろうかと二人が見守る中、俯きながら唐突に笑い出した。

『………へへっ………へへへっ……へへへ…。何てこったい…。何の味もしねえ……へへ、へへへ……』
「そんな…」

わらしが手で口を押さえて言葉を無くす。遊作の表情は硬くなった。

『そう……だよな……死人に酒なんて……いらねえよな……』

既に死を迎えたロブの舌には、もはや酒の味を感じることも香りを楽しむこともできなくなっていた。それが例えエルが作った酒と同じブレンドのものでも。何も感じることはできない。

『…………』

グラスをだらしなく持ったままのロブは落ち込んだ様子で黙っていたが、ふいに顔を上げると遊作に言った。

『あんた、あいつを……エルを出してやってくれ…』
「!」
『メダルの一つは図書室のダクトに捨てた…あとの二つは向こうの二人が……』

たどたどしい口調で何とかそれだけを伝えると、ロブの影は泡となって消えた。残った球体に触れ、わらしは呟く。

「ロブさん……エルさんのことが心残りだったんだね…」
「突然命を断たれて、みんな少なからず思い残すことがあったんだ。この船に乗っていた誰もが…」
「うん…」

ロブが消えた跡には球体の他にメダルが落ちていた。それを手に取ると水兵が描かれている。両手を水平に保っている水兵が。

「これって…」

わらしは目を見開いて遊作に見せる。

「図書室にあった水兵人形と同じだな」
「あれって真ん中に何か嵌め込めたよね?」
「あぁ。サイズもちょうど合いそうだ」

二人は図書室に戻ると、メダルに描かれた水兵と同じ状態の人形――すなわち、右下――の窪みに嵌め込んだ。すると人形はそれまで保っていた態勢を崩し、両手に持っていた旗を下ろして静止する。他には特に何も起こることなく静寂が流れた。

「当たりってことかな。でも、一枚だけじゃダメなんだね」
「人形の数は4体。それぞれに対応するメダルがあるはずだ。その内の一枚が、ダクトにあると言っていたが…」

遊作は部屋の奥、空の本棚の上に設置されている金網を目に留めると、隅に放置されていた踏み台を持って移動した。木製のチェストの横に置き足を掛ける。そのままチェストの上に登ったのを見て、わらしは内心ハラハラしていた。

「大丈夫? 壊れなきゃいいけど…」
「意外と丈夫そうだ。それより、ダクトだが…」

本棚の上から金網の奥を覗いた遊作は、不自然に伸びている通路を見て眉を顰める。途中で左に曲がっているせいで全貌は見えない。金網の蓋自体は簡単に持ち上がり、中に入ることはできる。

「ロブの言葉を信じるなら、メダルの一枚はこの奥だな」
「通れそう?」
「ひと一人がやっとだな。かなり狭い」
「えっと…………私が行った方が良い?」
「いや、大丈夫だ。わらしはここで待っててくれ」

遊作はそう言うと体を縮めてダクトの中に潜り込んだ。一応遊作よりは多少細身のわらしの方が適任だったが、遊作が行くと言ってくれてわらしはホッとしていた。通路の先に何があるのかはわからない上、一人で行くのはどうしても遠慮したかった。またあの少女の霊が出て来ないとも限らない。その場合は遊作が犠牲になるのだが。
気を付けてね、との言葉を背に受けて遊作は奥へと進む。ダクトは真っ直ぐの後左に曲がり、しばらくして今度は右に曲がった。さらに奥に進み再び右折しながら緩い傾斜を登る。全体的に薄暗いが、一本道のおかげで迷うことなく進むことができる。
行き止まりが見えかけた頃、床部分の一部が金網になって下から光が覗き込んでいた。光量が弱く良く見えなかったが、どうやらこの下にも空間があり、同じくこの金網が空気孔の役目を果たしているようだ。
最終的に行き止まりに着いたところで、遊作は金色のメダルを拾った。これにもまた水兵の絵が描かれている。それをポケットにしまって今来た道を戻り始める。ただしダクトの中で方向転換はできなかったので、バックで。再度金網を潜る頃には膝が悲鳴を上げていた。

「あったぞ」

本棚の前に立って遊作の帰りを待っていたわらしにメダルを落とし、本棚から降りる。すす汚れた服を軽く叩くと思ったより埃が舞い、わらしがくしゃみをした。

「…悪い」
「ううん。お疲れ様」

ハンドタオルで鼻を押さえて、戻って来た遊作を労う。
わらしは受け取ったメダルを対応する右上の人形に嵌めた。予想通り人形は旗を下ろすが、他に何かが変わることはなかった。

「うん。メダルはあと二枚だね」

ロブが持っていたメダルは集まった。ロブは残るメダルはあとの二人が関係していると言っていたが、その真意とは。

「…残りの部屋に行ってみるか」

残る部屋は二部屋と、奥の一部屋である。通路に出た二人は右のゲストルームから入った。しかし暗い室内のベッドには女性の影があり、中に入った途端『来ないで……そのまま出て行って…』と返されてしまう。顔を見合わせていると『……早く!』と急かされる。
壁のスイッチは何故か動かない。嫌な予感がしながらも話を聞く為に女性に近付いたその瞬間。


『ウフフフフ…』


バスルームの扉が開き、古風なドレスに身を包んだ若い女性の霊が飛び出してきた。


「―――うそぉっ…!」
「こっちだ!」

何やら霊気を漂わせ、それを二人に向けてくる亡霊から逃げるように部屋から飛び出した。慌てて扉を閉めて互いの無事を確認する。

「い、い、今のって………何!?」

わらしはもはや混乱寸前である。胸を押さえて瞬きを繰り返す。今見た霊は昨日から遭遇している少女の霊ではなかった。

「あのちっちゃい子じゃなかったよね…」
「他にもいるのか…厄介だな」
「厄介っていうか、いや、あの、これってあと何人出てくるの? 女の子の幽霊って…」
「落ち着け。幽霊が何人いるかは知らない。だがその先に進む為に何か手があるはずだ。何か…」
「何かって……でも、あれじゃ女の子の影に近付けないよ?」

女性の霊は二人の行く手を阻む様に現れた。その先にいる女性の影とは会わせまいとするように。女性の影は亡霊がそこに現れることを知っていたのだろう。だから近付くな、と警告したのだ。二人の身を案じて。

「あの霊はあそこに常駐しているのか…?」

そうなれば何度部屋を訪れても同じ結果になるだろう。正面突破は諦めた。
遊作は未だ怯えているわらしの手を掴んで正面の部屋に向かった。

「先にこっちだ。手掛かりがあるかもしれない」
「待って、こっちにもあの人の霊がいるかもしれないのに…?」
「それはわからない。だがそこが駄目ならこっちを調べるしかないだろう。それとも……奥の部屋に行くか?」

目線で促せば、わらしはブンブンと頭を振った。ロブの話ではこの奥の部屋こそ怪しい以外何物でもないのに。

「だったら腹を括れ。危険だと思ったらすぐに引き返せば良い」
「でも…」

これ以上の問答は無用だ。昨日同様弱音を吐き出したわらしを引き連れ、遊作は半ば強引に扉をくぐった。
室内は先程のゲストルーム同様の造りになっており、奥のベッドには同じ様に女性の影がある。照明のスイッチは動かない。
わらしは増々嫌な予感がして遊作の手を引っ張ったが、構わず遊作は奥へと進んだ。というのも、今度の影は二人を見ても出て行けと言わなかった。これなら大丈夫だと踏んだのだ。

『あなたたち、船の人じゃないの』

女性の影は遊作とわらしを見ると言った。

「わかるのか?」
『……だって、まだ生きてるもの』
「うぅ……それって怪談に出てきそうな言い回し…」

わらしは涙目ながらに会話に参加した。
女性の影は軽く首を振ると続けた。

『妹に…ディアナに会ったんでしょう?』
「妹さん?」
『向かいの部屋にいるはずだわ』
「…さっきのか」
『そう』
「何故俺たちが先にあんたの妹に会ったのを知っている?」
『私たちは双子なの。だからわかる』
「双子…」

良く見れば年恰好は先程の女性の影と良く似ている。服装こそはっきりしないものの、声はそっくりである。

『私、ディアナのことなら何でもわかるの…私と同じだもの…』

どこか誇らしげにそう語る女性の影に、双子独特のシンパシーがあるのかと妙に納得してしまう。どこの世界でも双子には不思議な繋がりがあるのかもしれない。
わらしの知り合いのセレブの子供たちは男女の双子ではあるが、以前似たようなことを言っていたのを思い出した。機械と古のドラゴンを擁するあの子たちは今どうしているだろうか。久しぶりにその顔を見たくなった。

と、それまで明るく応えていた女性の影だったが、唐突に頭に手を当て憎悪に満ちた声を絞り出した。

『あの化け物……あいつがいるから……』
「え?」
『ディアナ…』

それっきり、女性の影は黙り込んでしまった。
女性との会話を諦めた遊作とわらしは、恐らく亡霊の出ないであろう薄暗い部屋の中を調べ、特に手掛かりがないとわかると一度通路に戻ることにした。その時先に部屋を出たわらしが有り得ない光景を目にする。なんと、女性の霊が出た正面の部屋の扉が開いているではないか。確かに閉めたはずなのに。

「遊作くん、これってもしかしなくてもあんまり良くない状況…!?」
「待て…!」

まさか霊が勝手に扉を開け閉めしたのだろうか。狼狽するわらしだったが、後から遊作が部屋を出ると正面の扉も自動的に閉まる。亡霊が閉めたにしては随分と上品な動きだ。それも、遊作が扉を閉めると同時に…

「………んん?」

瞬きを一つ。遊作も今しがた自分が閉じた扉を見つめ直す。取っ手に手を掛け、ゆっくりと開ける動作をする。正面の扉も同じように開いた。今度は閉めてみる。正面の扉がやはり同じ様に動いた。

「…………」
「…………」
「………えっと…」
「なるほど。二人が双子なら、部屋も連動しているということか」

そういうことらしい。遊作は少し考えると、今しがた出てきたばかりの部屋に戻った。

「どうするの? ここには何もなかったけど…」
「ちょっとした実験だ。俺の考えが正しければ、あの亡霊はもう出て来られない」
「え!? そ、それ本当…?」

期待に胸を膨らませるわらしを尻目に、遊作は部屋にあった室内用ヒーターを動かし始めた。バスルームの前に置き、扉が開かなくなるのを確認して頷く。わらしにも何となくそれが何を意味しているのかがわかった。

「これで上手くいけばいいが」
「えっと、大丈夫だと思う。ううん、大丈夫であって欲しいかな」
「念の為椅子も置いておくか」

駄目押しのバリケードを設置し、改めて部屋を出る。その後正面の部屋に入り直すと、バスルームの前には姉の部屋と同じ様に室内用ヒーターと椅子が置かれ、扉が封鎖されていた。女性の影――ディアナの様子も先程とは打って変わって落ち着いている。
二人が部屋の奥に入っても亡霊は現れない。

「幽霊って、壁をすり抜けるものだと思ってたけど…」

幽霊には幽霊なりの事情があるのだろう。亡霊の現れない部屋を見て、ディアナは二人にお礼を言った。

『……ありがとう』
「良かったですね。あの女の人、もう出て来れないですよ」
『えぇ。……あなたたち、船の人じゃないの』
「…わかるのか」
『……だって、まだ生きているもの』
「わー……その台詞さっき聞いたなぁ…」

さすが双子と言うべきか。姉と全く同じことを言われて、わらしはどこか遠い目をした。

『姉さんに…フィアナに会ったんでしょう?』
「…根拠を聞いていいか?」
『私たちは双子なの。だからわかる』

やはり。ディアナは自信満々に言った。それからディアナは二人の顔を見比べ、ふと思い立ったように尋ねた。

『あなたたち……エルを知ってる?』
「えぇと…ロブさんの親友、ですよね?」
『えぇ。…エルは何か見たの…。だからあんな急におかしくなって…』

その時のことを思い出しているのだろうか。表情こそ読めないが、ディアナは重苦しい雰囲気を纏って呟いた。

『エルに会ってみて…私たちが閉じこめたあの人に…』

そう言って、影は静かに泡となって消えた。


部屋を出た遊作とわらしはディアナが残したメダルを握り締め、再びフィアナに会う為に扉を開いた。
部屋の中で待っていたフィアナは二人が入ってくると、どこか遠い場所を見つめる様に顔を上げていた。囁くような声で呟く。

『ディアナは行っちゃったのね…。じゃぁ私も行かなくちゃ…』

妹が天に召されたと、伝えずとも悟っていたらしい。女性の亡霊に囚われていた妹が解放されたことでフィアナにも未練がなくなったのだろう。二人は亡くなった後も仲の良い姉妹だった。
フィアナは遊作の方を向くと、何故か鞄の中にしまっていた宝石に気付き、声に出して驚きを露わにした。

『あら…? あなたのその青い石…あの人の、クレアのと同じ…』
「クレアを知っているのか?」
『えぇ』
「教えてください、クレアちゃんは今どこに…!」

ずっと探していた手掛かりを手に入れられそうになって、わらしは思わず声を大きくして尋ねた。しかしフィアナは遊作が青い宝石の持ち主だということに納得すると、質問に答えることなく満たされた心のまま泡となって消えていく。

『あなただったの…クレアの…待っていた人……』

消えた影の下に、最後のメダルが取り残されていた。



「行っちゃった…」
「結局、肝心なことには何も答えてくれなかったな」
「うん。クレアちゃんのこと知ってそうだったけど……フィアナさんとは仲が良かったのかな。宝石のことを話してたくらいだし」
「一つ疑問に思ったんだが、俺はリチャードなのか? ヘンリーなのか?」
「え?」
「この世界に来て、俺は最初警察官の男にリチャードに間違われた。だが、クレアが待っていたというのは列車の中で約束していたヘンリーだ」
「そうだね…、でも、フィアナさんは遊作くんが‘青い石を持っていた’からヘンリーだと思ったんじゃないかな。息子がいるなんて知らないはずだし」
「…そう考えるのが妥当か」
「ほんとに、何で遊作くんがリチャードさんに間違われてるのかよくわからないけどね」

二人は話し合うと、通路に戻って顔を見合わせた。

「メダルは全部揃った。図書室に行って仕掛けを解こう」


部屋に入り、図柄の通りに残りの二枚のメダルを対応する水兵人形の窪みにそれぞれ収める。二体の人形は旗を下ろし、これで全ての人形が同じ状態になった。それと同時に本棚が勝手に動き出し、今まで本棚に隠れていた場所に一枚の扉が現れた。

「予想通りか」
「おんなじだね。ヘンリーさんの家にあった時計と」
「あぁ。…この先にエドがいるはずだ」
「えーっと………万が一憑りつかれた状態だった時の為に、聖水用意しとく?」

わらしはリュックを漁って小瓶を取り出した。

「それが効くかは不明だがな。まぁ、ダメでも影なら平気だろう」
「影から悪霊に進化してなければいいけどね……悪霊にさえなってなければ…」

亡霊と影に一体どんな違いがあるのかはわからないわらしだったが、この先に待っているのが善良な影であることを祈る。聖水の入った小瓶を握り締め頷く。そして一呼吸置いた後、遊作がドアノブに手を掛けた。

「開けるぞ」

未知なる扉を開いた。


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