「紋章というのは本来、貴族だけが持ちえたものではありません。むしろ高い身分でなくとも紋章を持つことを半分ほど強制された時代も存在したほどです」
「へえ……そうなの?」
「例えば、1696年11月のフランスでは、国内で使われている紋章はすべて『紋章総覧』に登録すべし、という王令が出されました。
これは裏の思惑として、登録料、すなわち税金を搾取する、というのがありましたからむしろ上流階級に限らず多くの人々が紋章を持っていた方が都合が良かった訳です。
それでも、登録は伸びずに、今まで紋章とは無縁だったというのに無理やり紋章を与えられた人もいたほどです……。
この紋章自体はメディチ家のものでありかなり有名な貴族のものではありますが……」
「メディチ家……うーん、聞いたことないなあ……まあ、魔法界にいれば魔法史しかやらないもんね……」
「メディチ家は世界史に於いて重要なキーワードです。覚えておくべきでしょう……政治家としてもそうですが、ルネサンス期の発展はメディチ家の存在なくしては語れません」
「そっか……ちゃんと世界史も勉強しなきゃね。頑張る」
あのさ……と、2人――諒子とルクレツィアに声がかかった。
「およ、ルーピンせんせーだ。いつの間に?」
ルクレツィアはとぼけた顔でルーピン教授にそう言った。
彼は1,2分前にはここ――諒子の私室にノックの後に入ってきていたのだが、諒子は話を続けて――言うなれば無視していた。
「……お話し中悪いけれど……梗子と話しがしたくてね……実を言うともうすぐここを去らなくてはならないんだ」
少しだけ寂しそうな雰囲気が伝わったのか、ルクレツィアは、ふうん、と言ってテキストを片付け始めた。
「きょーこちゃん、また後で教えてね!――そしてルーピンせんせーは頑張れ、なんつってねー」
ルーピン教授は、ルクレツィアの行動に驚いた。
仮にも今朝、彼は人狼だと、全校生徒に知られたわけで、このルクレツィアも例外ではない。
「……狼人間と愛する“きょーこちゃん”を二人っきりにするの、抵抗はないのかな?」
聞かれて、ルクレツィアは、え、と返した。
「だって、きょーこちゃんが狼人間如きに負けると思わないもん」
ルクレツィアは真顔でそう言うと、諒子に手をブンブンと振ってから私室を出て行った。
その言葉にルーピン教授は苦笑いし、ドアが閉まってから諒子の向かいの椅子に座った。
「……楽しかったよ、この1年間」
彼は唐突に言った。
対して諒子は表情を崩さずにただただ黙って聞いていただけだった。
「それに昨日は重大な誤解も解けたことだし……」
あ、そうそう、と彼は何かをローブから取り出した。
「これ、怖いけど、大事にするから。ありがとう」
ルーピン教授の手に乗っていたのはクリスマスプレゼントの“藁人形モドキ”だった。
「……大事にする類のものではありませんが……持っていれば1回危機回避ができます」
「あはは、そうだったね。でも、それが使われないことを祈るよ……ああ、もう時間が無いな……私がここを辞めることは知っているよね……梗子は同僚を見送ってくれる精神は持ち合わせているかい?……ああ、梗子には回りくどく言っても駄目だね。一緒に来てくれないかい?」
ルーピン教授は立ち上がってドアまで行き、そこで手招きした。
諒子は勉強を教える約束をしていたルクレツィアが退出したことでこの後しばらく予定が開いていた。
そのため、特に深く考えず、彼に従った。
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