始まり
ざあざあと。
ざあざあと、扉越しに雨音が揺らいでいた。途切れのない音はいつしか頭がおかしくなりそうで、それでいて柔らかいものだから安直な拒絶をしたくても出来なかった。
けれどどうしても、何故だかとても恐ろしくて、僕はぼちゃんっと音を立てて入っている湯船に顔を突っ込んだ。
すぐ近くでシャワーの音が聞こえて、しかしその継続的な音は優しさも柔らかさもなく僕はほっとした。人工的でひどく造作もない。一極化した音だ。
瞬間、口から泡がこぽりと漏れる。口を引き締めて薄目を開けると眼窩と眼球の間に水が差し込み視界を不明瞭に揺らがした。その先に足が見える。四本。残念ながら僕は足を二本しか持っていないので残りの二本は他人のモノだった。浴槽は度外れに二人で入るには狭い。
その足が僕のわき腹をなぞり肉付きの悪い太腿を無造作に蹴る。終いに鳩尾を親指で押すので僕は口内の酸素という酸素をすべて吐き出してしまった。
「ぅぶッ、ごほっ……ぐ、」
水しぶきを上げて起こした顔面には、男の顔。しかし僕は鼻の奥に詰まった水で噎せるのに必死だった。あ、くそ、鼻が凄い痛い。
「大丈夫?」
ぎゅ、と奥の方がキンと痛い鼻を摘まれて微笑まれた。見やるとすぐに男は手を離した。
「死んだかと思ったよ」
「風呂に潜ったくらいで死ぬ人がありますか、臨也さん」
「いやだってねえ、壁にもたれかかってたかと思ったら急にだもん」
ビックリした、などと嘯きながら彼はすっと顔を近付けて僕の唇をかじった。歯列を舌でなぞられて上唇の裏を舐めるとするりと離れて首筋に弱く噛みついた。ぽた、と短い前髪から冷めた水が滴って、つめたさに震える。彼は僕のすぐ脇の浴槽の壁に足の裏をつけて足を縮めながら鎖骨をカサツいた唇で追ってそれから肩を食んだ。髪から落ちた水とは比べものにならないほど生ぬるい温度に今度は背筋から震えた。
「どうしたの?」
「……雨がきらいなんです」
「雨?」
彼は顔を上げて僕の鼻先で停止した。
「雨なんざ降ってないよ」
「嘘だ」
だって今もざあざあと。しかし世迷い事にも聞こえず僕は眼前の彼の唇をそっと探った。ざら、と舌と舌が擦れて熱い。あつい。どうしようもなくあつい。そのまま咥内に侵入を許せば我が物顔で酸素を横取りされた。親指の手を肋骨と肋骨の間に押し込んで顔の角度を変えて更に奥に舌を挿した臨也さんは、壁についていたはずの足さえ僕の腿の裏に回してぐっと体側に押しやった。
「雨の音なんて、聞こえる?」
何かの予兆のようにもう雨音は聞こえなかった。先ほどいつ止むかさえ測れなかったあの継続は、とうに霧散して現を抜かしていた。
「なあ、帝人くん」
「そんなことどうでもいい」
目を細めてねめつけると彼はくっと笑った。目を瞑って耳を澄ましても、排他的なシャワーの水が落ちる音しか聞こえなかった。
ぽつり、と髪から額に冷たい水が滑る。それで漸く目を開けると、彼が瞳になんの感情も移さずただ微笑んでいた。ただ口角を上げていた。僕はもう一度目を瞑って雨音を予期した。けれどももうぽつりと一滴さえもなりそうになかったので、仕方なしに僕自身がばちゃりと音を立てた。目の前の彼は瞳に色を写さずに微笑んだまま僕の名前を呼んだ。
僕は答える代わりに誰も浴びていないシャワーを浴槽の中から止め、やっと彼の瞳の中に感情を見いだすのだった。
始まり
12.9.25