こんなにも一人の朝は静かだったんだということを久しぶりに思う。隣に誰かがいるという生活がいかに当たり前になっていたんだということに今更ながらに気づく。

ただ、元の生活に戻っただけ。
そう、それは以前の生活。私が望んでいた一人で寝て起きて食べるという理想の生活だ。それなのに胸にはぽっかりと大きな穴が開いている。

怒ってるんだろうな。
わかってはいるけれど、顔を合わせることはしたくなかった。はっきりとこれは計画された結婚だったと聞かされたら今以上に傷つくのはわかっていた。だから、何も言わずに去ったのだ。計画が破綻したのかどうかは分からない。けれど、怒っているのは着信履歴の多さが物語っていた。

いつまでも考えた所で無駄だ。
それでも考えることは止めないだろう。しかし、いつまでもこのままでいる訳にもいかない。とりあえず住む為に借りたマンスリーマンションも1ヶ月で契約している。その1ヶ月で住む場所を決めて合間の時間に残してきた荷物を回収しなければいけない。やることは多い。まずはその現実に向き合うことにした。
以前だったら定時で帰っていた仕事も今は残業をあえてして帰るように。定時で帰っていた時は自分のしたいことをしていた。その日食べたいもの、したいことがあった。でも、今は全くそういう気持ちになれなかった。何か考えようとすると思い出してしまうのだ。

「椿、これ見たかった映画やろ?」
「椿、これ食べてみぃ。うまいでぇ。」
「椿、これやってみぃひんか?」

全てゴロちゃんに纏わるものが思い出されてしまう。何か楽しいことをしようと切り替えても全部それはゴロちゃんとしていた思い出に変換される。

傷が癒えるまでに時間は相当掛かるだろう。
何に対しても前向きになれない今。それならば、仕事をしていて無になっていた方がましだった。ただ只管疲れるまで仕事をしてその足で帰って眠る。これは生きているのかどうかはわからなかったが、傷が癒えるまでの辛抱と言い聞かせて日々を送っていた。

次の家の候補も決まり、あとは荷物を取りに行くだけ。ただそれだけのことなのに気が重い。鉢合わせしてしまったらどうしようという気持ちが先行してなかなか行く気持ちになれない。そして、ここ数日はあまり体調も良くなかった。頭が痛くなったり気持ち悪くなったり。病は気からというものでやはり精神的なものが大きいのだろうと思いながらもゴロちゃんの所に行くのは後回しになっていた。

さすがに今日は行こう。

体調が少しましになった日曜日。意を決して私はゴロちゃんの所に行くことにした。ゴロちゃんがいないことをだけを願いながら久しぶりにこの場所を訪れた。

ガチャリ。
鍵を開けてドアを静かに開けると玄関に靴はなかった。ほっとした気持ちで私は自分の部屋に一目散に掛けていく。時間はあまりない。必要なものだけ持ってきたスーツケースに詰めていく。ただ只管ゴロちゃんが戻ってこないことを祈りながら。
荷物を詰め終えてスーツケースを持って玄関に。あと少し。これでようやく全てが終わる。気の緩みもあったのかもしれない。少し気分が悪くなってきたのもあって玄関で少し座って落ち着くのを待っていた。ようやく気持ち悪さが抜けて立ち上がってドアを開けようとしたときだった。

「椿…。」

「………。」

久しぶりに見たゴロちゃんの顔は疲れが滲んでいた。

◆◇◆

「荷物を取りに来たんか?」

「そう…。」

なるべく顔を見ないように俯きながら私は答えた。やっと少しマシになってきたのに、やっぱり顔を合わせてしまうと胸が痛む。やっぱりまだ無理だった。こんな簡単に忘れられるとは思っていなかったけれど、やっぱり辛い。

思っていた以上に私の心の中には真島吾朗が住み着いてしまっていたのだ。
改めて思い知らされる。一人になってからも辛い思い出なのに思い出すのは楽しいことばかりだった。TVを見ていても今だったらゴロちゃんはこんな風に言うだろうなぁ、美味しいものを食べたらこんな風にゴロちゃんは返してくるだろうなぁと。

どうしようもないくらい自分の生活に中に入り込んで染み着いてしまっていたのだ。
早く忘れなければいけない。一刻も早く。だから、ここできっちりとお別れしなければいけない。辛いけれど、ここを乗り越えればきっと前を歩ける。深呼吸をして俯いていた顔を上げる。

「ゴロちゃん、今までありがとう。」

「どういう意味や?」

ゴロちゃんは鋭い視線で私を見る。怒っているのは見ていてすぐにわかった。それもそうだ。ゴロちゃんにとってそれは計画が破綻したことを意味しているのだから。私を意のままに操れなくなってしまうのだから。

「ゴロちゃん、私を騙して楽しかった?」

「はぁ?」

「私はわかってるから。嘘つかなくてもいいよ。もう怒ってないから。」

「椿…。」

怒っていた顔からゴロちゃんは苦しそうな顔をして見ている。私はここでますます分からなくなってしまった。ゴロちゃんが何を考えているのかを。でも、考えた所で無意味。もう会う事もない人なのだから。

「時間だから行くね。じゃあ…。」

「椿、待たんかい!」

私の腕を掴むゴロちゃん。私は感情的にならずにその掴まれた手をそっと振りほどく。ここで感情的になってしまったらきっと嫌なことをたくさん言ってしまうのがわかったからだ。
振り返ることなく私はスーツケースを引いて前を歩く。結局、ゴロちゃんが何をしたかったのかはわからなかった。でも、もういい。今日で関係は終わり私はまた一人の自由な身として生きるだけ。今まで通りに戻るだけ。
ガラガラと音を立てて歩いていると、急に音が遠くなったような感覚がした。またあの気持ち悪さが胃を伝ってくるのを感じる。立ち止まりたい衝動に駆られたが、外にでてからにしよう。そう思っても身体はいう事が効かなかった。

「椿!」

背後でゴロちゃんの大きな声が響くのを感じた。すぐに身体がぐにゃりとして視界が歪むのを感じた。立っていると思っていた身体はゆっくりと沈むのを感じた。私の耳にはゴロちゃんが掛けてくる音、ゴロちゃんが私の身体を支えてくる感覚。それだけしかなかった。

そこで意識が完全に落ちた。




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