カチコチカチ…。

気づけばかなりの時間が経っていたようだ。一旦集中モードに入るといつもこれだ。秒針の音が耳に聞こえるのを感じ作業の手を止める。うーんと伸びをして肩を回す。切れてしまった集中をまた元に戻すのは至難の業。

今日はこのくらいにしておくか。

予定しているノルマはこなしているので葵ちゃんも怒ったりしないだろう。凝り固まった肩をとんとんと叩きながら片手で引き出しの中を開ける。いつもならすぐに見つかる目当てのものはない。

まじかぁ…。

この前取りに行ったと思っていたが、そうではなかったようだ。溜息を尽きながら、途方に暮れる。今の時間は深夜3時。さすがに今連絡したとしても薬を用意してくれるかどうか。とりあえず電話をするのは止めてメールで用件だけ送る。すぐに返ってくるのであれば取りに行けばいい。さて、どうしたものか。悩んでいたのも束の間。すぐに電話が掛かってくる。どうやら急患があったようで、まだ起きているとのこと。すぐに薬を用意しておくと言われ、手早く着替えて外に。

今からだと4、5時間寝られればいい方かな。

しんと静まり返った道を歩きながらそんなことを。普通の人はとうに眠っている時間。自分もその一人のはずなのに、その中には入れない。いつからなのか分からないが、私は薬無しでは眠れない体質になっている。

なんかいい匂いする。

医院まであと少しというところで鼻を掠める香り。天は二物を与えずと言うが、私は眠れない体質のかわりに得た産物。人よりも嗅覚が鋭い。その産物のお蔭で今はそれを生業として生きている。何とも皮肉なものだ。

「たまには薬に頼らず寝てみたらどうだ?」

「それができたら苦労しませんよ。」

「まぁそうだな。」

ほら、1か月分だと渡された薬袋を手にして家へと急ぐ。自分でもわかっている。こんな事を続けていれば身体によくないということも。試せることなら何でも試してみた。しかし、どれも無理だった。眠れないと考えれば考えるほど眠れない。身体は疲れて眠ることを欲しているのに。原因は不明。きっと、自分はそこまで長く生きられないのだろうと薄々感じている。
そんな中で妙に納得したことがあった。何かで読んだ本に書いてあったこと。1日が本当は25時間であるということ。その誤差である1時間は生活していく中で帳尻が合わされているということ。私の場合はその帳尻に合わなかったのではないかと考えた。まぁ、実際の所はわからない。要は自分の身体は時差ボケがずっと続いているような感覚なんだろう。

そんな事をぼんやりと考えていると見慣れない通りを歩いていることに今更気づいた。よく考え事をしていると、知らない道を通ってしまうこともある。今日も然り。椿さん、ぼんやりしてると誰かにぶつかったりしますよと葵ちゃんにも言われたことを思い出した。

…っていってもこんな夜更けに人なんている訳ないか。

匂いから推測するとここは中華街?いや、違うか。中華街の香りとはまた違う香りだ。油の香りや独特の香辛料の香りもするけれど、似て非なるもの。あぁ、そうか。やっと、この場所がどこなのかわかった。
飯店小路。普通の人が通るのも躊躇するアンダーグラウンドな場所。自分もこの通りにきたのは初めてだった。詳しくは知らないが、ここは中華マフィアのアジトがあるとかないとか。以前、近道だと思って葵ちゃんにこっちを通ろうと言ったらすごい剣幕で怒られたのを思い出した。

「ここは地元の人でも近づかない場所なんで、絶対通っちゃ駄目です!」

「そうなんだ。ちょっと暗い感じはするけど、大丈夫そうじゃない?」

「椿さんはほんともうちょっとしっかりしてください。」

「はい。」

…とまぁこんな風に危ないということを言われた訳だ。そんな通りに今、私は一人でいる。引き返そうとも思ったが、大通りまではあと少し。このまま知らないフリをして通り過ぎてしまえばなんともないだろう。

気にしすぎだよね。

怪しまれないようにただまっすぐ歩くのみ。少しだけさっきよりも歩みを早めて何事もないことを祈る。あと少しいけば大丈夫。そう自分に言い聞かせて前を歩いていた時だった。音もせず、さっと横の路地から影が差したのが見えた。そこで一瞬歩みが止まってしまったのが良くなかった。気づけば距離はだいぶ近かったようだ。私が再び歩き始めたタイミングでその影と重なる。

ドンッ。

まさかぶつかるとは思ってもみなかった。気づけば自分はバランスを崩して身体は地面に叩きつけられる。すぐに起き上がろうと思うが、身体はうまく動かず。当たり前だ。身体は疲れ果てていたのだから。くらくらと眩暈のような頭痛を感じて目を閉じた。

葵ちゃんの言うことは正しかったな。

自分の軽率な行動を後悔しながら、意識は遠くなっていくのを感じ始めていた。

「大丈夫?」

自分の頭上に声が聞こえた。ぶつかった男の人のようだ。私は声も出せず身体も自由が利かない。すると、辺りが騒々しくなるのを感じる。一人だと思っていたようだが、どうやら大勢の人が周りを囲んでいたようだ。

「天佑様、どうされますか?」

「とりあえず、上に運ぶ?」

ふわりと身体が宙に浮かぶのを感じる。抱えられてるのか、私。そういえば、葵ちゃんが言ってたな。この通りに入って行方が分からなくなった人もいるってことを。私もその中の人になるのか。薄れゆく意識の中で思ったことは、なぜか鼻を掠めている香りがとても良かったことだった。嗅いだことのない香りだった。

何の香りなんだろう。

危機的状況にも関わらず私の意識はその香りのことで一杯だった。

◆◇◆

ブーンと耳に残る音。私のスマホの音だろうか。無意識のまま手を伸ばして机の上にあるスマホを手にする。耳には知っている人の心配そうな声がしていた。

「…葵ちゃん?」

「椿さん!今、どこにいるんですか?心配したんですよ!」

電話越しの葵ちゃんは焦った声でやっと繋がったと安堵の声を漏らしている。あれ、私どうしたんだっけ?とここでようやく閉じていた目を開ける。見慣れない家具が並んでいるのが見える。そして徐々に鮮明になっていく記憶。

そうだ、私、飯店小路で倒れたんだ。

「葵ちゃん、今何時?」

「今ですか?あと1時間でお店を開ける時間です。」

「そっか。じゃあ、急いで戻るからお店を開けておいて。」

「椿さん、今、どこなんですか?」

「…お店の近く。」

「そうですか。わかりました。」

電話を切ってようやく身体をゆっくり起こす。倒れた割には身体に痛みはなく、どうやら疲れていたことが主な要因だったのだろう。ベッドサイドには持っていた薬の袋もご丁寧に置かれていた。

今の内なら大丈夫かな。

ドアノブを回すと鍵も掛けられておらず、出られることもできる。聞いていた噂とは随分違う。まぁ、いいか。物音を立てずに静かにドアを開けて廊下を見渡す。人の気配はしていない。息を殺しながら一歩一歩前に進む。途中ぎしりと床の軋む音が気になったが、立ち止まってはいけない。この場所がどこなのかはわからないが、とりあえず外にでなければ。長い階段を下りて立派な扉の前で一呼吸。おそらくここが出口だろう。少し重い扉を開けると眩しいくらいの朝の光が目に差し込んでくる。目が慣れてきた所で目の前に立っている人影がいることに気づく。

「あっ、起きたんだ?」

「あっ…。」

目の前で笑う男の人。この声は確か…。記憶が間違えてなければこの声はぶつかった時の男の人ではないのだろうか?そう、あの時鼻を掠めた良い香りが自分の周りに立ち込めていた。




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