慣れ親しんだ習慣というのを急に変えるということは難しい。
頭ではわかっていても即答で出る言葉こそが真実であり習慣なのだ。
そしてその習慣に悩まされているのが今の私だ。

「ねぇ、前から言おうと思ってたんだけどさぁ…。」

「何かありましたか、ボス?」

ボスと言えば色々だが、私の目の前にいるのは正真正銘、マフィアのボス。…といっても今は横浜流氓の元ボスといった方が正しいのだろう。けれど、私にとってボスはボス。この人に仕えると決めてからどういう形になろうとボスであることにこれからも変わりはない。だからこそ、そう呼んでいる。

「椿はさぁ、いつになったら俺の名前を呼んでくれるの?」

「えっ…。」

ボスはボスであり、それ以上でもそれ以下でもない。愛称を込めて呼んでいるボスという呼び名が気に入らないのだろうか。悩みこんでいるとボスはそこまで悩むことないよと言っている。

「じゃあ、なんと呼べば?」

「そうだねぇ。趙さんでもいいし、趙でもいいし、なんなら天佑とかでもいいかな。」

「そんな恐れ多いこと…。」

常にボスの横にいて護衛をしていた身にとっては反射的に出てしまうのだ。ボスという言葉が。

「でもさぁ、もう俺は何の肩書もないどこにでもいるただの男じゃん。」

「そうですけど…。」

いくら横浜流氓のボスをやめたとしてもその威厳は変わらない気がする。ボスから放たれるオーラは以前と変わらない。要は持って生まれた素質なんだろう。悩んで黙っている私を見てボスは良い事を思い付いたと嬉しそうにしている。経験則だが、こういう時のボスの思いつきはあまり良い事がない。

「次からボスって言ったらさぁ、罰ゲームをするってのは?」

「えっ…。」

「椿が俺のことをボスっていう度にひとつ、俺が罰を与えるんだよ。」

「いや…でも…。」

ボ…と言いかけた言葉を飲み込んでいると笑うボス。変わらずこの人は人生を楽しんでいる。いや、今が一番楽しいのかもしれない。たくさんの部下を抱えて必死に横浜流氓のトップとしていたときは気苦労も多かった。今はようやく少し肩の荷が下りて本来のボスではなく趙天祐としての個の顔をしているのだろう。

それはさておき、困ったものだ。じゃあ、ボス以外どう呼べばいいのか。一番しっくりくるのが趙さんだろう。ただ、それも自分にとってはハードルが高い。ここはボスがこの遊びに飽きるまで呼称を呼ばずに乗り切るのが得か。ボスが何かを言う度に、私はただ、そうですねと相槌を打って今は難を凌ぐだけ。

「椿は案外、強情だねぇ。」

「そんな事は…。」

痺れを切らしたボスは溜息をひとつ。決して困らせたい訳ではない。これは慣れ親しんだ習慣である。それを変えるには何か大きなきっかけが必要なだけ。

「そういえば、例の件はどうだった?」

「例の件?」

急に声のトーンが変わり、以前のボスの時のような声に。私は何の事を指しているのだろうかと思案する。横浜流氓の総帥はソンヒさんになり、今は私もそこで働かせてもらっている。さしあたって気になることはなかったと思うが。何点か心辺りのあることを話していく。仕事のことになるとつい忘れていたのだ。そう、うっかりと何かの拍子で出てしまった。“ボス”と。

「椿、言っちゃったね。」

「あっ…。」

嬉しそうに笑うボス。一体どんな罰が待ち受けているのだろうか。できればそこまで痛いものは避けてほしい。…といっても今までボスから叱責されることはあっても物理的な痛みを受けた事はない。じりじりと私との距離を詰めてくるボス。私は目をぎゅっと瞑り、痛みが過ぎ去るのを待つ。

ふっと耳にかかる息。それがボスの吐息だと気づいたのは私の背が追いつめられて行き場を無くした時。目は開けちゃ駄目と言われているので何が起こっているのか分からない。ただ、耳の周りがなんだかむず痒い感覚がしている。

「オッケー!椿、目、開けていいよ。」

恐る恐る開けるが、特に変化はない。しかし、気になっていた耳に触れると変化はあった。ほら、見て見てよと言われて渡された鏡を見てみる。

「これ…。」

「前はつけてたでしょ。穴が塞がる前に何かいいのあればと思ってさ。」

以前つけていたピアス。それは必要であったからつけていたものだった。ピアス型のイヤホンになっていて仕事で必要だったからつけていた。それ以前はピアスの穴なんて必要はなかった。今はその必要がないので外してしまった。そしてその穴は自然に塞がるだろうと思っていた。

「ボスがわざわざ買いに行ってくれたんですか?」

「さぁ、どうだろうねぇ。たまたま椿に似合いそうだなぁと思って買っただけだよ。」

「ボス…。」

なんだかんだ言って本当に優しい人だ。きらりと耳に光るデイジーのピアス。少々自分には可愛らしい気もするが、ボスのくれたもの。大切に使わせてもらおう。改めてボスの偉大さを知って嬉しくなっていると声がかかる。

「椿、2回言ったよね?」

「あっ…。えっと…。」

嬉しさにかまけて気づけば何度か呼んでいたような。ボスは次はどうしようかなぁと嬉しそうに再度距離を詰めてくる。そうだ、私は罰を受ける筈だったのに。なぜか贈り物を受けていた。
じりじりと詰め寄られて私はまたもや行き場を無くす。そう、早く呼べばいいんだ。

「…趙さん、ありがとうございます。」

「えぇ〜。このタイミングで言う?」

ハハっと軽い笑いで私は誤魔化すとボスはそっと後ろに引き下がってくれた。これにて一件落着。…というかボスは一体、私に何をしようとしたのか。聞くのは怖いのでやめておこう。

慣れ親しんだ習慣というのを急に変えるということは難しい。
頭ではわかっていても即答で出る言葉こそが真実であり習慣なのだ。
しかし、その習慣も徐々に変えていかなければいかないのだろう。

ボ…と言いかけて趙さんと呼ぶとボスは頭を下げて私の目を見る。まだ慣れないけれど、こうやって変わっていくのだろう。ボスはその内ボスでなくなり、私も部下ではなくなる。それは少し寂しいけれど仕方のないこと。

「椿、どっかでご飯食べて行かない?」

「いいですね。」

「どこにしよっか?」

「ボスの好きな場所でいいですよ。」

「あれぇ?」

「…趙さんの好きな場所で。」

今、何か聞こえた気がする…と言われて空耳ですよと返す。今はこの穏やかな時間を楽しむのも悪くない。そして慣れた暁にはボスのことを趙さんと親しみを込めて呼べるのかもしれない。


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