人というものは何事においても優先順位というものがある。私の中でもその優先順位は細かく決まっていてその順位の優先は自分ではなく他の人になっている。自分のことに関してはほぼ後回しになってしまう事が多い。その事に関しては悲観している訳ではなく、寧ろ良いことだと思っている訳なのだが、目の前にいる人はそれを良しと思っていない。

「椿、切りに行かないの?」

「あっ、昨日はちょっと行けなくて今週中には行きます。」

「ふーん。」

ここ最近のボスの関心は私の伸びた髪。自分でもさすがにそろそろ切りに行かないといけないかなと思いながらも行けていない。正確には以前切ってくれていた人がいなくなったから。カットモデルとして安価で切ってくれていたありがたい美容師さんだったのだが、結婚を機に退職してしまったことで、私のカットができなくなってしまった。

どこも高くないか!!

こうして毎日いい美容室がないか調べ始めてみたが、今まで安く済んでいたカット料金が高いことに今更ながらに気づく私。その時はまぁその内安い所を見つけて切ればいいか、しばらくは縛っておけば大丈夫かとなっての今になっている。

「椿は何か願掛けのつもりでしてるの?」

「はい?」

私の伸びた髪をさらっと触れながらボスは聞いてきた。美容室探しを半ば放置している状態の私。いや、そろそろ切りたいのは山々なんですけどねと言いたい所だが、どう言っていいものなのか困る。ボスには感謝しきれないくらい恩がある。これ以上負担になるようなことはしたくない。髪を切るお金がもったいなくて…なんて言おうものなら目の前に札束を置かれそうで困ってしまう。ボスからは毎月生活できるだけのお給料は頂いているのでそれ以上迷惑を掛ける訳にはいかない。私の中にあるプライドのようなものが返答するのに時間を要して答えに詰まる。

「やっぱりさぁ、最近は和風もいいっていうからこれくらい長いと色々アレンジできそうだしね。でも、やっぱりドレスで可愛らしくアップにして魅せるってのもいいよねぇ。」

「えっ…。」

ボスは嬉しそうに私の髪の毛で手遊びをしながらよく分からないことを言っている。私は苦笑いをしながらとりあえず相槌を。時々こういった突拍子もない話をすることもあるのでそういう時はこういう対応にしている。掘り下げてしまうとなんとなく嫌な予感がするからだ。

「椿と結婚式する時の話だよ。」

「あっ…。」

嫌な予感はやはり的中。本気なのか冗談なのかわからない爆弾を投下してくるボス。後で怖いので決して真意を聞くようなことはしない。それがお互い平穏無事に過ごせると知っているから。

「そろそろ切る時期なのでいい美容室探して近日中に切ってきますね。」

「なんだぁ、残念。」

今日も事なきを得たようだ。…と思っていたのはその時だけで、それから毎日顔を合わせる時に切りにいかないの?と聞かれるようになってしまった。その内その話題も飽きてくれるかなと思っていたが、意外と短気なボスは痺れを切らしたようだ。

「椿、ちょっと来てくれる?」

「はい!」

仕事のことだと思ってすぐに後をついていく。何だろうと思いながら建物の屋上に一緒に上がっていく。何やら深刻な話かなと思っていると目の前の椅子に腰かけるように言われる。

これは何でしょうか?

「知らないの?青空美容室ってやつ。」

「えっと…。」

これってつまりボスが私の髪を切るってことでいいんですかね?ボスは早く座るようにと椅子をとんとんと叩いている。私は渋々腰かけるとすぐにケープが飛び出して掛けられる。

「えっと、これはボスが切ってくれるってことですか?」

「こう見えても結構うまいんだよ。」

「いや、さすがに…。」

「椿がなかなか自分で探して行かないからだよ。」

「うっ…。」

そんな訳で私の断髪式ではなくカットが晴れた空の下でボスの手で行われるようになった。

◆◇◆

それはほんのただの思いつきと気まぐれ。しかし、彼女の伸びた髪の毛を前にすると少しだけ緊張するのを感じ始めていた。これまでも何度か自分で切ったことはあるし、若い奴に頼まれて切ったこともある。盆栽の剪定と同じようなものだ。そう言い聞かせて彼女の髪の毛に触れながら鋏を入れていく。

「肩くらいでいいの?」

「はい…。」

彼女は少し緊張した面持ちだ。部屋に置いてあった姿見越しに彼女の姿を見ると、口を真一文字に結んで大人しくしている。ここは自分が緊張を解した方がよいだろう。彼女の頭を見ながら旋毛が2つあるというとぴくりと身体が動いた。

「知られたくないことがまたひとつ知られた気がします。」

「別にいいじゃん。じゃあ、俺と椿だけの秘密にする?」

「いや、それも何か違うような…。」

彼女の緊張も解けてきたようなので再度切ることを告げて鋏を入れていく。今日は快晴。とても綺麗な視界で髪を切っていくことができる。細くてまっすぐな彼女の髪の毛はたちまち床に落ちていく。

「椿、切りに行かないの?」

「あっ、昨日はちょっと行けなくて今週中には行きます。」

「ふーん。」

そのやり取りは先日のことだった。すぐに切りにいくと思っていたが、その後も彼女の髪の毛は変わらず伸びていた。そして気づく。ひょっとしてもったいないから美容室に行くことをしないのではないかということに。以前も何かの節に似たようなことがあった。その時、彼女は言っていた。このお金があれば家族にしてあげられることが増えるのだと。

じゃあ、自分はいいの?

そういいたくなるが、彼女はそれで幸せそうな顔をしていたから聞くのはやめにした。彼女の中での優先順位は自分が一番ではないのだ。なんとも歯痒いような意地らしいらしいようなどうしようもない気持ちになったのを思い出す。あぁ、なんか似てるな、自分と。そんな風にその時感じた感情を今回の1件で感じたのだ。
だから強行突破してみた。彼女のプライドを傷つけないように。嫌がるようであれば、自分の通っている美容室に連れて行こうと思っていた。けれど、彼女は椅子に腰かけた。ならば、自分はその気持ちに応えるのみ。

「前はいいの?」

「じゃあ、お願いしてもいいですか?」

髪が目に入らないように目を閉じてもらうように言うと、彼女は素直に閉じる。こんな風に間近で彼女の顔をゆっくりと眺めることは中々ないことだ。新鮮な気持ちで彼女の顔を見つめる。長い睫毛、右の目元には黒子がひとつ、手入れはあまりしていないという割には綺麗な肌をしている。そう、可愛いのだ、彼女は。

「ボス…。」

「ごめんごめん。ちょっと、ぼんやりしてたよ。」

本当は見惚れていたなんて言ってしまうと彼女がまた委縮してしまうのはわかっていた。だから誤魔化すように切っていくねと言ってまた鋏を入れていく。先ほどよりも慎重に。万が一肌に傷でも入ってしまったら大変だ。長さを見つつ、目に掛からない長さに切っていく。

「はい。じゃあ、完成。」

「わぁ!すごいです!ボス!」

ケープを外して髪の毛を払っていると彼女は渡した手鏡を見ながら嬉しそうにしている。自分でもかなり良く出来た方だと思う。彼女の毛質も功を奏したのだろう。

「ボスは本当に器用ですね。」

「そう?でも、器用っていいことばっかりじゃないよ。」

「そうですか?」

「そうだよ。」

器用だね。そんな言葉をよく言われてきたが、それって果たして良い事なのかと言われる本人はいつも疑問に思っていた。どれも卒なくこなすけれど、どれも自分の手にすることはできない。自分の場合はそうだった。予め将来を決められていたようなものだから。それを悲観したことはないが、少しだけ他の人が羨ましいと思ったことがある。なりたいものになれる、挑戦できるということが。

「ボスは気にされてるかもしれないですけど、今、私はボスに髪を切ってもらえて幸せですよ。だから、器用っていいことだと思います。」

「椿…。」

あぁ、また彼女の悪い癖がでている。すぐに自分の心の中を覗き込んで今、自分の欲しい言葉をくれるのだから。抱きしめたくなる衝動に駆られたが、すぐに思い留まる。そっと気持ちを落ち着けながら片付けをしていく。ふと彼女に目を向けると嬉しそうに手鏡で髪を見ている。

そう、これでいい。今はまだ。

焦って生き急ぐようなことはしたくない。彼女との関係は。今はこの一番近い距離で彼女の喜ぶ顔が見られる関係でいい。
いつかその時が訪れれば彼女には思いの丈を告げればいい。今はまだこのゆっくりとした時間の中で彼女と過ごしたい。そう、彼女もきっと同じ想いだろうと。彼女の笑顔を見ながらそんな事を思った快晴の日。




「次はこんな髪型はどう?」

「いや、この前切ってもらったばかりなんで…。」

ボスはあれから事あるごとに私に新しいヘアスタイルを提案してくるようになった。あれはあれでいい思い出となったが、今度はちゃんと美容室で切りにいこうと思う。嬉しいけれど恥ずかしい。ボスに切ってもらった時に思った不思議な感情。別にやましいことをしていないのにそんな感覚になってしまったからだ。
そんな私と違い嬉しそうに私の髪に触れるボス。こんな気持ちになってるとは知らないだろうなぁ。そうは思いつつも軽くなった髪は自分を少しだけ前向きにさせてくれる。


ズボラと器用




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