触れたくなったら触れられる。声が聞きたくなったら聞くことができる。望むことは全てできるようになった今。それでも変えられないもの-過去。どうでもいい事なら忘れてしまえばいいのに忘れられない。そう、私にとっては一種のトラウマのようなものなのだろう。
1年で1番嫌いな時期が今年もやってきた。ここ数年はそんな事を思わなかったのに、その苦い思い出を思い出したのは趙とまた向きあうことにしてからだった。幼馴染という間柄は良くも悪くも過去と現在の思い出を共有する。過去の良かったことも然り、悪かったことも然り。過去を知っているからうまくいくこともあるが、その反面もある。それが正に今だったんだろう。
「椿、そろそろじゃない?」
「何が?」
父の作った炒飯を噛み締めていると趙は何かを含んだ笑みを浮かべて話している。そろそろ…。毎年商店街で作られる壁掛けカレンダーを見ると今日は2月の2日。節分なら明日。でも、そろそろという言葉の意味を取るとすればあのイベントのことしか考えられない。
「どうする?」
「どうするって?」
「一緒に作っても楽しいと思うんだよね。」
趙は楽しそうにチョコは作ったことないから楽しみなんだよねと話している。私はただ黙ったまま趙の話を聞いているだけ。私の脳裏には掘り起こしたくない過去の映像が蘇っていた。
◆◇◆
あれは忘れもしない小学校3年生の時のことだ。当時からすでに趙はクラスの中心で男女共に好かれていた。彼の周りには常に誰かいて趙が何かを言えば笑いに変わり、クラスの雰囲気は趙によってうまく調節されていたような気がする。
その人気の高さを象徴するのがバレンタインだった。当日になると女子はそわそわとした気持ちで趙の机の中や下駄箱に綺麗にラッピングされた箱を置いていく。自信のある可愛い女の子は手渡しで趙のもとに。当時の2月14日の主役は正しく趙だった。そして、私もその年チョコを渡そうと鞄の中に忍ばせていた。
「椿、そろそろ帰る?」
「あっ…。うん…。」
当時は帰る道が一緒だったことから並んで下校することもしばしば。でも、今日に限って。いつもと同じテンションでない私。珍しく緊張していたのだ。
「趙、トイレに行きたいから先に門の所で待ってて。」
「了解。」
本当はトイレに行く用事なんてなかったのに、私は一端気分を落ち着ける為にトイレに。そして一息ついて鞄の中でしたためておいたチョコを確認。そうだよ、いつものようにさりげなく渡せばいいんだ。自分を奮い立たせて門の所まで駆けていく。
あれ?
ちょうどあと少しで趙からは見える位置まできた所で感じた異変。いつも趙についてるボディガードの一人の人が大きな紙袋を手に歩いている。趙が待っているのが気になったのだが、私は吸い寄せられるようにしてその後を追う。
えっ…。
気づかれないように後を追った先に見えたのはゴミ置き場。そして当時はまだ学校に設置されている焼却炉。子供ながらに嫌な予感がしているのは目に見えていた。その予感は見事に的中していて紙袋から取り出されたチョコレートは燃え盛る焼却炉の中へ。ひとつ、ふたつと投げ込まれていくのを私は静かに見ていた。
「椿、今日、お店寄ってってもいい?」
「何で?」
「小腹空いたし、椿のお父さんの炒飯食べたくなってさ。」
「無理!」
「えっ…?」
「今日はお父ちゃん、忙しいって言ってから無理。私も手伝いあったの思い出したから…。」
まだ分かれ道ではないのにバイバイと行ってそのまま駆けた。勿論全部嘘だ。私はチョコが入った鞄をぎゅっと手で握りしめて走った。その頃くらいだろう。明確に趙との関係が変わり始めたのは。
「椿…おーい、椿?」
「あっ…。ごめん。」
趙は心配そうに私を見ている。私はすぐに何でもないと言いながら話題を変えた。脳裏では今年はどうやり過ごそうなんて考えていた。笑いながらもサングラス越に感じる視線に余裕のない私には気づくことなく、当日まではあっという間だった。
予め、自分の中では計画を立てていた。今日を仕事の日にすることに。そして私の職場は都内。頑張っていったとしても横浜につくのは夜。物理的に無理にした。そして仕事であることを理由にスマホもマナーモードに。
趙には予め、仕事があることを伝えておいたのでこれで大丈夫。
勿論、チョコは用意していない。付き合って初めてのバレンタインなんだから用意すればいいじゃないかと言われればそれまでだ。けれど、怖いんだ。あの焼却炉の映像が自分の中ではトラウマのようになっている。自分が渡せなかったチョコがあの焼却炉の中にポンと放り込まれてしまうんじゃないかという不安。
もう趙は流氓のボスでもないのに。そう、ただの幼馴染で私の恋人なのに。
言えればいいのにいつも自分の面倒な性格のせいで、こんな風に拗れて現実から目を背けてしまう。今日だけうまくやり過ごせばきっと明日からはまた元通りになるなんてそう思っている。
でも、思ったよりも趙は行動的だったようだ。
「椿!」
「嘘…。」
職場を出たすぐの植え込みに腰かけている。今日はもう会う事がないと思っていないと高を括っていた私。突然現れた趙に対してあからさまに私は動揺していた。
「椿、今から部屋行ってもいい?」
「…えっ…あっ…うん。」
動揺しすぎて自分でもどう返答したのか分からない。何を話したのかも覚えていない。気づけば自分の部屋に。でも、部屋に入った瞬間、がらりと空気は変わった。
「椿、俺になんか隠してない?」
「何の事?」
詰め寄るように趙は私に近づいてくる。鼓動が早くなるのを感じる。私はただ目をぎゅっと瞑ったまま何もないと言うだけ。このぴりぴりとした空気。趙が怒っているときの空気だ。そう、古い付き合いなんだから知ってる。
「なんで俺には何にも言ってくれないの?」
「趙…。」
言えば楽になるけど言いたくない。なんでだろう。どこまで頑固なんだろう。結局あの時の真相を聞くのが怖いんだ。チョコレートを捨てるように命令したのが趙本人だったらどうしようだなんて。
「ごめん…。やっぱり、今日は帰って。」
「椿…。」
自分でも相当ひどい女だと思う。折角訪ねてきた彼氏にすぐに帰るように言うなんて。でも、もう限界だった。このままだともっとたくさん積み重ねてきた黒い感情が剥き出しになりそうで怖かった。
「…わかったよ。」
趙は深い溜息をついて部屋を静かに出て行った。超能力者でも何でもないのに、そのドアの閉じる音でわかった気がした。あぁ、なんかこのまま終わりそうだな、なんて。
気分が落ち着いてから玄関に行くと小さな紙袋が置いてあった。そこには綺麗にラッピングされたチョコが入っていてひとつ手に取って口に入れた。途端に甘い口当たり、そして苦味。そして目から零れ落ちる涙。
やっぱり、私は1年でこの日が一番嫌いな日だ。いくつになっても。
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