世の中には努力で何とかなるものとならないものがある。それが今だ。それが人生。

「峯、私、やっぱり峯とは付き合えない。」

あの言葉があれからずっとループしている。もう手遅れなのに。折角、手にする所まできたのに。やっぱり、自分の人生とはいつもそうなのだ。良い所までくるとこんな風にしっぺ返しを食らう。いつもそうだ。
諦めないと決めたのに、彼女の全て過去になっている口振りに為す術がなかった。

「私、来月、転勤することになったから。」

まさにそれは青天の霹靂。彼女は以前から未来を考えていた。今の場所でなく、次の場所へと。そして、その隣りには自分がいない。

「峯、じゃあね。」

去って行く彼女を追えなかった。どうしてだろう。分からない。けれど、これ以上食い下がってもいいことはない気がしていた。自分の中にある何かが押し留めていた。きっと、それは自己防衛本能だろう。

これ以上、彼女に嫌われたくないという。

自分はなんて無力なんだろう。歯を食いしばって今の位置にきた筈なのに…。結局、何も手にしていなかった。
ただぼんやりと小さくなっていく彼女の背を見つめるだけだった。
後になってわかったことはひとつ。ここで押し留めてしまったら、自分は彼女の未来をまた捻じ曲げてしまうのではないかということに。ただ傍観するしか術がなかった。

◆◇◆

「おい、今日はその辺にしておけ。」

「大丈夫ですって。まだ俺は飲めますから。」

大吾さんは深い溜息をついて煙草に火を。自分も同じようにポケットから煙草を取り出す。別に好きで吸っている訳じゃない。口寂しいのだ。夏とキスをしたあの日から。煙草を咥えてライターに火を。ほら、全然美味しくなんてない。わかっているのだ。そんな事は。でも、そうしていないとうまく自分を保てない。酒もそうだ。今は全く美味しいと思えない。だからうまく酔えていない。心地よい酔いではなくて気持ち悪い酔い。明日の朝はきっと最悪な状態だろう。構いやしない。もうどうでもいい。

自分の部屋に帰って、何も考えないままベッドに沈みたい。少しでも理性があると駄目だ。思い出してしまう。最初に彼女を部屋に連れてきた時のことを。
くすぐったいような彼女の吐息が首元に掛かる。自分が齎した愛撫によって、彼女は実に心地よい顏をしていた。情事の時の彼女は普段と違い、大胆でそれもまた自分の中にある欲を掻きたてる。

忘れたくない大切な思い出。けれど、忘れてしまえば楽になれる。

だから、酔ったままベッドに沈みたい。起きた時に現実を直視しなければいけないのだから。起きていたら、考えてしまうんだ、彼女のことを。

「夏…。」

「おい、大丈夫か?」

頭の上から声が聞こえるが、もう答えられない。今は、そっと目を閉じて静かに眠りたかった。最後に聞こえたのは呆れたような大吾さんの溜息だった。

◆◇◆

そこまで多くのことを知っている訳ではない。けれど、この男と一緒にいる時間が好きだ。友人とも違う、同僚とも違う、不思議な関係だ。それは自分の置かれている環境もあるのだろう。

東城会の6代目。その世界に身を置いていれば誰しも憧れるその位置。しかし、自分はどうなのかと言われれば答えに詰まる。若くしてその位置についてしまったことで、古参の幹部からは苦い顔をされ、若い組員は礼儀を知らず、舐めた態度を取るものもいる。

どこに罠があるかわからない。

隙あれば誰かを蹴落としてのし上がろうとする者も多い。信じれば裏切られる。それがまかり通る世界。それでも、何かに縋って信じてみたい。理想はあるが、なかなか現実は難しい。

そんな時に出逢ったのが峯義孝という男だった。どこにでもいるカタギの男だった。けれど、なぜか馬が合う。不思議な男だ。この男といると、自然と自分もヤクザであるということを忘れて、ただの堂島大吾というどこにでもいる男になれたような気がするのだ。

要するに楽なのだ。気を使わなくてもいい、気を使われない。その関係が。対等であるということはこんなにも楽なんだということをこの男と出逢って知った。定期的に飲むような間柄になってお互いのことを少しずつ知って、あの事を知った。

「峯は女はいないのか?」

「特定の女はいないですね。今は。」

「そうか。」

端整な顔立ちだからきっと、女も放っておかないだろう。そんな風に思っているが、本人はどこ吹く風といった顔だ。興味がないのだろうか。そんな風に酒を飲み続けていると、ぽつりと峯は言った。

「どうしても、忘れられない女なら一人います。」

「どんな女なんだ?」

俄然興味が湧いた。お互い酔っていたせいもあるだろう。朧気な記憶の中、初めて峯の女に関する話を聞いた。そして、ある日、嬉しそうにしている峯を見て思った。あぁ、何かあったのだと。嬉しそうにその女の話をする峯。不思議なくらいその話を聞いて、自分も嬉しくなった。なんでだろうか。それはきっと、自分にとって峯は大切な存在になっているからだろう。自分の大切な人には幸せになってほしいという。

そんな峯が酔いつぶれて今、カウンターで臥せっている。聞かなくてもそれはわかっている。きっと、例の女のことだろう。今日の峯は初めて会った時の顏をしていた。全てを失った時のあの死んだような眼をしていた時の。

「お節介と言われても、俺はやるぞ、峯。」

ロックグラスを傾け、そんな事を一人呟く。折角、出逢えたのだから、これではい、おしまいというのは駄目だ。男女の関係に第三者が介入するのがよくないのは重々承知している。けれど、止められなかった。
きっとそれは、一種の願いなんだろう。峯にはまっとうで幸せな人生を歩んで欲しいという。自分が進めなかった道を託してみたいと思っているのだろう。スマホを取り出し、電話を掛ける。

「おぉ、珍しいのぅ…。どないしたんや、大吾チャン。」

「ちょっと、真島さんにお願いしたいことがあるんですが。」

当事者がいない間に事は静かに動き始めていた。



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