焦りと油断。常に冷静さを保つ為には、この2つのことに気を留めておかなければいけない。しかし、人という生き物はその冷静さが常に保たれている訳ではない。そう例えば、恋をしている時なんてそうだろう。余裕がなくなって夢中になってしまう。正に今の自分がそうだ。

そう、俺は迂闊だったのだ。
ようやく、自分の想いが彼女に通じたことで油断していたのだ。
いや、違う。
もう残り1か月しかないということで焦っていたのだ。

焦りと油断は時に判断を鈍らせる。そう、俺は判断を間違えた。だから、ようやく繋がりそうだった彼女との縁が切れた。

◆◇◆

「峯、鳴ってるけど、いいの?」

「あぁ…。」

鳴ってることなんて随分前から分かっていた。大抵、何回かコール鳴って切れる筈なのに、一向に鳴りやまない。一気にその音で現実に戻されたような気がする。さっきまでの時間がまるで夢の中だったように。

夏から初めて求められた。

彼女から初めて受けた口づけ。今まで幾度となくその行為をしてきた筈なのに、違っていた。口づけとはその後の行為の余興のようなもの。なくても良いと思うくらいの感覚。でも、夏から受けた口づけは全然違っていた。こんなにも満たされていくのかと思うくらいに全てが満たされていく。自分の汚い部分や嫌な過去も全て消してしまうくらいの。それくらい彼女から受けた口づけは幸福を齎してくれた。

取った方がいいよと言われて渋々、すぐに終わると言って電話を取る。表示を見ずにとったからいつもよりも不愛想な声に。そして声を聞いてすぐに後悔する。相手は大吾さんでいつもの冷静なトーンの自分に戻る。

「急ぎじゃないけど、来れるか?」

「…わかりました。」

少し間が空いて迷ってしまった感じになってしまう。大吾さんは本当に大丈夫かと言っているが、大丈夫ですと今度は即答する。他ならない大吾さんの頼みだ。夏とこのままここで別れるのは少々不本意だったが、仕方ない。ここまでくればもう大丈夫だという妙な自信が自分にはあった。そう、慢心していた。

「そうなんだ…。わかった。」

「悪い。この埋め合わせは後日する。」

「ううん、大丈夫。気をつけてね。」

「帰ったら、連絡する。」

本当ならば、この日もこのまま大阪に留まって彼女と一晩過ごしたかった。きっと、彼女も同じ気持ちだっただろう。彼女の目も残念にそうにしていたからだ。そして思い出す。渡そうと思っていたものがあったことを。

「帰ってから開けてくれたらいい。」

「何?」

「今日、付き合ってもらったお礼だ。」

「峯…。ありがとう。」

渡した紙袋をきょとんとした顔で見ていたが、ありがとうと言う時は笑顔で自分を見ていた。あぁ、なんだろう。このもどかしい感じ。このまま彼女を連れてどこかへ消えてしまいたい気持ちが一気に押し寄せてくる。でも、そんなのは無理な話だ。大吾さんには今日中に行くと約束したのだから。夏も大事だが、自分にとって、大吾さんも大事な人だ。

「夏、またな。」

「うん。」

別れ際、夏の手を突然引いて自分の元に寄せて頬に口づけを落す。夏はここ、人通り多いから…とちょっと怒ったような声が聞こえるが構うことなく、余韻を楽しむ。そう、名残惜しかったからだ。

でも、行かなければ。溜息をひとつ零して彼女と別れた。そして乗り込む新幹線。本当なら隣は彼女の筈だったのに見知らぬ人が座っている。寝ている内に東京駅に着くだろう。そう思って、目を閉じた。今なら幸せな夢が見られそうと思いながら。

◆◇◆

「これで、多分、大丈夫だと思います。」

「やっぱり、峯に連絡して正解だったな。」

「そういって頂けると来た甲斐があります。」

最近は極道の世界でもデーターなどは全てパソコンに入れておくことが多いようだ。紙だと証拠になりやすい。だから、デジタルデーターとしてすぐに持ち出しできるようにしておけば、警察の突然の捜査にも対応しやすいとのこと。しかし、皆が皆、詳しい訳ではない。それが、例え、東城会のトップの大吾さんだったとしても。
頼まれたPCデーターの修復を終わらせ、データーの中身を確認し終えると日付は変わっていた。もう、夏は眠っているかもしれない。後で、メールでもしておこう。そう思っていると、大吾さんが声を掛けてくる。

「峯、まだ時間はあるか?」

「あぁ、まぁ、大丈夫です。」

そう話すと大吾さんは自分の顔を覗き込んでいる。何か、変なことでも言ったのかと思いあぐねていると、大吾さんはにやりと笑っている。

「良い事あったんだろ。」

「えっ…。」

動揺していると、大吾さんは嬉しそうに顔に書いてあると言われる。そんな事ないですと言い返すが、大吾さんは言わなくても、わかってると肩を叩いている。本当に不思議な人だ。

「じゃあ、酒も飲める所でゆっくり聞かせてもらうとするか。」

「あんまり長いのは困りますよ。」

「それは峯次第だな。」

大吾さんの用意してくれた車に乗り込んで神室町に。車の中で話せばいいのに、なぜかまだ話す気にはなれない。やっぱり、酒がないと始まらない。大吾さんは終始ご機嫌でまだ自分は何も話していないのに、嬉しそうにしている。こういう所がこの人の良い所で、多くの人を惹き付ける所なんだろうな。人というのは自分にはないものに強く憧れる。それは自分も然り。やっぱり、いい顔をしている人だ。車を降りて、いつものバーへと並んで歩く。そう、いつもの日常。

でも、今日は違っていた。

峯!!

そんな声が聞こえた。さっきまで、大吾さんの声とは違っている。でも、自分はまだ状況がわかっていない。そうだ、視界が暗い。真っ暗だ。ようやく、わかったのは。自分が倒れているということ。そして、嗅いだことのある香り。

血の匂い。

ようやく閉じていた目を開けて、思わず痛みで目を顰める。大吾さんは、怒ったような顔で側近の人に指示を出している。こういう時に冷静になれるのはやっぱり、そういう場に慣れているんだなと妙に冷静に分析している自分がいる。

「峯、すぐに救急車が来るから、大人しくしてろ。」

「大吾さん…。」

「いいから、無理に喋るな。」

「はい…。」

さっきも十分眠ったのになぜか瞼が重くなって眠気が押し寄せてきた。傷はそんなに深くない筈だ。痛いけれど、我慢できる。ちょっと、驚いただけだ。そう、自分に言い聞かせて目を閉じる。

まだ、こんな所で死ぬ訳にはいかないのだから。

意識が落ちる中、大吾さんが必死に自分の名前を呼んでくれている。
あぁ、そうだ。この状況。
あの時と同じだ。夏と初めて会った時と。

そう、俺は彼女をずっと前から知っている。

01



|

top

×
- ナノ -