「どうしても、今日じゃないと駄目ですか?」
「まぁ、年明けでも構わないですけど、痛みますよね?」
「はい…。」
「じゃあ、今日やっておいた方がいいですよ。」
「じゃあ、お願いします。」
先生がいなくなったのを確認してため息をひとつ。どうしてこのタイミング!そう思いながらも予期せぬ出来事で防ぎようはない。
「じゃあ、麻酔をかけて抜きますよ。」
「はい…。」
次の日は麻酔も切れて腫れてくるようだ。淡々と作業をする先生の姿が視界に。この感覚はどこか美容院に似ている。長い髪を短く切るといったときにウキウキしている美容師さんの姿と今の先生の姿。まさに腕の見せどころといった感じなのだろう。
観念した私は目を閉じる。ゴリゴリと特有の音がするが、痛みはない。麻酔が切れたら痛いんだろうなぁ。あぁ、どうして、私はクリスマス前に親知らずを抜いているんだろうとそんな事をふと。
「じゃあ、1週間くらいは安静にしてくださいね。」
「そんなに!!」
「抜いたところから菌が入らないように、2、3日は食べるときも注意してください。」
「えっ!!」
やっぱり、年明けにすればよかったと頬をさすりながら先生の話を耳に入れていく。痛み止めと抗菌薬も処方されるそうだ。麻酔が切れると、痛いのだろうか。不安になっていると質問がありますか?と聞かれる。
「えっと…。」
「なんでも気になることは聞いてくださいね。」
「キスとかもダメですかね?」
「えっ…。」
一瞬ぽかんとした様子の先生だったが、目の前のカレンダーを見て納得しているようだ。そして、出た答えは菌が入るんで…と濁した回答が。
はぁ…。
薬をもらい、歯医者を後に。どうしよう…。明日は真島さんと初めて過ごすクリスマスなのに。今の自分の姿を見ながら、ため息しか出ない。楽しそうに準備をしていた真島さんにどの面下げて会えばいいのだろうか。
はぁ…。
…といっても帰る場所は同じで、顔を合わせないわけにもいかない。今はまだ腫れていないけれど、すぐに腫れてくるだろう。そんな姿を見られたくない。当たり前だ。好きな人の前では綺麗でいたいと思うのは誰もが持ち合わせている感情なのだから。
真島さんからは、【歯医者どうやってん?】とメールがきているが、返信できていない。どうするべきなのか。考えている内に家についてしまった。結局、何の解決もしていない。
ガチャリ。
鍵を開けると、真島さんはまだ帰宅していなかった。良かった。とりあえず、薬を飲んで今日は寝よう。いつもだったら一緒に眠るベッドにはいかず、自分の部屋にあるベッドに向かう。そしてリビングにはメモを。
【親知らずを抜いてきました。しばらく安静なので、部屋でおとなしくしています。クリスマス楽しみにしていたのに、すみません。】
メールにはあえて返信せず、そのまま電源を切って、ベッドに潜る。残念な顔をした真島さんに会いたくないからだ。だって、知っているんだ。今年のクリスマスを真島さんはとても楽しみにしていたから。
あぁ、やっぱり私は世間知らずだな。
もっとちゃんと調べておけば、良かった。抜く前の痛みよりも今の方がずっと痛い。歯ではなく、胸が。
◆◇◆
12月に入った頃から真島さんはいつも以上に楽しそうにしていた。部屋には早々にツリーを飾って、どないしょうかのぅ…と飾りをひとつ、ふたつとつけていっていた。私もそんな真島さんを見て、純粋に楽しみにしていた。日にちが近づくにつれて、同じように気持ちも高ぶっていっていた。
そんな時だった。
「うーん…。」
「どないしたんや、椿?」
「なんか歯の奥が数日前から痛むんですよね。」
「虫歯かいな。年末になったら休みになるし、早めに診てもらった方がええんとちゃうか?」
「明日仕事が終わったら、行ってきますね。」
「やること大してないんやったら、午後から休みにしてええで。」
「ほんとですか?」
特に急ぎの仕事もなかったので、真島さんの申し出は純粋にありがたかった。お言葉に甘えて、明日は歯医者に行こう。うん、これでクリスマスも思いっきり楽しめるとそう思っていたのに…。
ズキズキズキ…。
ベッドで小さくなって包まっている内に眠っていたようだ。頬の痛みで目が覚めた。薬は飲んでいたが、やはり痛む。鏡で顔を見ようかと思ったが、やめた。触っただけでも、腫れているのはわかったからだ。
冷やしておいた方がいいかも。
恐る恐るベッドから降りて、ドアを開ける。どうやら、まだ真島さんは帰ってきていないようだ。冷蔵庫の中に保冷剤があった気がする。こそこそと動きながら、どこにあったかなぁと探し始める。
ガチャリ。
ガサガサと音を立てて探していたので、ドアが開いた音に気付かなかった。そして、ちょうどその時、私はお目当ての保冷剤を見つけて、頬にそっと当てていた時だった。
「椿、帰って来とるんやったら、連絡くらい返さん…。」
「ま、真島さん…。」
普段と違う私の様子に驚いたようで、私に近づいてくる。ま、まずい。私は顔を見せないように俯いたまま、自分の部屋へと一目散に。そして鍵を閉める。
「椿、何があったんや!ここ開けんかい!」
「メモを置いてあるんで、それを見てください。」
真島さんの足音が遠くなって、静かになる。私の書いたメモを読んでいるようだ。そして読み終わったのか、再びドアに近づく足音。
「椿、大丈夫か?」
「…少し痛いです。」
さっきは少し怒ったような口調だったけれど、今は少し穏やかな口調になった真島さん。メモを見て理解したのだろう。顔を合わせていない分、私も素直な気持ちが言葉に。
「出てきてくれんかのぅ…。」
「それはちょっと…。」
頬を冷やしながらドアを背にしてその場に座り込んでいる私。今の顔は見られたくない。きっとパンパンに腫れて可愛くないのはわかっているからだ。すると、ドアの方から少し物音が。どんと背中に何かが当たるのを感じた。真島さんも同じように腰かけているのだろうか?
「人ってのは不思議なもんやのぅ…。」
「えっ…。」
「いつの間にか、どんどん欲深いようになっとるねん。初めは、椿が真島建設にこのままずっとおってくれたらええなぁって思てたんや。」
「…………。」
「それでええと思てた筈やのに、もっと椿と一緒におりたいってなってのぅ…。」
「はい…。」
「今は、椿の顔を1日の最後に見んと落ち着かんようになっとる。」
「真島さん…。」
大切にしてくれているのは重々わかっていたけれど、こんな風に思ってくれていたなんて…。頬が熱くなるのを感じる。勿論痛みからくるものではない。嬉しさからくる熱。
「…でも、私、真島さんに合わせる顔がないです。」
「明日のことかいな?」
「はい…。」
真島さんと過ごす筈だったクリスマスの予定をぽつり。昼間はクリスマスマーケットを覗いてホットワインを飲んだりウインナーを食べようと話をしていた。夜はまったりおうちで映画でも見ようと話していた。何か外で食べ物は買ってきてもいいし、ケータリングにしてもいいしと。そんな楽しい話はすべて水の泡だ。話していると、段々悲しい気持ちがこみ上げてくる。真島さんと過ごす初めてのクリスマスは今年しかないのに。
「ほんま、アホやのぅ、椿は。」
「えっ…。」
私の話を聞いて、そう告げる真島さん。確かにアホだ。親知らずを抜いて頬をパンパンにしている世間知らずな女。真島さんにはっきりと言われて、涙がぽろり。私が急に黙り込んだのを感じたのか、真島さんはすぐにちゃうちゃうと言っている。
「何が違うんですか!」
「ええから、早よ、開けんかい。」
話はそれからやと言われて、恐る恐るドアの鍵を外す。目の前に現れた真島さんは心配そうな目で私を見る。そしてそっと頬に触れる。ただそれだけのことなのに。その所作はとても私を大切にしてくれていることが手に取るようにわかる。
ほんと、私は何も真島さんに返せていない、なにひとつ。
「椿がこうやっておるだけで十分なんや。」
「真島さん…。」
優しく抱き留められて、涙腺は崩壊する。その温もりですべて言いたいことがわかった。しばらくそうしていたが、落ち着いてきたので顔を上げる。真島さんは私をじっと見つめる。
「なんも明日に拘らんでもええ。治ったらゆっくりクリスマスを仕切りなおしたらええんや。」
「真島さん…。」
なんて人なんだろう。本当に器の大きな人だ。改めて私はこの人のことを好きになって良かったと思えた。真島さんはそっと顔を近づけてくる。私もそのままそうするつもりでいたが…。
『抜いたところから菌が入らないように、2、3日は食べるときも注意してください。』
キ、キスは駄目!
近づいてくる真島さんの唇を手でそっと押さえる。途端に真島さんはしかめっ面に。私は歯医者さんで受けた説明をする。真島さんはそこでようやく合点がいったようで納得してくれたようだ。
「治ったら、ちゃんとクリスマスしましょうね。」
「そうやのぅ…。」
あれ?なんかさっきと違って曇った顔の真島さん。いつものように真島さんとベッドにいるが、なんだか様子が変だ。真島さんと呼びかけると深いため息が落ちている。
「クリスマスはしゃあないにしても、お触りが禁止なんはキツイのぅ…。」
「キスのことですか?」
「せや。ほんま殺生なことやで。」
「治ったらたくさんできますから。」
「…わかっとる。」
ちょっと拗ねたような声で私の胸元に顔を落とす真島さん。珍しい行動だな。そう思いながら、頭をそっと撫でる。色々とできない分、できることはしてあげたい。これがそれになるのかはわからないが…。
「メリークリスマス、真島さん。いい夢みましょうね。」
「はぁ…。ええ夢見れるかのぅ、今日は。」
いつの間にか24日に日付は変わっていて、言いたかったことを伝える。拗ねていた真島さんも口数が減って寝息が聞こえている。今日はこのままこの状態なのかなぁ。まぁ、仕方ない。私も瞼を閉じて眠りに落ちる。
何にもできなかったクリスマス。けれど、私にとって、それは一番大切なものをわからせてくれた大事な日になった。
後日、真島さんからたくさん愛が詰まった仕切り直しのクリスマスは言うまでもなくアマアマなものだった。
「…じゃあ、これで大丈夫ですね…。」
「ありがとうございます。」
この前と違って妙によそよそしい先生。無事に抜いたところも問題はなかったようだ。先生の態度がおかしいまま治療が終わり、受付に。そこでその謎が解けることに。
「あの人は、高城さんの恋人ですか?」
「はい?」
受付の女の人が数日前に真島さんが来てくれたことを話してくれた。それは鬼気迫る感じで先生に詰め寄っていたそうだ。
「何を聞いたんですかね?」
「あ、それは…。」
少し声のトーンを下げて言われたことを聞き、顔が真っ赤になる私。なんてことを聞いてくれたんだ…。折角いい歯医者さんだったのに、もうここは来れないのかもしれない。恥ずかしさでいっぱいになりながら急いで会計を済まして外に。
「先生!いつになったら椿とキスできるんかのぅ…。」
真島さんが先生に詰め寄って問いただした様子を浮かべながら、帰宅の途へ。
今日は思う存分、キスを与えようとそっと心に込めて。
Pain Christmas
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